悪しき風習にて妻を燃す
視点がヒロインとヒーローで交互に変わります。読み辛かったら申し訳ない。
夫が死んだ。
年の離れた夫とは村の風習に則ってお互い初対面で婚姻を結んだ。過疎が進む村を存続させるために必要な結婚だと覚悟した上で一緒になったが、年の離れた夫は私を大切にしてくれて結婚生活は思っていたよりも穏やかに過ぎていった。このままこの優しい夫と親子のように小さな愛を育みながら老いていくのだろうとぼんやり考えていた矢先、夫が流行り病に倒れた。懸命な治療の甲斐も無く日に日に弱っていく夫。意識を保っていられる時間も徐々に減りただ苦しげな顔で眠る彼を看病しながら我が身に降りかかるであろう恐怖に体を強張らせる。死なないで。私を置いていかないで。私を未亡人にしないで。
「コ、コ…」
「…なぁに。喉が渇いた?」
「ココ…村を、出…さい」
「…え?」
「逃げ…村を、出て…、だめだ…だめ…逃……」
夫は私に逃げろと言い残して息を引き取った。冷たくなっていく手を握りながら夫が死んだことよりも身の安全について考える私はなんて薄情な妻なんだろう。小さな家には私と夫しかいない。医師の次の往診は明日の昼。逃げるなら今しかない。
「あなた…ごめんなさい。あなたと結婚できて、私は幸せだったと思うわ」
静かに夫の額にキスを落とし彼の顔をシーツで覆うと私は荷造りを始めた。
闇に紛れるように黒いローブを頭から被って森を彷徨う。どこへ向かうかなんて決めていない。とにかく村から少しでも離れるために足を動かす。夫の死が見つかるまであと半日しかないのだ。休んではいられない。ガサガサと自分の足音以外は風の音と虫の声だけが聞こえる。木々が生い茂った森では月明かりですら届かず、小さなランタンの灯だけで歩を進めた。どこかに小川でもあれば喉の渇きが癒せるのだが耳を澄ませてみてもその気配は感じ取れない。
「はぁ…はぁ…ふっ…はぁ…」
頭に思い浮かぶのは死の間際まで私の心配をしてくれていた夫のこと。最期を看取ることはできたが親族も子供もいない彼を一体誰が手厚く葬ってくれるのだろう。まして妻に逃げられた彼を誰が…。夫を思えば思うほど涙が溢れて視界が歪む。一般的な夫婦の愛情の無い結婚だったはずなのに、振り返って見れば夫はちゃんと私を愛してくれていた。そして今この時、私は確かに死んだ夫を愛しく思っている。ああ、もっと夫婦として仲睦まじく暮らしていれば良かった。愛を囁きあっていれば良かった。後悔ばかりが押し寄せるが、私を村から逃がすことが夫の最期の願いだと言い聞かせて涙を拭った。
「止まれ」
不意に聞こえた低い声に心臓が跳ねる。人がいる。一体何処に。なんの気配もしない。どこから声が。村の男か。もう気付かれた…?ぶわっと全身から汗が吹き出て急激にサーっと寒くなる。足が震えて上手く息が吸えない。
「そのまま手を上げろ」
腹に響くような声からしてきっと相手は大柄の男だ。おそらく私が思っているより近くにいるのだろう。友好的な雰囲気は皆無だがここで抵抗すれば最悪この場で殺される。私はランタンを持ったまま両手を顔の横まで持ち上げる。手が震えているせいでチラチラと灯りが揺れる。
「フードを外せ」
カサリと葉を踏み締める小さな音。後ろから近付いて来ている。荒い呼吸音はしないので冷静なのだろう。空いた手でゆっくりとローブのフードを落とすと纏めていた髪が解けてふわりと背中に広がった。
「…女?」
「お、女です…。武器は持っていません。抵抗も致しません」
震える声でそう言えばぐんと近付いてくる足音。ガタガタと震える体はまったく言うことをきかずに先ほどとは別の意味で涙が溢れてきた。
あっと思った瞬間、上げていた両手を大きな手で一纏めに掴まれ、もう一方の手は腰に回されガッチリと固定された。
「どこの者だ。こんな夜更けに闇に紛れる装いで女が1人など…密偵か」
「ち、ちがっ!ほんと…違います…っ!」
生まれて初めて男性に抱き締められるシチュエーションがこんな命の危機に瀕しているだなんてあんまりだ。こんなことならば夫に抱きしめてもらえば良かった。ああ、私達は夫婦だったのに抱きしめあったことすらなかったのか…。抱きしめると言うには強い力に腹部を圧迫され、まだ若く健康だった時の夫の笑顔を脳裏に浮かべながら私は意識を手放した。
――――――――
単独任務の帰り道。少しでも早く国へ戻ろうと危険を顧みず夜の森をつき進む。鬱蒼と生い茂る木々によって月明かりすら遮られ足元すら朧げな視界の中、ふと揺れる灯りを見つけた。すぐさま身を低くして腰に下がった剣へ手を伸ばす。あちらはまだ俺に気付いていないようだ。小さく頼りない灯りだが暗闇の中ではとても目立つ。あれでは自分の存在を知らせているようだ。密偵か間者だとしてはえらく間抜けな行動だこと。
静かに足音を忍ばせ息を殺して灯りに近付く。木に遮られながらちらちらと見え隠れするそれは移動しているがその速度は決して早くはない。まさか迷い人?こんな夜中に、こんな森に?もしどこかの国の軍に所属しているような人間ならばそろそろ俺の存在を察知しても良い頃だが灯りを持つ人間は止まらずに歩みを進めている。一体奴は何者だ。
「止まれ」
短く静止の声を掛けると灯りはピタリと止まった。
「そのまま手を上げろ」
ゆっくり、ゆっくりと灯りが上がり、やがて奴の風貌が見えてくる。暗い森に溶け込むような真っ黒なローブを羽織りフードまできちんと被っている。迷い人にしてはおかしい。闇に紛れるよう計画的な格好だ。やはり密偵か。
「フードを外せ」
振り向きざまに剣を抜かれるかもしれない危険を注意しながら奴に近付く。随分と小さい。震えているのか灯りが小刻みに揺れている。もどかしいほどゆっくりとフードが落とされ、それと同時に闇夜でも輝くような美しい銀の長い髪が広がった。
「…女?」
「お、女です…。武器は持っていません。抵抗も致しません」
女が1人で黒いローブを羽織って夜の森にいる、そんなの敵でしかない。素早く彼女の両手を纏めて体を拘束する。驚くほど細い。こんな体で単独の任務を任されているなんてもしややり手か。ぎゅっと抱き込んで顔を確認すれば…予想外にその顔は涙に濡れていた。
「どこの者だ。こんな夜更けに闇に紛れる装いで女が1人など…密偵か」
「ち、ちがっ!ほんと…違います…っ!」
ガタガタと震える女は音を立ててランタンを落とすとそのまま気を失ってしまった。くたりと持たれかかる体は意識を失って尚軽い。大人しくなったのを良いことにランタンの小さな灯りを頼りに彼女を調べることにする。
ふわりと流れる銀の髪に武器や毒などは仕込まれていない。
ローブの内にも外にも武器は無く、何かを隠せるようなポケットも無い。
毒が仕込まれていそうなアクセサリーの類も無い。
背負っていた鞄をひっくり返しても僅かな食料と金、懐中時計にランタンの予備の油くらいしか入っていない。
服の上から隈なく手を這わせても武器や毒を隠している様子はなく、靴は森を歩くには適さない柔らかい布の靴で何かを仕込んでいる可能性すら消え去るほどボロボロだ。
まさか、本当に迷い人?彼女自身を証明できる物は何も無く、何処から来て何処へ向かっていたのかも分からない。一人で心細く森を彷徨っていたとすれば酷く怖がらせてしまったことだろう。申し訳なさを感じて着ていた外套をローブの上から彼女にかけてやり、一向に目を覚まさない小さな体を背に乗せた。
一先ず帝都へ連れて行こう。気が付いたら侘びとして目的地まで運んでやろう。
夜通し森を歩き、朝日が上る頃にようやく見知った町並みが見えてきた。背の女性はずっと眠ったままだ。1人暮らしの男の家に連れ帰るのは気が引けたが他に連れて行く場所と言えば軍しか無いので彼女には申し訳ないが自宅へと向かわせてもらう。半月ほど空けていた家は空気が篭っていてなんというか…男臭い。家具には予め埃避けの布を掛けていたのでそれを外して彼女をベットに寝かせる。そしてすぐさま家中の窓を開けて回った。そろそろ体臭を気にしなければならない年齢か…。
手早く風呂に入り、任務中の汚れ物が入った鞄をそっくりそのまま洗濯機にぶち込む。売り出されたばかりのこの油圧式洗濯機という機械は安くない買い物だったがお値段以上の快適さを与えてくれる。買って良かった。濡れた髪をタオルでガシガシと拭きながら水っぽい珈琲を入れてようやく一息吐いた。あと数時間もしないうちに出勤して任務の報告をしなければならない。今回の仕事はクソだった。俺じゃなくてもっと下の者に行かせて場数を踏ませてやるべき案件だった。そのことも報告しなければ…。
「ん……えっ」
寝室から小さな声が漏れ聞こえてきた。彼女が起きたようだ。なんとなく髪を撫で付けながら様子を見に行けば俺用の大きなベットの端っこで小さくなって丸まっていた。小動物が防衛本能で丸まっているみたいで笑える。
「起きたか。気分はどうだ?」
「あっ……だ、だいじょう、ぶ…です」
「腹が減っただろう。長く家を空けていたせいで簡単なものしか出せないが飯にしよう」
半月も不在にしていたため食料庫には保存食である乾きものと固いパンくらいしかない。無いよりはマシだろうと何の飾り気も無い皿にそれらを並べ、自分のものより幾分濃く淹れた珈琲を用意する。しまった、砂糖もミルクもない。
彼女は黒いローブの裾を床に引きずりながらおずおずと現れた。あの美しい銀の髪は全てローブの中に仕舞われていて見ることが出来ないが、初めてきちんと見た彼女の瞳は珍しいアメジストであった。
「昨夜は突然すまなかった。あんなところに女性が1人だなんて常識的に考えて敵国の人間だと思ってしまってね。大丈夫、君は君が言うように無害の女性らしいことは分かった。どうか朝食の席を共にしてくれないか?」
「は…い…」
「珈琲はブラックで飲めるかい?すまないが甘みを足すものが無くて…」
「だい、じょうぶ、です」
彼女はローブから少しだけ出した指先でカップを持つとふぅふぅと息を吹きかけて珈琲を飲んだ。飲物に何か薬が入れられているかもしれないという警戒は皆無。すみません、いただきます、と小さく言って食事にも口を付けた。昨夜見せた脅えも無く落ち着いているように見える。ある意味、諦めたとも。
「君の事を聞いてもいいか」
「…答えられることでしたら」
「ではまず、君の名前は?私はアルベルト・アルダンという」
「私は…コレットです」
「コレット。良い名だな。姓は?」
「…い、言いたく、ありません…」
「…分かった。では出身は?どこから来てあの森を歩いていたのだろうか」
「…それも…言いたくありません…」
「ふむ。では何処へ向かっているんだ?」
「…何処…決めていません」
家出か脱走か。姓を言えないのは特徴的な名前で家を特定されることを恐れているのか。出身が言えないのも同じ理由?良いところの娘にしては痩せ細っているし、使用人やそれ以下の身分だとしたらあれほど美しく長い髪は保てないだろう。
「これからどうするつもりだ」
「…西へ。とにかく遠くに…」
西へ遠く、ということは彼女の出身は東ということか。ここより東に位置して訛り無く公用語を使う町…ある程度は絞れそうだな。
「年齢を聞いても?」
「…19になったばかりです」
成人をしていてこれほどの華奢な体つきは遺伝か栄養失調か。服も靴も庶民が身に付けるような生地だが劣化が酷い…貧困層だったのか。不躾とは思いつつじっくりと彼女を観察していると不意に彼女の瞳が大きく見開かれた。なんだ?何か見つけたのか?
「あの…」
「ん、なんだ」
「…私は殺されるのでしょうか」
――――――――
気を失って、目が覚めると見知らぬ寝台に寝かされていた。素朴だがかなりの広さのある部屋の窓際に置かれた寝台。窓にはカーテンが引かれているが合間から光が差し込んでいて日が変わったことを教えてくれる。何が…あったんだっけ…。
そうだ。夜の森で急に声を掛けられて捕縛されたんだ。ではここは独房?それにしては綺麗だし寝台のシーツも生成りだが質の良いものだ。枕もふかふか。傍らの小さなテーブルには着ていた黒いローブが畳んで置いてある。
あの時の男性は…私を害する人ではない?
「起きたか。気分はどうだ?」
現状を把握しようと寝起きの頭を懸命に働かせていると、軽いノックと共に扉の向こうから声がした。多分、昨夜の彼だろう。声色に威圧はなさそうだ。もし私が捕縛されていたとしたら例え女であろうとノック無しに部屋に入ってこられるだろう。紳士的な行動に少しだけ安堵する。
「あっ……だ、だいじょう、ぶ…です」
「腹が減っただろう。長く家を空けていたせいで簡単なものしか出せないが飯にしよう」
食事…と思った瞬間にけたたましく腹が鳴った。我ながら図太い。逃走中の身なのだから暢気に朝食をとっている暇なく早く遠くへ行かなければならないのに、何故だか昨夜の記憶にある彼の側にいれば安全なのではないかと無用心な考えが浮かぶ。
結局空腹に負けて部屋を出た。意味が無いとは分かっているが念のためにローブをすっぽりと被って出て行ったがそれに関して何かを言ってくることは無く、彼の目の前の椅子に薦められるままに腰を下ろす。差し出された皿には干し肉とパン。それと黒い飲物。なんだこれは。でも香りは凄く良い。ブラックがどうとか聞かれたが意味が分からなかったので大丈夫と答えたが、口を付けたそれはとんでも無く苦かった。苦味から逃げるように干し肉に手を伸ばし、味わうようによく租借する。噛めば噛むほどじわりと旨味が広がって夢中で食べた。パンも噛み応えがあったが村で食べていたものとは違い小麦の香りが鼻に抜けて凄く美味しい。この人はお金持ちの人なのだろう。赤の他人の私にこんな素晴らしい朝食を無償で提供していただけるなんて裕福な人に違いない。
食事を終えると彼からいくつか質問を受けた。当然の疑問だとは思うけれどどうしても夫と同じ家名や村の名前は教えたくなかった。彼…ええと、アルベルトさんは親切な人だけれどどこでどう村と繋がるか分からない。…まさか村からもう捜索隊が出されて私を探している?アルベルトさんも捜索隊の1人で私を逃がさないように時間稼ぎをしている?
ふと彼の背後に置かれている長椅子が目に付いた。彼の荷物だろうか、大きな鞄が投げ出されている。その中にとんでもない物を見つけてしまった。
あれは…剣?
村には逃げだす妻を連れ戻すために数十人からなる捜索隊が組織されており、彼らは皆腰に剣を下げている。見つけた妻の足の腱を切って逃げられないようにするためだと聞いた事がある。捜索隊のメンバーは秘匿となっていて誰が追ってくるのかが分からないようになっている。以前逃げだした女性は幼馴染の男性によって捕まえられ、両足首を血濡れの包帯でぐるぐる巻きにされながら肩に担がれて戻ってきた。あの時の「どうしてアンタが…!!」という女性の悲痛な叫びが数日耳から離れなかったのを覚えている。
ああ、私もそうなるんだ。
「あの…」
「ん、なんだ」
「…私は殺されるのでしょうか」
なんて不毛な質問だろう。私の未来には死しかない。それでも村に連れ帰られるくらいなら…今ここで切り殺されるほうが幾分マシだろうか。いや、でも夫が死の間際に願ってくれた私の無事を私自身が諦めることはできない。夫を全うに弔いもしなかった妻の最後の勤めだ。
「え、あ、すまない。昨夜は怖い思いをさせてしまって本当に申し訳ない。俺は君を傷付けたりはしない。約束しよう。君の安全を確保するためにもこの後一緒に来て欲しいところが…」
やっぱりこの人、捜索隊の人だ。随分と遠い場所まで来たような気持ちになっていたがここはきっと村から然程離れていないのだろう。私が家を出た後に誰かが尋ねてきて夫の死を知られてしまったのかもしれない。このままでは村に戻されてしまう。
私は慌てて立ち上がり、先ほどまでいた寝室へ飛び込んだ。把握している外への出口が寝台横の窓しかないからだ。ここが何階なのかも分からないが飛び降りても死ぬことはないだろう。カーテンを剥ぎ取るように開けて窓を開ける。抜けるような青空が飛び込んできて一瞬くらりと頭が揺れたが構うものかと手摺に足を掛けた。思っていたよりも高い。おそらく3階か。遠くに見える地面はレンガで舗装されているようで赤茶色だ。靴は脱がされていたので足元は裸足。背負っていた鞄は見当たらなかったが致し方ない。フードを深く被り、目を閉じて力の限りに手摺を蹴った。
「何してんだ馬鹿野郎!!」
足が宙に浮いたと思った瞬間、腹部に太い腕が回って強い力で引っ張られた。体がばふんっと寝台に投げ出され、固く閉じていた目を開くと至近距離にアルベルトさんがいる。
「い、いやっ!いやだっ!!離して!いやだぁ…っ!!」
手足をバタつかせてめちゃくちゃに暴れても彼はがっちりと私を抱き締めたままじっとしている。逃げなければ村に連れて行かれる。村に帰れば殺される。逃げなければ殺される。ボロボロと涙が溢れ、呼吸が乱れて咳が出る。いくらアルベルトさんの体を叩いたり蹴ったりしても離してはもらえず、体力の無い私の抵抗は長くは続かなかった。
「うっ…や…いや…」
「コレット」
「やぁ…っ!」
「コレット落ち着いて」
「ふっ…ぅっぅ…」
「大丈夫。俺は君の味方だ」
アルベルトさんは優しい声で「大丈夫」と繰り返し背中をぽんぽんと叩いてくれる。まるで子供をあやす様で不本意ながらほんの少しだけ気持ちに余裕が生まれる。
「はなっ…離して、ください…ゆるして…見逃して、ください…」
「こんなに取り乱している君を離すことなんてできないし、俺は何も怒っていない。君は何に脅えているんだ。どうか俺に教えてはくれないか。きっと君の力になってみせるから」
「教える、ことなんて…ないです…。私を、逃がして…」
「どこに逃げるんだ。俺も一緒に行く。俺が君を守ってみせる」
守るってなに。あなたが私を村に連れ帰ろうとしているんじゃないの。思わず顔を上げると眉を下げたアルベルトさんが心配そうに私を覗きこんでいた。とても嘘を付いているようには見えない、が、全面的に信用するわけにもいかない。どうすることが一番良い方法なのか…。
ジリリリリリっ!
私が答えかねていると鐘のような音がけたたましく鳴った。ビクッと肩を震わせて音の出所を探しているとアルベルトさんが私を抱き締めたまま深い溜息を吐いた。彼はこれが何の音か分かっているようだ。
「コレット。君はここにいて。絶対に窓から逃げたりしないでくれ。いいかい?自分で言うのもあれだが、俺は君の役に立てる男だ。だから安心してここにいて欲しい」
ジリリリリリっ!
アルベルトさんが話している間にも音は消えたり鳴ったりを繰り返している。
「少しだけ君の側を離れる。ほんの少しだ。逃げないと約束してくれ」
「は…はい。あの…これは、何の音で…」
アルベルトさんは再三私に逃げるなと念を押した上でゆっくりと立ち上がり眉間を指で揉みこんだ。何だかとても嫌そうに見える。
「これは…玄関の呼び鈴だ」
――――――――
コレットが突然立ち上がり、駆け出したことに驚いて初動が遅れた。銀の髪がまるで流れ星の尾のように揺らめく様に見惚れ、はっとして彼女の後を慌てて追う。俺が寝室に入った時、コレットは開け放たれた窓の手摺に足を掛けていた。飛び降りる気か!!その時の俺は過去最高の瞬発力を発揮しただろう。彼女の足が宙に浮いて落下する寸前、何とか腰に腕を回して思い切り引き寄せた。緊急事態のため力加減が調整できず、コレットがベッドのスプリングでバウンドをする。そしてぎゅっと閉じていた目を見開くや否や、先ほどまでの大人しさが嘘のように暴れた。なりふり構わず暴れて嫌だ、離せと叫ぶ。正直こんなに細く儚げな女性がいくら暴れようと痛くも痒くもないが、彼女の悲痛な叫び声に胸が痛んだ。一体コレットは何に脅えているのか。彼女は何から逃げていると言うのか。
やがて暴れ疲れたのか静かになったコレットはローブに顔を埋めながら泣いた。小さな頭を胸に抱き寄せて背中をぽんぽんと叩いて落ち着かせるが「逃げたい」と繰り返すばかりで不安の原因を教えてはくれない。昨夜の俺はどうしてこんなにも弱弱しい女性を密偵だと怪しんだのか。初めての接触がもっと穏やかなものならばコレットも心を開いてくれたかもしれないと思うと後悔に襲われた。彼女を…守ってやりたい。
ジリリリリリっ!
けたたましい呼び鈴が家中に響き渡る。コレットの肩がビクッと震えた。今は彼女を動揺させる全てに苛立つ。どうせトールが呼びに来たのだろうことは分かっている。単独任務が多い俺は任務完了予定日の翌日に軍に報告を上げることとなっているが疲労と眠気からよくそれをボイコットしている。そのため業を煮やした上官がその日の朝に同僚で家が近いトールを向かわせて「叩き起こして引きずってでも連れて来い」と命じているのだ。
コレットに再三逃げないでくれとお願いしてから玄関へと向かう。
「あ、珍しい。お前が寝起き姿じゃないなんて初めてじゃないか」
「急用ができた。何より最優先緊急事態だ。上には「全て恙無く完了」と報告しておいてくれ。じゃ、」
「じゃ、じゃねえよ!なんだそれ、最優先緊急事態ぃ?むしろそっちの報告の方が重要そうに聞こえるんですけど!」
「うるさい。お前には関係ない。さっさと出勤しろ」
「ちっちっち、アルは俺の洞察力を甘く見ているな。それ、ぼろぼろだけど女物の靴だよな。なぁに、あっちの女でも拾ってきてしっぽりやってるってか?」
「黙れケダモノ。今すぐ記憶を消してやるから頭出せ」
「ぅおぉっ!やめろやめろ!お前に本気で側頭部殴られたら記憶飛ぶどころの騒ぎじゃねぇから!」
ああ、本当にうるさい。うるさいトールの相手をしながら俺の全神経は背後にある寝室の扉に集中していた。少しでも物音がしたか駆けつけられるように。
「って、冗談は置いといて。マジでなに隠している。俺たちは軍人だぞ。個人の身勝手な行動は組織を壊しかねない」
「トール、悪いが今はまだお前にも何も言えない。というか俺も手探り状態なんだ」
「ふぅん、それでそんなに警戒しているわけか。俺じゃなく、その女に対して」
「彼女は悪い人間じゃない。むしろ何かから逃げているんだ。俺は彼女の力になりたい」
「クールが売りのアルが偉い入れ込みようだな。気の置けない友人兼同僚兼部下が協力者になって損はないと思うけど?」
「トール、本当にまだ彼女に関してなにも分かっていないんだ。あの脅えよう…もしかするととんでもないものから逃げているのかも…」
―ギシ
小さな音がした。
俺は話しの途中だったが構わず室内に走って寝室へ駆け込む。
「コレット!」
「っひゃ!」
コレットはベッドの上にちゃんといた。今まさに床に足を付けようとしていて動いた際にスプリングが鳴ったのだろう。窓に向かっていないのならそれでいい。
「ああ、すまない。驚かせたな。どうかしたか?」
「あ、あの…私の荷物…」
「君の鞄ならこっちに」
「え、なにその子。天使?めっちゃ可愛い」
彼女に問われた鞄を取りに行こうと振り返ると直ぐ後ろにトールがいて俺の肩越しにコレットを凝視していた。反射的に奴の顔を鷲掴んで視界を遮ったが後の祭り、しっかりと見られてしまった。
「痛い痛い痛い痛い!割れる!頭割れるから離せぇ!!」
「ああ、悪い、つい」
「つい、でダチの頭潰す勢いで掴むな馬鹿力が!!」
ぎゃんぎゃん騒ぐトールにコレットは混乱するよりきょとんと目を丸くしている。まずい、トールは軍の制服を着ている。軍人だと知られれば更に怖がらせてしまうかもしれない。急いで奴を追い出そうと背中をぐいぐい押していると、コレットがポツリと呟いた。
「…騎士様…?」
「え?あー似たようなものだよ。騎士って呼ばれるほど煌びやかではないけど兵士って言うほど泥臭くも無い、微妙な軍従事者です。ちなみにこいつの同僚で友人で部下でっす」
へらりと笑ってみせるトールにイラっとする。お前が彼女に笑いかけるんじゃない。が、予想外のことにコレットは軍の人間だと言ったトールに対して明らかにほっとした様子を見せた。
「アル…ベルト、様も…、なのですか?」
「あ、ああ、そうだ。俺も軍に在籍していて単独任務の帰り道に君と出会ったんだ」
「あ…そう、だったんですか。軍の方…はぁ…」
コレットは深く長い溜息を付くとそのままストンと気を飛ばした。崩れ落ちる体を慌てて支え、ゆっくりとベッドに横たえる。俺達が軍人だと知って安心して気を失う?どういうことだ?
「なぁなぁ、その子訳あり?えっらい美人だけどガリガリだし、服もなんて言うか粗末なものだし。それに今の顔。心底安心したって顔だったよな。盗賊にでも追われていたのか?」
「分からない。本部で保護するか迷っていたんだが、彼女が軍人相手に安心するのなら連れて行ったほうが良さそうだな」
「えー?あの万年欲求不満な獣がうじゃうじゃいる本部にこの子を預けるのか?本気で言ってる?それなら俺が保護するよ。俺はお前と違って遠征とか任務とか多くねぇし」
「駄目だ」
「なんでよ。男だらけの魔窟に1人置いておくより安全だと思うけど?」
「お前も魔窟の人間だからだ」
「ははっ!ひっでぇ!」
とにかく今は報告のためにも本部に行かなければならない。自分の準備を整え、目を覚まさないコレットを彼女のローブですっぽりと覆って横抱きにする。
「え、マジで連れて行くのか」
「保護をする場所は本部長と相談する。意識がない女性を1人置いてはいけないから連れて行くだけだ」
「ふぅん、アルベルト君やっさしー」
「もうお前本当に黙れ…」
アパートの前に横付けされていたのはトールの家の馬車。何を隠そうこいつは実は良いところの坊ちゃんだったりするのだ。御者が恭しく頭を下げながら扉を開けてまずはトールが乗り込み、それに続いて俺とコレットも同乗させてもらう。しっかりとしたタラップは2人分の体重でもビクともしそうにない。彼女の頭をぶつけない様に気を付けながら身を屈めた時、背後から声を掛けられた。
「もし、そこの軍人様」
3-1
少しひんやりとした空気が肌を撫でて意識が浮上する。視界は真っ暗だが感覚からしてローブで包まれてアルベルト様に横抱きにされているのだろう。隙間から侵入して来た外気が気持ち良いくらい少し暑い。何処かに移動しているのかゆらゆらと揺れるが安定感が凄いので不安は無い。むしろ安心する。
捜索隊だと思っていたアルベルトさんは軍人さんだった。村の周辺に軍の本部がある町はないのである程度村から離れられたと分かって安堵した。きっと彼に保護されていたら捜索隊が来ても大丈夫。あの恐ろしい風習を知ってどんな反応をするかは分からないけれど、彼だって狂っていると分かってくれるはず。ほっと息を吐いた時、背筋が凍るような声がした。
「もし、そこの軍人様」
ローブで包まれているのにはっきりと聞こえた男の声。聞き覚えがある。いや、毎日のように私は彼の声を聞いていた。近所に住む郵便配達をしている村では珍しい若い男だ。村の端から端まで1人で荷物を抱えて走り回る彼は人懐こい笑顔と正確な仕事で村人から好かれている。…捜索隊だったのか。
震える体を抱き締めて精一杯声を殺す。私の変化に気付いたのか、アルベルトさんが抱き込む腕の力を強めた気がした。
「なんだろうか。出勤前のため手短に願いたい」
「お忙しいところ申し訳ない。そちらの…そのローブ。それはあなた様のもので?」
「…いや、知人のものだ」
「もしや、持ち主のお方は今あなた様の腕に?」
「…何が言いたい」
アルベルト様の固い声。郵便配達の男はいつもの軽い調子で質問しているが恐らく私がここにいることを確信している。いやだ。いやだ。ローブ越しにぎゅうっとアルベルトさんの上着を握り締めてなんとかこの場を凌いで欲しいと伝える。お願いします。どうか私を引き渡さないで。
「失礼。実は私、人を探していまして。若い女性なんですがね。そのローブの裾、故郷でよく使われている独特な模様だなと目に止まりもしかして…と思いましてお声を掛けさせていただいた次第です」
ひっと引きつった息が漏れる。ローブの模様が村特有のものだなんて知らなかった。草花が複雑に絡み合った模様は小さな頃から見慣れたもので、てっきり一般的に流通しているのもだと。ああ、なんていうこと。
「そうか。探し人とは大変だな。その女性は貴殿の家族か」
「いえ、私はただの同郷です。彼女、大切な儀式の前に行方不明になってしまいましてね。彼女がいなければどうにもならない儀式なんですよ。なのでその腕のお方。どうか確認のためにお顔を拝見させていただけないですかね」
「儀式?」
「ええ、ええ。大切な儀式です」
「内容を聞いても?」
「ええ、もちろん。大切な儀式は…彼女の夫の葬式ですよ」
もうだめだ。
私は暴れてアルベルトさんの腕から飛び降りると静止の声を無視して走りだす。長いローブが纏わり付くが構わず視界が悪いまま足を動かした。
「トール!追え!」
誰も私を追わないで。誰も私を捕まえないで。死にたくない。夫が生かしてくれたこの命を無駄にしたくない。
「お嬢さんっ!!止まって!君は裸足なんだ、怪我をしてしまう!!」
「いやだ!いやだぁ!!離して!触らないで!」
「俺はあの男じゃない!トールです!アルの同僚のトールです!!」
痩せ細った女の足が軍人のそれに勝つわけもなく、私はトールさんに腕を取られそのまま抱き上げられた。はぁはぁと咳交じりの呼吸を繰り返す私と息の一つも上がっていないトールさん。絶対に逃げられない事実を付き付けられていた。
「お嬢さん…ええと、コレットさん?だっけ。あまり悠長にしている時間はないから単刀直入に聞くけれど。君はあの男から逃げているの?さっきの話が本当なら君の御夫君の葬儀の前に逃げてきたって」
「いや…村…連れて行かれたら…こ、ころ…」
「村?故郷に帰りたくないのか?」
「村に…帰ったら、こ、殺される…」
「なっ…!!」
トールさんは驚愕したように息を飲むとしばし黙り、そして泣き喚く私からローブを剥いだ。続いて自身が着ていた軍服の上着を脱いで私の肩に掛けてくれた。
「ローブの裾が見えないように持って。俺の上着で申し訳ないけど顔が見えないように。路地を使って軍の本部まで行くよ。走るからしっかり掴まっていて。大丈夫。俺たちは君の味方だ」
「ふっ…ぅぅ…し、死にたく…ない…」
「死なせないよ。あの男に君を渡さない。俺とアルベルトが守るから安心して」
「う…ゥぁあ…」
溢れ出る涙を上着で隠して精一杯の力でトールさんにしがみ付く。ついさっきまでアルベルトさんに抱き上げられていた時と比べると随分と乱暴な揺れだが、トールさんが私を守るために走ってくれているのだろ思うと申し訳なさと安心感で胸が詰まる。
やがて揺れが緩やかなものに変わったがトールさんは一向に上着を外してはくれない。そのまま誰かと二、三言話したかと思ったら扉の開閉する音が聞こえて建物の中に入ったようだ。ここが彼らの言う本部、というところなのだろうか。今までずっと聞こえていたトールさんの足音が消えて妙に不安になる。無意識の内に彼の服を掴んでいたのか頭上から声が降ってきた。
「コレットさん、安心して。もう軍の本部に入ったから安全だよ。でも他の奴らに君を見せたくないから執務室までこのまま運ぶね。結構走ったけどどこか痛めたりはしていない?」
「あ、ありがとうございます。すみません。痛いところもありません」
「そう。それなら良かった。大分落ち着いたみたいでそれも良かった」
「…すみません」
「そのうちアルベルトも来るから。そうしたら君の事、教えてくれるね?」
あんな場面に出くわして、しかも逃走の手助けまでしてもらって何も説明しないわけにはいかないだろう。それに軍の方に村の内情を知ってもらえればもしかしてあの風習を根絶できるかもしれない。
そっとソファに降ろされ、頭から被った上着も外してもらった。急に飛び込んできた光にしばらく目を細めていたが、室内の様子が見えてくると逆に目を見開いた。深いブラウンで統一された部屋は重厚で威厳に満ちており、壁に添ってずらりと並んだ書棚にはみっちりと分厚い本が綺麗に収まっている。大きな机に高く積まれた書類。傍らには羽ペン。はっとして自分が座っているソファを見れば光沢のある革張りで柔らかくもしっかりとしている。こんな素敵な部屋、物語の挿絵でしか見たことない。
「ふふ。この部屋、気に入った?」
「あ…あの、凄く…素敵…かっこいい…」
「ははは!俺にとっては見慣れた仕事部屋でも見る人が見たらそんなに目を輝かせる部屋なんだね。なんだか新鮮だ」
「この部屋はトールさんの…?」
「正確にはアルベルトの執務室。俺はアルの補佐官なんだ」
トールさんは勝手知ったるようにミニキッチンでお湯を沸かすと優雅な手付きで紅茶を注ぎ、戸棚からクッキーまで出してくれた。花の香りがするお茶なんて初めてだし、こんなにもサクサクほろほろで美味しいクッキーも初めて食べた。
向かい合ってお茶をし、私の緊張が解れるようにトールさんが軍内部の愚痴を面白おかしく話してくれていると扉の向こうからバタバタと誰かが走ってくる音がする。条件反射的に肩を震わせていつでも立ち上がれるように腰を浮かせると、それより先にトールが立ち上がってにっこりと笑った。
「大丈夫。アルベルトが帰ってきたんだ」
そう言って彼が開けた扉からアルベルトさんが飛び込んできた。髪を乱し、玉の汗をかきながらも彼は真っ直ぐ私の元へやって来て開口一番「怪我は?」と心配してくれた。
「急に逃げてすみませんでした。トールさんが直ぐに保護してくれましたので怪我はありません」
「そうか、良かった」
郵便配達の彼は婦女暴行未遂の現行犯としてアルベルトさんに捕らえられ、町の警ら隊に引き渡されたそうだ。しかし彼1人だけが捜索隊ではない。おそらく彼が村に戻らないと第二第三の捜索が開始される。村の男達が私を追ってくる。
「さてコレットさん。アルも戻ってきたことだし、君の事を教えてくれるかな。それにさっき言っていた…村に戻ったら殺されるっていうのも」
「ころ…っ!?コレット、どういうことだ。あの男は君を殺しに来ていたと言うのか!?」
アルベルトさんが眉間に皺を寄せて唸るように言う。違うけれど違わない。それを説明しなければ。私は膝の上に置いていたローブを握り締めて話し始める。
「私は…私の故郷は、ミタークという小さな村で…」
――――――――
「ええ、もちろん。大切な儀式は…彼女の夫の葬式ですよ」
若い男がにやりと笑ってそう言った。夫の葬式。コレットの?コレットの夫?彼女は結婚していたのか。予想外の単語に一瞬呆けてしまい、その隙を付いて暴れ出したコレットを抱え損ねてしまった。俺の腕から転がるように着地した彼女はこちらを一瞥もしないでそのまま走り出す。ローブから零れ出た銀色の髪が日の光を浴びて煌めいていた。
「やっぱりコレット!!逃がすかっ!!」
男が嬉々とした声を上げて銀の尻尾を追いかける。が、そんなことさせるはずがない。
「トール!追え!」
信頼の置ける同僚に彼女を任せ、それと同時に男の首に腕を掛けてラリアットをして引き倒す。奴の走り出す力と俺の引く力が相まって男は盛大にむせた。地面に倒れてのた打ち回っている男の背中を踏みつけ腕を捻り上げる。こいつがコレットを脅えさせている元凶か。そう思うとつい力が入って男の肩からゴギンと嫌な音がして次いで叫び声が響いた。
「くそっ!くそ!離せ!お前がコレットを唆したのか!!」
「人聞きの悪いことを言うな。俺は彼女を保護しただけだ」
「なら返せよ!俺はあいつを村に連れて帰らねぇとなんねぇんだ!ジェスが待ってる!」
「ジェス?」
「ぅぐ…こ、コレットの旦那だよ!死んだジェスがコレットを待ってるんだ!他所もんが勝手に匿ってんじゃねぇよ!」
男は他にもギャンギャンと喚いていたが騒ぎを聞き付けてやって来た警らに婦女暴行未遂の現行犯だと言って引き渡した。コレットは結婚していたのか。夫は死んだ。その夫が待っている。葬儀前に逃げた。なぜ?生前の夫に虐げられていた?それならば喜んで葬るだろう。夫を愛していた?それでも手厚く葬るだろう。逃げた?なぜ?
彼女に対するこの気持ちがただ疑問を解決したいだけなのか、それとも別の興味なのかはまだ分からない。それでも今は少しでも早くコレットの無事な姿を確認したい。トールが彼女を怪我無く保護していると信じて俺は本部の自室へと急いだ。
分厚い絨毯が敷き詰められた廊下を走って執務室へと向かう。俺が手を伸ばす前に開いた扉に飛び込めば、軍服の上着を肩に掛けて紅茶を楽しんでいるコレットが。ああ、良かった。ちゃんと居る。腹の底から空気を吐いて当然のように彼女の隣に腰を下ろす。
「コレット、怪我は無いか?」
「急に逃げてすみませんでした。トールさんが直ぐに保護してくれましたので怪我はありません」
「そうか、良かった」
眉を下げて申し分けなさそうに項垂れるコレットに慌ててテーブルの菓子を薦めて顔を上げさせる。そんな顔をさせたいわけじゃない。遠慮がちにクッキーを頬張る姿はまるで小動物のようだ。
「さてコレットさん。アルも戻ってきたことだし、君の事を教えてくれるかな。それにさっき言っていた…村に戻ったら殺されるっていうのも」
「ころ…っ!?コレット、どういうことだ。あの男は君を殺しに来ていたと言うのか!?」
トールが俺の分のお茶を用意しながら言った言葉の中に聞き捨てならないものがある。殺される?コレットが?あの男は彼女の夫の葬儀を執り行うためにコレットを連れ戻しに来たんじゃなかったのか!
湧き上がる怒りを抑えきれずに思わず低い声が出て彼女の細い肩が揺れた。トールに窘められるが大人しく冷静に聞けるような話しじゃないことは容易に伺え、出されたばかりの熱い紅茶を一気に煽った。
「私は…私の故郷は、ミタークという小さな村で…人口が減り続けていつ村がなくなってもおかしくないところです」
ミターク。俺は聞いた事がなかったがトールが「ここから3つほど町を越えたところにある農村だな。確か他の村や町とあまり交流がなくほぼ自給自足で生活している村だったと…」と補足を入れた。ああ、こいつは確か高等大学校で民俗学を専攻していたな。
「そうです。とても…閉鎖された、町と比べると原始的な暮らしと風習が残る村です」
コレットの口ぶりからして村を良く思っていないことは伝わってくる。では結婚によって村に縛られていたが夫が死んだ事を好機として逃げ出した…ということか。それならば納得は出来るが、如何せん先ほどの殺される云々がどうにも結びつかない。
「村では人口を増やそうと…しょ…初潮を迎えた女児は、全て嫁に出されます…。なぜか女が生まれることが多く、男と数が合わず…ほとんどが自分の年齢の数倍はある男の元へと嫁がされます…一夫多妻がほどんとでとにかく子供を作るようにと…」
「な…んと…!」
「…過疎が進む貧困の村では未だに珍しくないことだ。きっとミタークの他にもそういった風習が残る村はこの国に幾つかあるだろう」
ではコレットの夫だったジェスとやらも幼子を手篭めにするじじい…くそっ!腸が煮えくり返りそうだ。美しいコレットがそんなじじいに組み伏せられ無理矢理体を…。
「ではコレットさんはそんな村に嫌気が差して逃げ出してきたのかい?でもそれで殺されるなんて随分と野蛮だ。もしかしてそれは危険な村外に出ないように子供に言い聞かせるような作り話で…」
「いいえ!作り話ではありません。あの村は…ミタークは…夫に先立たれた未亡人を不吉なものとして…サ、サティを…」
「サティだって?まさか、あのサティだというのか!?」
コレットはぶるぶると震えながら泣きだし体を丸めてしまった。顔色が紙のように真っ白だ。それに引き換えトールは目を見開き驚愕の表情で立ち上がった。サティとは…。
「トール、サティとは何だ。コレットは何に脅えているんだ」
「サティは…もう200年前に禁止法が制定された宗教儀式で、寡婦殉死とも呼ばれている」
「寡婦…殉死…」
「その名の通り、未亡人が…死んだ夫が火葬される炎に飛び込み、焼身自殺をすることだ」
「な…な、なんだそれは!!焼身自殺!?生涯を共にするためとでも言うのか!?」
「いや…サティはそんな綺麗なものじゃない。ただの忌み者払いだ。未亡人は死神の使者として恐れられ、夫と共に焼き殺すか…その…奴隷のように慰み者として蹂躙されるか…」
「ふざけるなっ!!」
信じられない。信じられないことだ。まさかそんな野蛮で下種な風習が残る村があるなんて。それがコレットの故郷だなんて。あの男は、コレットを連れ帰って夫と共に焼いてしまおうとしていたのか!!今すぐ俺がこの手で殺してやりたい!!
「アル、落ち着け。俺達が今すべきことはコレットさんの安全を確保することだ。ミタークの話しを本部長に上げよう」
「もちろんだ。コレットは我がケーシャヴ軍が全力で守る」
はらはらと涙を流すコレットはこんなに儚く美しいのにそんな恐ろしいものから逃げ出した勇気ある女性だ。その勇気を無駄にしないためにも俺達が彼女を守り、ミタークの悪しき風習を根絶させてみせよう。
――――――――
その後、トールさんが本部長さんにミタークの内情についてと私の保護を報告した。200年も前に廃止されたはずの野蛮かつ身勝手な儀式に本部長さんは烈火の如く怒り、サティの存在は軍を飛び出て帝国の中枢議会にまで報告された。重要な情報源として私も本部長さんから聴取を受け、ミタークのことを包み隠さず話した。
「コレット嬢。貴重な情報をありがとう。今まで気付いてやれずに申し分けなかった」
本部長さんと同席していた中枢議会の議員さんが揃って頭を下げてくださり恐縮しながらも涙が止まらなかった。まさかこんなことになるなんて思っていなかったが、これでミタークの女性達が救われるのだと思うと心の底から安堵が広がる。
それからすぐにミターク粛清のために軍が出動した。私はアルベルトさんとトールさんにお願いして同行させてもらう事にした。正直、故郷の地はもう二度と踏まないと決心して逃げ出してきたが、今はこんなにもたくさんの味方がいる。それならば…夫をきちんと供養してあげたい。始めは同行を渋っていたアルベルトだが、夫の埋葬が心配だと言えば眉間に皺を寄せながら「絶対に俺かトールから離れないこと」を条件にお許しがもらえた。
「コレット。体調は大丈夫か?」
「え、ええ。まだなんとか」
「もう少しで休憩だから頑張れ」
「はい、ありがとうございます」
ミタークへの移動は馬で、当然1人乗りができない私はアルベルトさんの前に乗せてもらっている。が、馬での移動がこんなにも過酷なものとは知らなかった。落ちないように常に力を入れている内腿は今にも攣りそうだし、バウンドを繰り返す尻はじんじんと痺れてきっと痣になっている。涼しい顔で馬を乗りこなす軍人の方々を改めて尊敬する。それに、本来ならば1度休憩を挟むか挟まないかで進むミタークへの距離を、私がいるからと3回も休んでくださる優しさに頭が上がらない。
やがて見えてきた故郷。数日前にはあそこで普通に暮らしていたはずなのに自棄に懐かしく感じられるのは何故だろう。たくさんの馬に気付いたのかわらわらと村民が出てきて何事かとこちらを威嚇している。私は軍が用意してくれた無地のローブのフードを目深に被って精一杯身を隠したが二人乗りの馬上の人は目に止まりやすく、私を呼ぶ声が響いた。
「コレット…コレットだ!!コレットが戻ってきたぞ!!」
その声だけ聞けばまるで行方不明だった村の娘の無事の帰還を歓迎しているようにも聞こえるが、残念ながらその真意は正反対のものだ。
「ジェスが待っているぞ!」
「早く弔いを!!」
いくつもの声が上がって、屈強な男が何人か近付いて来た。私を馬から引きずり降ろすために。しかし彼らは軍の人間によって鞘に収まったままの剣で制され逆に捕らえられてしまう。突然の軍人からの乱暴に目を白黒させて狼狽する男達は僅かに抵抗を見せたものの力の差を感じ早々に大人しくなる。が、ミタークはそんなに平和的な村ではない。
「コレットが裏切ったぞ!コレットが村を売ったぞ!!」
地に伏せられている男が叫ぶ。大人しく背中で両手を拘束されたまま、力の限り村中に聞こえるように叫んだ。途端に村の男達が怒号を上げて私を罵り始めた。耳を塞ぎたくなるよな汚い言葉をぶつけられ、じわじわと涙が浮かんでくる。アルベルトさんが後ろから私を抱き締めて「屑どもが…」と低く呟いた。
それから然程時間が掛からないうちに村の全てが軍によって制圧された。男達はみな広場に集められ、女性と子供は村の外の開けた場所に女性軍人と共に分けられた。それぞれから村の風習について聞き取り調査を行うためだ。男達は武器を取り上げられて抗議の声を上げていたが女性達は皆どこかほっとした様子で大人しく村の外へと連れだされて行った。アルベルトさんは村長への聞き取りを行うようで、私もろともひらりと馬から飛び降りた。
「コレット。危険だからトールと一緒にいてくれ。決して彼の側を離れてはいけない」
「…はい。ありがとうございます」
広場に向かっていくアルベルトさんを見送りつつ、私はトールさんへお願いをする。
「トールさん。自宅へ…夫の元へ行っても良いでしょうか」
「…いいよ。行こう。何人か連れて、そのまま静かに埋葬して差し上げよう」
「あ、ありがとうございます」
逸る気持ちを抑えて慣れ親しんだ家路を歩く。小さく粗末な我が家。それでも夫との穏やかな思い出の詰まった家だ。鍵なんて付いていない薄い扉をゆっくりと開く。
「…うっ…」
途端に漂ってくる死臭。私が家を出た時のままベットで横になっていた夫は、村の誰かが世話をしてくれていたのか蛆が湧いたりはしていなかったがこの臭いだけはどうにもできなかったようだ。冷やすこともせずにずっと寝かせきりなのでもしかすると背中側から腐敗が進んでいるのかもしれない。なんてことだ。夫の最期の言葉とは言え、私が逃げ出したばかりに彼の体をこんな状態にさせてしまったなんて。私がきちんと村の風習に則って夫を葬っていれば綺麗なまま天に召すことが出来たのに…。
「コレットさん、あなたはここまでで。あとは我々が運び出します。墓地の場所はわかりますか。申し訳ないが土葬でもって御夫君を弔いましょう」
「は…はい…すみま、せん…」
軍人の方が新しいシーツを用意して夫を丁寧に包み、何か一緒に埋葬するものは、と聞いてきたので慌てて家の中をひっくり返して見つけた唯一2人で撮った写真を差しだした。ささやかな結婚式の時の写真。まだ表情の固い私とそんな私を少し心配そうに見つめる夫。この時は気付く余裕すらなかった夫の優しさに涙が溢れてくる。
「これ…これを…」
「お写真ですね。胸の位置に置いて一緒に包みましょう。コレットさん、本当に最期のお別れです。お顔は綺麗なままですのでどうぞ、お声を掛けて差し上げてください」
背後でバタバタと足音が聞こえてアルベルトさんの声がする。でもそちらを振り返ることなく私は真っ直ぐに夫の元へと進んだ。扱けた頬、落ち窪んだ目に白髪交じりのパサついた髪。元気だったころと随分と変わってしまった夫の風貌に病の恐ろしさを感じながら精一杯闘ってくれていた彼の頑張りに賞賛を送る。
「あなた…。軍の方が手伝ってくださってこんなに丁寧にあなたを弔うことができます…。あなたの言葉に従って村を出たのに戻ってきてしまってごめんなさい。でも…あなたの埋葬をこんなにも心穏やかに行えるなんて…。あなたの生前の行いが良かったおかげで奇跡が起きたのかもしれないわ。お別れは寂しいけれどあなたならきっと天国に行けるだろうから、どうかそちらで幸せになってください。…さよなら、ジェームス…」
そっと彼の唇にキスを落とす。私たちの最初で最期の口付けだ。
軍の方が墓地に穴を掘り、そこへ夫がゆっくりと入れられ土が被せられる。涙を流しながらその様子を眺める私にアルベルトさんが寄り添ってくださり、トールさんが簡易的な墓標を立ててくださった。そして運んできてくださった軍人さんも含めて皆で黙祷を捧げ、夫のささやかな葬儀を終えた。
――――――――
仰々しいほどの隊列を組んで訪れたミタークは想像していたよりも小さく寂れた村だった。目ざとくコレットに気付いた男が駆け寄ってくるが、どうみてもその目は同郷の帰還を喜ぶものではない。村に戻ったら殺されると言っていたコレットの話に嘘偽りはなかったのだ。残念な事に。
コレットに指一本触れさせるつもりは毛頭ないが遠慮なく投げつけられる罵倒の声には流石に頭に来て、彼らの首を一つ残らず切り落としてしまいたい衝動に駆られる。震えるコレットはローブに身を隠し小さくなっていて、その頼りない存在を抱きしめる事で俺自身を落ち着かせる。
いくら威勢が良い男達だろうが軍人相手に一般人が敵うわけもなく、ミタークの制圧は呆気ないほど早々に達成された。村の広場に男達を集め、女と子供は女性隊員に連れられて村の外へと歩いて行く。彼女達は皆不安そうにしていながらもどこかほっとした様子で、夫達への心配や未練は少しも感じられなかった。ミタークで女達がどんな扱いを受けていたのかが垣間見れて気分が良いものではない。その中の1人がコレットであることも不快の一端を担っているのだろう。
俺は村長の尋問を任されているのでコレットをトールに託して側を離れる。
「おい。決して目を離すな。ないとは思うが万が一にでも村外に身を潜めていた村民にコレットを攫われるような事があれば…お前に明日は来ないと思え」
「は…はは。肝に銘じるよ。アルの大事なお姫様を全身全霊を駆けてお守りさせていただきます」
年老いた村長は観念したのかミタークに蔓延る悪しき風習を全て暴露した。サティを始め初潮を迎えた女児の結婚や多くの子を産むための重婚、近親婚。逃走を試みた女児の纏足や母親への拷問と陵辱。その他様々な行動の制限や罰の数々。全てが女性に対してのみのものであった。この村は腐っている。こんな村は廃村にして男達を使役奴隷にでも落としてしまえば良い。あいつらと同じ男である事に虫唾が走る。
ふとコレットの方へと視線を向ければ、彼女とトールが数人の隊員を連れてどこかへ移動していた。気にしていた夫の様子を見に行ったのだろうか。なぜだかコレットを俺の目の届かないところで夫に会わせたくなく、村長への尋問を手早く済ませて残りを他の隊員に任せコレットの後を追う。
彼女の家は粗末なものだった。トールと数人の隊員が入っただけで一杯になるような室内は死臭が充満していて空気が重たい。そんな中でも真っ直ぐに夫を見つめるコレットは美しく、零れる涙は真珠のように輝いている。ちらりと見えた彼女の夫は壮年の白髪交じりで、病死したのかとても痩せ細っていた。こいつが無垢なコレットに無理強いを…と怒りが湧いてきたが、彼女が夫に向けた最期の別れを聞く限り、どうやら彼らは良い夫婦関係だったように思われる。愛し…合っていたのだろうか。
コレットが夫にキスを落としたのを最期に、隊員が彼を担ぎ上げて墓地へと移動する。そっとコレットに寄り添ったが彼女はずっと夫の姿を追っている。それがどうしても苦しい。死んだ男よりも隣に立つ俺を見て欲しい。夫の葬儀を行う婦人に対して何と不謹慎な思いだろうか。隊員達が堀った穴に夫が入れられ、ゆっくりと土をかけられる。埋められていくその姿に俺はひっそりと優越感に浸った。
「(お前が残して行った女性は俺の手で必ず幸せにするから、お前は精々指を咥えながら天から見ていれば良い)」
コレットは夫を失い、故郷を失った。頼れる人間はきっと俺達だけ。いや、俺だけだ。彼女を手厚く迎え入れよう。トールに階級の割りに粗末な家に住んでいると小言を言われていたことだし、これを機に彼女の好みの屋敷でも買おう。壁紙も家具も全てコレットに選ばせて、一番日当たりの良い部屋を彼女に与えよう。使用人も雇って何不自由なく暮らせるように整え、コレットが毎日笑顔で俺の帰りを待っていてくれるような家を作ろう。
黙祷を終え、そっと涙を拭ったコレットの腰を引き寄せ早々に墓地を後にする。元夫に未練なんて感じさせないくらい俺が幸せにしてみせる。
村民全員への調書を仕上げるのは時間が掛かったが村の女性に降りかかっていた劣悪な環境が浮き彫りとなり、制圧からひと月後にはミタークは国王の名の元に廃村が言い渡された。あまりに非人道的な風習を推進していた村長を含め実際にサティの火付け役も担っていた捜索隊員は死罪に、その他の男達は皆使役奴隷として僻地の炭坑へと送られた。女性と子供はそれぞれ親戚を頼ったり修道院へ行ったり、能力のある者は町で住み込みで働く者もいた。きっと彼女達にとってしばらくはまだ辛い苦しい日々が続くだろう。それでも長い時間を掛けて心を癒し、穏やかに暮らして欲しいと願うばかりだ。
「アルベルトさん、トールさん。ミタークの女性を救ってくださり本当にありがとうございました。このご恩をどうお返しすればいいのか…」
「コレット。俺たちは軍人として当然の事をしたまでだ。国民の安全を守るのが俺たちの仕事だからな」
「そうそう。むしろあんな膿を排除できるきっかけをくれたコレットさんに俺達がお礼を言いたいくらいだよ。勇気を持って村を脱し、俺たちを信じて頼ってくれてありがとう」
「夫が…死の間際に私を逃がしてくれたんです。サティは間違っている、だから逃げろと。夫は見計らったように日が落ちてから息を引き取り、私は彼を残して闇に紛れて村を出ました。向かう先も土地勘もなかったけれど、とにかく村から少しでも離れなければと森を歩いていたところ、アルベルト様に声を掛けられました」
「なるほど。そういった経緯であんな暗闇を1人で歩いていたのか。それにしてもコレットの元旦那はきちんと良識を持っていたようだな。君を村から出したことは彼の人生最大の功績と言っても過言ではないだろう」
トールがこっそり「元旦那…元…ふふ…」と笑っているようだが敢えて無視をする。
コレットを保護してからミタークの件が片付くまでの期間、彼女は女性隊員らの独身寮に身を置いていたがそろそろ俺の元へ帰ってきても良い頃だろう。家が決まるまでは今の狭い家で親睦を深め、コレットと共に新居を探そう。そう考えていたのに…彼女はそうではなかったようだ。
「私はそろそろ新たな生活の場へ行きたいと思います」
「…え」
「え、あ、あれ、コレットさん…?まさか、出て…?」
「少しの間でも活気の溢れる町で暮らせて楽しかったです。帰る場所は無くなってしまいましたが、きっとどこかにこんな私でも1人で生計が立てられる小さな村か町があるはずですから…」
コレットが町を出て行く?1人で生計を立てる?こんな美しくか弱い女性が1人で?そんなこと…許せるはずが無い。
「コレッ…」
「ぁああっ!コレットさん!そういえば!俺の実家が!人手不足だって!!」
「トールさんの、ご実家ですか?」
「いや、えっと。実は俺の実家、結構でかい商会でさ。コレットさん、町を出て1人で生きていくつもりなら郊外にある俺の実家で従業員として働かない?少し離れているけれど軍本部の直轄エリア内だし、何かあればアルが飛んで行くから」
「でも…私、知識とか全然ですし…」
「大丈夫。従業員達はみんながみんな始めからちゃんとできるわけじゃない。それに両親は人に何かを教えることが好きな人たちなんだ。従業員同士も仲良さ気だよ。そんなに広くはないけれど社宅もあるから1人で生活する場所を探すよりも随分と手っ取り早いと思うんだけどどうかな!」
「…わ、私で宜しければ是非、働かせていただきたいです…!」
トールの咄嗟の機転でコレットはトールの実家であるヴィシュヴェ商会で働くこととなった。俺も何度か視察をさせてもらったことがあるが、あの商会はとにもかくにも馬鹿でかい。確かに従業員はいくら居ても多いことはないだろう。行動力と発想力に富んだ会長とそんな夫を上手く扱いこなす慈愛に満ちた夫人の周りには彼らの魅力に取り付かれた人間が集まり、面白いくらいに商売が上手く行くと言う。
もしトールの提案がなく、コレットが町を出て行こうものなら俺の家に縛り付けてしまいそうだった。コレットを手放すことなんて考えられない。俺が幸せにするべき女性なのだから。トールにそう言えば「彼女を拉致監禁しそうな顔してたからうちに呼んだ」と返されてしまった。俺の補佐官は大変有能だ。
さぁゆっくりと彼女を口説いていこう。俺の彼女となり、婚約者となり、妻となったコレットを想像する。いつも彼女は俺の隣で花のように美しい笑顔を浮かべている。うん、やっぱり彼女は俺が守ろう。
サティは元々「貞節な妻」という意味を持っているヒンドゥー社会に見られた風習です。…死んでたまるか!