4 鷹宮
?
……。?
…………。?
………………。?
…………………………………………………………。?
僕は?
何だっけ。えーっと。んー……。あー、うん、え──────っと。
僕、……。いや俺だっけ? いや僕、いや自分?
ワンチャン私? わし? 小生? それがし……いやこれはないか。
僕、僕だ。一人称は僕……のような気がする、ような。
じゃあ「僕」でいいか。暫定僕な。じゃあ次……。
つーか僕は誰だ?
「君は海音。海音……夕陽でいいや。海音夕陽だ」
「そうなの? なんかもうちょいモブっぽい名前だった気がするけど」
「そんなことないってー。君は海音夕陽。あたしの彼氏なんだけど、憶えてない?」
気がつくと僕は病院……のベッドに寝そべっていて、そばに人がいる。
金髪の女の子。とんでもなく可愛い。
……………………。?
『──だ。付き──てくれ』
………………。なんだろ、今の。
「って、本当に大丈夫? まあ大丈夫じゃないか。記憶もちゃんとしてないし。でも交通事故だもんね、打ち所が悪かったらそうなるか。そうなるなあー」
「……交通事故。僕が?」
「そ。なーんにも覚えてないのね。名前さえ覚束ないってそうとう強く頭打ったみたい。ま、あたしの彼氏いっつも保健室で寝てたから、流石にあたしもちょっと慣れたっていうか。早く思い出して、寂しいでしょ」
………………。?
僕は──────?
僕は、海音夕陽。多分男で、……何才だろ、多分十六か七くらい?
それでなんと、この金髪の人の彼氏。わあすっげえ。マジで?
そんで今、交通事故に遭って記憶が混乱──え?
待ってくれ。待ってくれないか?
僕は──。僕は僕は僕は僕は……誰で、何だ。何をして生きていた? どうやって生きてきた? そもそもここはどこだ? なんで僕はこんなところにいるいやそれは交通事故に遭ったからで、僕はえっと。
「落ち着いて。不安になるのは分かるけど、今は落ち着いて。ほら鏡、すごい顔してるよ」
僕の顔?
そこに写っているのはひどい冷や汗をかいて引きつった目元の、ひどく不安そうな表情をした男が写っている。
その男は、おそらくもうすぐ16か7になろうというのに少々男らしい顔付きに欠け、どうにも中性的な印象の拭えない、いかにも頼りなさそうな風貌の男だ。
その男は鏡ごしにこちらを覗き込んできたので、僕も負けじと睨んだ。
そしてすぐに馬鹿らしくなってやめた。
「僕のことについて教えてくれないか」
「うん、でもあたしもそんな多くのことを知っているわけでもないのよ。実はあたしたち出会ったのは二ヶ月ぐらい前の入学式が始めてだから」
「そうなのか。その、いつ頃から付き合い始めたんだ?」
「おととい」
「最近だな!?」
「夕陽がどうしても付き合いたいって迫って来たんじゃん。忘れたの? って忘れてたわ」
「うん忘れてるな。え、僕はそんなことをしていたの? マジかよ僕、結構やるじゃん。えっと、それで、君の名前はなんていうんだ」
僕は金髪の女の子はその質問に曖昧な笑みを浮かべた。少し悲しそうな表情を浮かべて、すぐにそれを引っ込めた。
「……彼女の名前も忘れちゃった」
「ああごめん、そんなつもりじゃないんだって! その、違うその忘れてるわけじゃないんだよ!? でもほら、万が一間違ってたら君に失礼じゃん!? 確認、そうだ確認のための質問なんだ、当然覚えてるって!」
彼女──金髪の女の子は慌てふためく僕の様子をみてクスリと笑った。
その清楚な笑み。この世の中で最も綺麗で愛らしい笑みだと思う。記憶をなくしていても分かる。同時に──違和感。
『え、──』
「あ──、いや、今のって」
「──ちょっと、本当に覚えてるの? 嘘ついたの? あたしに」
「いや違うって、嘘じゃないってマジで、マジで違うから許してくれ!」
「えー、じゃあ早くしてよ。嘘じゃないんでしょー?」
かすかに感じた記憶未満のものは、そのまま記憶の海に沈んで見えなくなった。すぐにその事実すらも薄れて、僕は記憶だったようなものを忘れて、それは消えた。
真っ白な病院の個室で、白い部屋の中で楽しそうに笑う彼女は、やはりというか僕の胸を焦がしてやまない。
名前も知らない彼女がそこに居てくれるだけで、僕の焦燥や不安などが消えて、代わりに心と呼べる器官が満たされていくように。
「──鷹宮。そうだ、鷹宮だよ。君の名前は鷹宮だ。違うか?」
「──すごいね。よく分かったねー。さっすがあたしの彼氏だ」
思い出した。僕が思い出せたものの唯一。
「で、下の名前は?」
「うっ頭が」
「誤魔化さないの。どうなの覚えてる?」
「えー、いやー、そのですねぇ……」
「はー。なーんで彼女の下の名前こそ覚えてないかなぁ。いい、二度と忘れちゃだめだからね」
「えー、いやー、僕が忘れている証拠でも……」
「鷹宮レーナ。本当はもっと長ったらしいけど、これがいいから。レーナだよ、レーナ」
「ああ、うん。そうだったね。レーナ、鷹宮レーナ。──そうだったね」
「これからはちゃんとレーナって呼んでね。彼氏なんだから」
僕が鷹宮の彼氏。……何も覚えていなくても、その場所がいかに高く、誰しもが求めるようなポジなのはなんとなく分かった。
やばい。嬉しい。
『──や』
『鷹み──』
「レーナ。……これでいいの?」
「ああうん。いいねその呼び方。意外に悪くない。──なんか、悪くない」
「え何その微妙な反応。前からそうだったんじゃないの?」
「ん、まあね。それでこれからどうするの、君」
「どうって? 僕が?」
「うん。もう体の外傷自体は治ってるんだから、退院してもいいんだけど」
「ああ。うん、そう……か。そうだなぁ。ねえ僕の家の場所って知ってる?」
「んー、いや知らない」
「──え? ヤバくね?」
『ねえ、君──式の──してた──? 入試トップ──ことなの?』
『───とないよあん──。──に人前で喋るの──だし』
「学校に連絡をして事情を説明すればいい。学校も生徒の住所は把握しているから、それで教えて貰えばいいんじゃない?」
「それだ! 頭いい〜!」
「これでも入試トップだから。すごいでしょ」
「えマジで!? すごくね!? つよつよじゃねえか!」
「つよつよなんだ〜あたし〜」
真っ白なベッドから降りると、幾らか気づくことがあった。
一つ。服は……なんだこれ。制服? いやこれは国立魔術総合高等学校の男子用制服──。僕は──そこの生徒なのか。僕は優秀エリートということになるのか?
二つ。初めて僕は歩くこと。
右足を地面に着けると、すごく新鮮だ。全く新しいことのような気がする。でもその行動は僕にすごく馴染んでいて違和感がない。不思議な感覚だ。
三つ。あらゆるものが初めてだ。
記憶がない。だから、僕は何かをした記憶がない。だから喋ったのもさっきが初めてだし、息をし始めたのもさっきだ。今初めて立って、歩いて、見て、感じて、もう何がなんだかわからない。
四つ。僕は──レーナのことが心底好きということ。
いや、男がこんなモノローグ入れている時点で大概アレではあるのだが、仕方がない。あるいはこれは僕が記憶を失う前から持ち続けている唯一のものでもあるのかもしれない。過去を丸っ切り失った僕の唯一つの自前。
彼女が側にいるだけで、心底の安らぎを得られる。
「っていっても今もう夜だしなぁ。どうする夕陽、今からでも学校行く?」
「……いや、正直きついなぁ。レーナ、明日でも大丈夫だと思う?」
「まあいいんじゃない? で、今夜はどこに泊まるつもり?」
「…………この病院、使わせてもらえないかなあ」
「無理だと思う。もう完治してるから、扱いは病人じゃないの」
「っていうかいろいろ質問していい?」
「いいけど。何」
「僕にも家族って……いる……よね? 一般常識的に考えたんだけど」
「……わからない。君は一人暮らしをしていたからさ。君からそういう話聞いたことないし、それも学校に聞かなきゃね。でも多分、東京にはいない。これは多分確実だと思う」
ということは僕はおそらく上京してきたのだろう。学校のために高校から一人暮らしを始めた──ということになるのかな。
不安がるところのはずなのに、レーナがいるせいでどうにも危機感が薄い。
「ホテル……とか?」
「お金あるの? 貸してあげよっか?」
「いやそれはなんかなぁ。残った僕の一般常識的が、女の子からお金を借りるのはクズへの第一歩だって言ってる」
「……じゃあどうするの」
「……どうしよう……」
僕が病室で途方に暮れているとレーナが歩き出した。僕は慌てて追いかける。
「ちょ、待ってレーナ! ちょっと見捨てるのが早いよ!? 待って見捨てないでぇ!」
「着いてきて。仕方ない、彼女として助けてあげる。貸し一つ」
「え、マジで? すごく助かるけどなんかその貸し後々すごい請求のされ方しない? 大丈夫? てか迷惑ならそこまでしてくれなくても大丈夫だって、なんなら路上で──」
「迷惑なんかじゃない。というか東京の路上で寝るってことがどういうことか分かってる? 身ぐるみ剥いで殺してくれって言ってるようなもの。黙って着いて来るっ」
「はい」
病院の受付で退院手続きを終えて、受付のお姉さんにお大事にと言われた。
いやまあ、記憶喪失に対してお大事にと言われても正直仕方がないというか、いやでも記憶喪失というのはどうやって治すのだろうとはまあ、思いはするが。
というか病院というのは白いんだな。建物っていうのは全て白いのか? ロビー──反射的にロビーという言葉が浮かんだ。どうやら僕はある程度の一般的知識は持っていたらしい、よかった──には、年老いた幾らかの人がいた。
外に出れば──なんだ、ここは。
その世界は、記憶を無くした僕にとっては衝撃的ですらあった。
思わず目を見開いて眺める。
夜、首を真上に向けてようやくてっぺんが見えるような高層建築物。それがいくつもいくつもいくつも何個も何個も見渡しきれないほどに生えている。夜の中ではそれらの光がよく見える。それらの内側には電気が点いていて、その光が外に漏れ出している。ということは中に人がいるのだろうか。だとしたら何をしているのだろうか?
とにかく圧倒的だった。とにかく高くて、大きくて、明るく、これが──東京。
呆気に取られた僕をよそに、レーナは道路まで歩いて行き、停めてあった車に近づく。車のドアは自動で空いた。
「何してるの。早く乗って」
「え? ああうん、ってそれ何?」
「ウチの車。いいから」
言われるまま車に乗る──乗り方は自然と身についていた。不思議な感覚だ。こういうことは覚えているが、僕は車に乗ったことなどない。これが初めてなのに、違和感がない。いや、車の内装など初めて見るから新鮮なのだが……。
「半田、あたしの家まで」
「かしこまりました、お嬢様」
え“。な、なんだろう。いや、これが普通なのか? お嬢様……えっと何だっけ、社長とか財閥の娘とかっていうのがそういう風に呼ばれるんだっけ。つまりレーナは偉い人の娘っていうことか? え”、なにそれマジで?
ああでもなんだろ、いまいちピンと来ない。何でだろ。偉い人っていうのは何だ? その凄さがいまいちよくわからない。
いや社会構造のてっぺんに立っている人たちというのは知識的には分かる。だけど僕にはその実体験がない。だから分からない。
レーナに何か話しかけようと思ったが、レーナは何か考え事をしている風だったのでやめておいた。僕も僕で、窓から見える景色にずっと目を奪われていた。




