drop:Ⅱ 薄汚れ
ピチャンピチャンとジョナサンの耳に冷たい音が聞こえる。
少しずつ意識が回復してきた。ゆっくりと目を開ける。
目の前に薄暗い空間が広がっており自分が壁に鎖で吊るされていることでここが普通の場所ではないことを示す。
潜伏場所にしていた廃教会でもない…どこか。
薄暗いのは部屋の中に置かれたロウソクが弱々しく燃えているからだ。
まだフラフラとする。
それもそうだ。頭を思い切り蹴られたのだから。
声を出そうにも力が出ず乾いた息しか出てこない。
ここはどこだ?どうして俺は鎖に繋がれている?ドミニクはどうなった?とまだはっきりとしない頭で考えるが考えがまとまらない。
それにしてもこの部屋は酷い匂いがする。まるでなにか腐ったような…。
そこで足元のモノに気づく。
それの存在に気づき目が覚める。
それは黒く変色し虫が集っている。その虫がジョナサンの足元へと這っていき上へ登ろうとしていて…。
「う、おぇぇぇ…」
たまらずジョナサンは胃の中のものを吐く、といっても胃の中は空っぽなので酸っぱい液体が出るばかりだ。
液体はベタベタとジョナサンの服にかかる。
綺麗な修道服が酸っぱいようななんとも言えない匂いを発する。
加えて足元にあるそれ…人の死体からも強烈な匂いが発せられている。
気持ち悪さが頂点に立ち何度も何度も空っぽの腹の中から液体だけをダダ漏らす。
そのうち吐くのに疲れだらんと鎖に体重をかけ脱力する。重力により下に引っ張られるため手枷が付いている手首が時間が経つほど赤黒く変色していく。
空っぽの胃から無理やり出したため胃が痛い。
また意識が朦朧とした時、カツカツと音が近づいてきた。
目の前が霞む中ジョナサンはゆっくりと顔を上げ扉のない出入口をじっと見る。
暫くその足音を聞いていると出入口から薄く光が見えぱっと明るいランプの光が現れる。
ドミニクかと思ったがランプの形が違う。
そして、ランプを持つ人物がドミニク本人ではないことを確信させる。
スラリと細身の若い自分と同じぐらいの年の男で、ゆったりとした服装の金髪青眼の人物。
暗くてよく分からないが明るい場所に出ればとても美しい彫刻のような人物なのだろうと想像できる。
その青年がゆっくりと近づきランプをジョナサンの顔に近づける。
「お、生きてる生きてる。死なれちゃ困るんだよな」
ジョナサンが目を開き揺らめくランプを目で追っているのを見ると満足げに笑む。
ジョナサンがお前は誰だと問おうとするが喉がカラカラでうまく声が出せず掠れた声にもならないものしか出せない。
男はなにか思い出す時分の首元を晒し近づける。
「ほら、飲め」
そういわれても何を飲めというのだろうか。
そこにあるのは男とは思えない白い首筋があるだけで水があるようには到底思えない。
あるとしたらその白い肌の下を流れているであろう赤い流血。
それを飲めというのか、俺は人間だぞ…と青年を睨む。
青年は自分が睨まれたのを見ると目を伏せ離れる。
「まぁ、そうだよな。人間は俺たちみたいに血は飲まない、けれど」
青年は明るいランプを足元に置くと袖を捲り、懐からポケットナイフを取り出す。
徐ろにポケットナイフを晒された手首に当てると思い切り引く。
すると当然のごとく血が蜜のように流れ出る。
どくん。
ジョナサンの心臓が大きく跳ねる。
飲みたい、飲みたい、喉が熱い。今すぐに飲みたい。
目の瞳孔が大きく開かれ手首から流れ出ている血を凝視し息を荒くする。
足元の死体の匂いなんかどうでもいい早く血をくれと顔を前に出す。
青年は満足げに笑むと手首を近づけジョナサンの唇に傷口を当てる。
するとジョナサンは肉を大口で頬張る様に手首に吸い付くと無我夢中で血を吸い始めた。
喉を鳴らしながらごくりごくりと美味しそうに。
「はは…赤ん坊みてぇ…」
吸われる感覚にぞくりとし青年は眉を顰める。
ふらふらしてきたと思えば青年は手首をジョナサンから離し手持ちの布で傷口を押さえる。
すると…ジョナサンの喉の乾きが少しだが治まった。
再度ここはどこだと口を開くが、その前に青年が口を開く。
「気づいてる?あんた、吸血鬼になってるよ」
「は?」と思ったがハッとする。
何のためらいもなく相手の血を飲んだが…それが間違っていた。
口の中にまだ残る香ばしく甘い血の味。
舌で口内をなぞると異様に尖った犬歯に当たる。
「ようこそこちら側へ。うまく変形できたみたいで何よりだよ」
青年はにっこりと笑いジョナサンを見る。
「最初血を流し込んだ時はすごく暴れてさ。一時はどうなるかと思ったけどなんとかこっちに引き入れられたぜ」
やれやれと頭を振る。
何のことかわからない。
何故、人間である自分が急に吸血鬼になったのか。
毒を流し込まれないように対策はしていたはずだ…と。
ふと、首にあるはずのものがないことに気づく。
必ず装備していた十字架付きの鎖だ。
鎖は首を噛まれないようにと首に巻いていた。それが、ない。
取るにしても十字架が邪魔で吸血鬼には取れないはずだ。
なのに、ない。
青年はジョナサンが首元の鎖がないことに気づいたのを楽しげに目を細めて見る。
「趣味悪い首輪探してる?それなら眷属に引っペがさせて今あんたの手に付いてるよ。ちょうど鎖が壊れてたからちょうど良かった」
青年がくいっと顎で示しランプを持つと照らす。
ジョナサンが上を向くと先程まで暗くてよくわからなかったが確かに見覚えのある銀色の鎖がある。
青年は「鎖を取り付けたやつがすぐ死んだのは誤算だった」と肩を竦め足元の死体を靴の先でつつく。
「…お前、なにを、し、た…」
やっと声が出た。
正確には「お前は俺の体に何をした」と聞きたかったが今じゃこれが限界で喉の痛みに顔を歪める。
青年はにっこりと笑うとジョナサンの頬に触れ顔を近づける。
手首の傷はもう治っており、青年が人間ではないことを示す。
「俺じゃねぇけど毒を流して吸血鬼にした。聖職者をこうやって生け捕りできるなら1人ぐらい味方につけたいじゃん?」
にたりと笑いするりと手をジョナサンの首にうつす。
指が触れているところにきっと噛み傷があるのだろう。
ジョナサンは目を見開く。生きてこの方吸血鬼を殺すことしかしなかったのに、こんなに簡単に自らが殺す対象の吸血鬼になっていることに驚いた。
ショックは大きい。
吸血鬼になったという事はもう昼の世界には戻れない、いや今までも夜の世界だったが…何よりも楽しんでいた食事ができなくなる。
血しか飲めなくなってしまった。
そして、全人類を…敵に回してしまうことになるだろう。
パートナーであるドミニクさえ吸血鬼になった自分のことを殺しにくる。
いつものあの呆れ顔ではなく…化け物を見る目。殺しの目。
「あっれー?固まっちゃった。そんなに嫌だった?」
固まったジョナサンの顔を覗き込むと不思議そうにする。
ジョナサンの目はバラバラに動き泳ぎ、混乱していた。
目が覚めたらいきなり吸血鬼…誰でも衝撃を受ける。
人間として生き、人間として子孫を残し、人間として人生を閉じる…その当たり前の人生が今、強制的にいとも簡単にガラリと変えられた。
それだけで人は大きく動揺し受け入れ難い。
「さてと」
青年はランプを持ち直すとジョナサンから離れる。
「俺は自分の眷属の面倒を見るから」
そう言うと青年は背を向けて去っていった。
青年が去った後ジョナサンは未だ動揺を隠せず混乱していた。
***
どのぐらい時間が経ったのだろうか。
また喉が渇いてきて痛みを感じる。
更には1度血を飲んだせいか頭が痛い、まるで脱水症状を引き起こしたかのようにクラクラとし始めた。
血が欲しい、血が、血、血をくれ、早く、早く早く早く…。
手を拘束する手枷が憎らしい。
こんなにも吸血鬼とは欲深いのか。
血を飲まないだけでこんなにも醜くなれる…いや、これは人も同じだ。
金がなかったら金をくれとせがむ、愛が足りないと愛を望む、食べ物が少ないと食べ物をせがむ…全く同じだ。
吸血鬼はそれらが全部混ざったようなものだ。
金も愛もいらないから血をくれと言う。
血がなければ生きていけない。
生きて行くには血が最も必要だ。
金も愛も血も麻薬と同じようなものかと皮肉に思う。
一人悲嘆しているとまたカツカツと足音が聞こえる。
またあの青年が来たのかと期待にも似た気持ちで出入口を見つめる。
また血をくれないだろうかと…。
だが、そこに現れたのは青年ではなく恐ろしく美しい黒いドレスを着た白髪赤目女性だった。
赤目…これはこの辺りの吸血鬼の特徴だ。
ということはこの女性は吸血鬼ということになる。
女性は部屋の中に入ると手に持っているロウソクを持って4つの角をまわりながら火をともしていく。
部屋がまだ薄暗いが明るくなった。
「ガルシアめ、あれほど私の許可なく血を飲ますなと言っていたのに」
仕方の無いヤツめとため息混じりに言いながら手にもっていたロウソクをジョナサンの近くにあるロウソク立てに固定する。
ガルシアとは…あの青年のことだろうか。
女性はジョナサンに近づくとにんまりとその美しい顔には似合わない茶目っ気たっぷりの笑顔を見せながらジョナサンの顔を鷲掴みにする。
そして徐ろに口の中に指を突っ込ませるとこじ開け口の中をまじまじと見始める。
「牙は…問題なく生え変わったな。唾液はまだ毒に変換できぬのか?」
くちくちと音を鳴らしながら指で舌を弄び唾液を出させる。
指を口の中から出すとぺろりと舐め「ふむ、問題ないようだ」と満足げに笑む。
「それにしても唾液が少ないな。腹がすいたか」
女性は目を細めるとじっと見る。
ジョナサンの目は女性の目を見ることはなく晒されている女性の首に釘付けだ。
かなりの至近距離のはずなのにジョナサンは噛みつかない…噛みつけない。
女性がありえない力でジョナサンの頭を固定しているからだ。
頭が割れそうなほどのその怪力の前に成す術もなくジョナサンははーはーと息を荒くするばかりで動けない。
「私が今から言うことをはっきりと言えたら褒美を与えよう」
女性はジョナサンの耳に口を近づけるとそっと呟く。
「モンテフリオ・テンプラニーリョ」
「モンテ、フリオ…テン、プラニー…リョ…」
「そうだ。それがお前の主の名だ。お前の名はなんだ」
「ジョナ、サン…」
「ジョナサン。そうか、いい名だ。だがその名は捨ててもらうぞ。人から吸血鬼になるのは生まれ変わるも同然。…そうだな、お前は暫くジョンと呼ばせてもらうぞ。正式な眷属名はその能力から見極め与えよう。わかったか?ジョン」
ジョナサン…否ジョンは頷く。
血をくれるならなんだってする。だから早くくれと心のなかで思う。
ジョンはもう心が折れていた。
モンテフリオと名乗った女性はジョンの口元に首を近づける。
「さぁ褒美だ」
ぱっとモンテフリオが手を離すとジョンは待ってましたと言わんばかりに思い切りその白い首筋に噛み付く。
ブチブチブチという音が聞こえ血が溢れたのかジョンの口の隙間から流れていく。
モンテフリオは痛みに顔を歪めるがその場にじっとし飲み終わるのを待った。
数分すると口が離れる。
噛み傷は2つの牙の他にも歯形がついていた。
かなり強くかんだため皮がめくれていた。
「ようこそ。欲望の世界へ」
モンテフリオは満足げにニッコリと笑む。
ジョンの目はロウソクの火を反射し真っ赤に爛々と光り輝いていた。