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ポリムの見た景色  作者: Shuastrolay
1/2

一話

 あたりが明るくなって半刻程だろうか、朝霧で視界の悪い道を物憂げに見やる。

「なぁじいちゃん、僕そろそろここらへんで休みたいよ・・・。」

「まだ一刻半ほどしか歩いていないぞ、その調子ではこの大陸を出るころには冬になってしまう。...まぁとは言え昨日の今日だ、そこの切り株で少し休もう。」

そんな僕の口をついてでた弱音に軽い説教を垂れながら額から汗を流すのは一緒に旅をしているボレロ爺だ。

ボレロ爺の年齢は外見で言うと初老ぐらいで、実際にはお爺さんではないがなぜ僕がボレロ爺のことを"じいちゃん"なんて呼んでいるかというとそういったやり取りを幾度となくしてきたからだ。

そんなじいちゃんの年齢には似つかわしくない筋骨隆々な腕を懐から取り出だした手には二つの水筒が握られていた。

「これを飲みなさい」

微笑みながら差し出された片方の水筒を手に取りまだ切り口の新しい切り株へと腰を下ろす。

なんだかんだ口うるさくてもボレロ爺は心の底から優しいのである。

もうすでに空になってしまった自分の水筒を見やりながらボレロ爺から渡された水筒を一気に呷る。

口内いっぱいに広がる薄っすらと甘い液体を飲み下しながらあたりを見渡せば、視界が悪い中でもはっきりと分かる碧々とした葉が視界を埋めた。

その葉を宿した木々はスラッとした幹を持っており、まるで我先にと太陽光を求めて枝を伸ばしているようだ。

確か、僕の居た村にも似たような場所があったなと記憶の底から思い出を引っ張り出してほんのすこしの休息に身を委ねる。

春光輝く穏やかな日差しの中、森に囲まれた一つの村がある。

家屋は周りの木々やレンガで作られ町の中心には井戸があり、そこに住む人々が日々通ることで作られたあぜ道を進めば畑がある。

畑があるということはもちろんその近くに川があるというもので、その川から用水路を引っ張ってきて村とその畑に水を供給しているというわけだ。

村の住人もその川のように清らかで穏やかな人が多く、そこが僕の育ての親であるボレロ爺と僕が居た村で、皆小さな悩みはあれど力を合わせて上手に暮らしていた。

そんな村の小さな教会、とは言ってもほとんど民家と変わらないその建物で僕とボレロ爺は生活していた。

炊事や暖を取るための薪集めは僕の役割で、目覚めては冷たい朝霧で頬を濡らしながらよく森の中を歩いたものだ。

朝は畑で村の人達を手伝い昼はボレロ爺から勉強を教わり日が暮れる頃には就寝する、そんな穏やかな日々を過ごしていくうちに僕はなんだか孤独感を覚えるようになった。

まぁ最も孤独感なんてのは僕が勝手に抱いた感情で、村の人達は僕にとても良くしてくれていたし、家族同様に扱ってくれていた。

だというのに僕はそんな得体の知れない喉の渇く様な感情を抑え込めずにどんどん膨らませていった。

というのもある日の夜に不思議な夢を見たことが原因だ。

それはとても美しい夢で、髪を揉まれるほどの吹きすさぶ風とそれに煽られる草が協奏曲を奏でる中、果のない地平線を前に僕は立っていて、

眼前には黄昏の空に沈みゆく太陽と薄っすらと七色に覆われた大きな月に小さな月がくっついて上ってゆく、その大きな3つの輝きを引き立たせるように謙虚な星々がきらめいていた。

そんな情景を見て僕の心には何かポッカリと穴が空いたような、あるいはその夢に焦燥感を煽られているのか、僕は居てもたっても居られなくなったのだ。

そんな夢を二度三度と繰り返し見て、五度目には慌ててベッドから飛び起き、僕はボレロ爺に旅に出たいとせがんだ。

ボレロ爺も最初は僕を諭そうとしていたけど、普段の僕とは雰囲気が違うのを感じ取り、それ以来僕に「旅の準備」という名目の稽古をつけてくれるようになったのだ。

「いいか、この世は危険だ。なんの知識も技術も無くただ村の外に一歩踏み出しただけでお前は間違いなく獣に貪り食われ死ぬか、幽鬼に魂を吸い取られ抜け殻となるか、野盗に襲われ身ぐるみを剥がされた後彼らにいたぶられて死ぬか、あるいは餓死するかのどれかだ。」

ボレロ爺は村で神父をやっていたのだが、まさか神父からそんな言葉がでてくるなんて予想だにしなかった僕はしばし驚いて、しかしボレロ爺はそんな僕を気にもせず木刀を僕に差し出してくるのだった。

「構えなさい。」

神父の腕とは思えない様な力強い手に握られた木刀を見つめ、僕は逡巡したがそれをすぐ手に取りボレロ爺と向き合う。

「まずは剣の扱い方からだ。」

それからのボレロ爺は容赦がなかった。

食べられる木の実の見分け方から幽鬼の対処法、毒物で動けなくなったときの応急処置の仕方や特異な地形の歩き方まで綿密に、みっちりと教え込まれた。

時には村の依頼を受け実際に1人で畑を荒らす害獣の退治をさせられたこともあった。

そんな厳しい扱きの日々に弱音を吐かない時はなく、決まってそんなときはボレロ爺がそばにいてくれて――

 ――これを飲みなさい――

――そう言ってはほんの少し甘い飲み物を渡してくるのだ。

僕はこれを飲むととても気持ちが安らいで落ち着くんだ。

そして日々の焦燥感からも開放されて・・・微睡む・・・。

・・・僕はなにを考えていたんだっけか。

「―――ッ」

「――リ―ッ!」

「ポリムやっ!!」

ボレロ爺の声にハッと我に返ると目の前には彫りの深い老婆の顔があった――

――自分の世界から一気に引き戻され、なんの脈絡もなくパーソナルスペースを侵犯してきた老婆に驚き切り株から転げ落ちる。

「何やら普段とは違う雰囲気を感じ取って来てみればなんだい、このヒョロっちいガキは。どれ、無駄足だったなんて思いたくないからちょいと見させてもらうよ」

そういってボロをまとった老婆は無遠慮に僕の上着を強引にまくりあげた後僕の身体をためつすがめつする。

思い切り顔を近づけて来るので、否が応でも目の前の老婆から漂うカラシニボシの臭いで鼻奥が刺激され涙と鼻水がとめどなく出てくる。

瞬刻の後老婆の目は宙を指し、指したかと思うと今度は目を見張り大口を開けた。

「ほぉおおおおぉおぉおお!!?ついに見つけたあぁ!!こやつが本物なら門が開くぞいぃ!!!」

しわがれた声に似つかわしくないほど元気に飛び跳ね去ってゆく老婆に目が離せず嵐のような出来事に茫然として思考が定まらない。

「な、何だったんだ今のおばあちゃんは・・・一体どこから・・・?じいちゃん??」

「私にもわからない、瞬きをしたらいつの間にかお前の前に居たのだ。あの様なものが近づいてくるのを見ていたらすぐにお前を起こしていた」

あまりに唐突な出現に納得が行かずボレロ爺に聞いても要領を得ない返答が帰ってくる。

それよりも、僕の身体を見て"本物"とは一体なんのことか、それも門とは何かのほうがよっぽど気になる。

しかしそんな疑問を目の前のボレロ爺に問うたところで満足の行く解答は得られないことは解りきっているので、仕方なく乱された衣服を直し起き上がる。

「じいちゃん・・・?何か考えてるの?」

改めてボレロ爺に向き直るとボレロ爺は眉間に皺を寄せて何か不安げに考え事をしているようだった。

「うむ、先程の老婆のことを考えていてな。この大陸に来た時、酒場で奇妙な噂を聞いただろう」

「あぁ!いつの間にか居る、頭にヤドクギリ鳥の羽根をたくさんつけた常にカラシニボシの臭いがする老婆の噂!」

「確かにあのおばあちゃんからカラシニボシの臭いがしたよ!でも、フードかぶっててヤドクギリ鳥の羽根なんか見えなかったし見る暇もなかったよ」

カラシニボシは幽鬼から姿を見えなくする花で、行商人や旅人達は皆この花の香りをさせて世界を回っている。いわば旅に必要不可欠な"必需品"である。

その花の香りを纏っておけば良いので、香水として町でも売っている特に珍しくも無いものだ。

ただ、鼻の奥に突き刺さるような刺激と粘膜を焼かれるような臭いに耐えなければならず、常にその臭いを纏っている人は居ない。

主に幽鬼が現れる時間帯は黄昏時、丑三つ時と限定的であるため、早朝の今の時間帯にカラシニボシなんて必要ないのだ、例外はあるが。

ただこのカラシニボシは他にも欠点がある、カラシニボシの作用中に大声を出したり、激しく動き回ったりすると幽鬼に見つかる。

そして見つかったら最後、力の強い幽鬼なら逆にそのカラシニボシの臭いを辿られてしまう。

「その羽根も、お前を見て慌ててどこかへ去る際にチラリと見えた。あの老婆が件の老婆に違いない」

ヤドクギリ鳥の羽根はチラリと見えた程度で特定できるほどの派手な羽根である。

極彩色で、玉虫のように光を反射し見る角度で色を変える。ヤドクギリ鳥自身猛毒を持ち、気性が荒いのであえて近づいてどうこうしようと思う者は少ない。

だが、綺羅びやかなその羽根は衣装の装飾だったり、家具の装飾だったり、あるいはちょっと豪華な羽ペンだったり、お祭りに使われたりすることがある。

常用はしないが需要はある、そんな代物だ。

ただカラシニボシの香水をつけて、ヤドクギリ鳥の羽根を頭に飾るだけじゃ大陸中で噂になるほどではない。

問題は"いつの間にか居る"こと。そして―

―「件の老婆、ついに見つけたと言っていたな?ポリムよ」

件の老婆は唐突に現れては先程僕に対してしたように、無遠慮な人探しをしていたようだ。

このすべてが合わさって噂となっていたらしい。そりゃ鼻を曲げるほどの臭いを纏いながら頭に奇妙な飾り物をし、道行く人々を上裸にして回っていたら大陸中で噂になるに決まっている。

そんな考察をしていると不意にあたりが暗くなり始めた、碧々とした景色はその様相を不気味な姿へと変え、空には赤い月が昇り急激に冷え込む。

慌ててカンテラを取り出して火を灯し、なにが起きたのか理解すべく周りを見渡すと暗くて見づらいながらも今しがた来た道の奥でうっすらと白く淡く光る何かが揺らめき立ち上がるのが見えた、それと同時に悪寒が走る。

「ポリム!走れ!!」

ボレロ爺に言われるが早いか、力の限り地面を蹴り走り出す。

「昨晩寄った村で厄介な物を押し付けられたようだ!とにかく走れ!後もう少しでアルカルムの町だ!」

異常なまでに暗い道を照らすためカンテラを持った左腕を前に突き出し全身全霊で走る。

ボレロ爺も僕のすぐ後ろについてきているようだ、彼の息づかいと足音が聞こえる。

息を切らしながら走っていると眼の前に看板が飛び出してきた、看板に書かれている文字を読み始めるやいなや後ろからボレロ爺の声が飛んでくる。

「右だ!!」

ボレロ爺の声に促され半ばパニックになり右へ曲がる。

カンテラに照らされる草木たちは相変わらずおどろおどろしく、日の出ていた時とは違い今まさに死にゆく印象を受ける。

葉は今にも腐り落ちそうで木の幹は爛れており、道と視界がどんどん狭くなっていく。

「ほんとにこっちであってるのじいちゃん!?」

森のなかに僕の声がこだまする、返事はない。

「じいちゃん!!?」

またも僕の声がこだまするだけで返事がない。

そういえばいつからか、無我夢中で走る中彼の息遣いと足音が聞こえなくなっていた。

「じいちゃん??」

立ち止まって振り返ってみるもボレロ爺の姿はない、カンテラを振り回しあたりを見渡しても深い闇が恐怖心を煽るばかりだ。

もう一度来た道を振り返って見ればそこにはボレロ爺の代わりにそいつが"居た"、追いかけてきている、着実に、確実に、僕を狙って。

さっきとは変わって白い影の顔がよく見える位置にいる、一見優しそうな、しかし憂いのある表情で僕のことを力強く睨んでいた。

たまらず、恐ろしくなってまた地面を蹴り出し、今度は今までよりも必死で走る。

「いっぅ!なっなんで、なんで僕なんだ!じいちゃっ!じいちゃんっっ!」

嗚咽にも似た息づいかいで視界の悪い道をひたすら走る、すると視界の左端に白いもやがかかっているのが見えた。

そのもやはカンテラを持っている左手に纏わりつく様に絡んでくる、舌の根が渇き、手足が痺れ、心臓に針が突き刺さるような錯覚を覚ながら、しかし足は止めずにゆっくりとそのもやの方を見る。

眼前いっぱいに腐りかけた女性らしき顔が飛び込んできた。

「みつけたみつけたみつけたみつけたみつけたみつけたみつけたみつけたみつけたみつけたみつけたみつけたみつけたみつけたみつけたみつけたみつけたみつけたみつけたみつけたみつけた」

頬肉が腐り落ち、あらわになった歯をガチガチとならしながら、優しく左腕を絡め取ってくる。

その暴力的な恐怖を煽る見た目とは裏腹に左腕に感じる甘美な感触に気を取られそうになりながらも振り払う方法を半ば走馬灯の様に記憶の中から探り出す。

「な、何かないかっ!何かっ!何かっ!あぁっ!」

幽鬼に効果的な聖水は今まさにこの"幽鬼"を追い払うために"昨日"寄った村で使った。

咄嗟にポケットの中を漁ると硬い筒の様な物が手にあたる、中には液体が入っているようでその液体を口に含むと薄っすらと甘い味がした。

切り株で休息したときにボレロ爺から渡された特性の飲み物だ、ボレロ爺が作ったものなら効果があるかもしれない、藁にもすがる思いでその幽鬼に対して口の中のものをすべて吹き当てる。

その直後、幽鬼が手を離したかと思うと今度は周りの草木が揺れるほどの勢いで叫びだした。

おおよそ元人間のものとは思えない絶叫が耳をつんざき、身体がビビって言うことを効かなくなる。

歯を食いしばり方瞼を痙攣させ身体を動かそうとするのが関の山だ。

しかし幽鬼は手を離した、今しかない。

「うぅうああああぁあああっ!!」

怒気にも似た感情で身体に喝を入れ、懐から太陽弾を取り出し思い切り地面に叩きつける、コレは一瞬だけ幽鬼を実体化させてくれる道具だ。

強くて優しい、そして暖かな光があたり一面を照らし、幽鬼がその光を浴びると今まで半透明だったその姿は実体化し醜さを増す。

間髪入れずにその光を浴びて怯んだ幽鬼めがけて抜き身の短刀を振りかざす。

刹那、酷い音とともに右腕に手応えを感じる、渾身の一撃は上手く幽鬼の片目を潰したようだ。

だがまだ終わりではない、昨日ボレロ爺とともに祓いの儀をしたというのにまだこいつはここに居る、相当手強い相手だ、おそらくカラシニボシの臭いに紛れたとしても目立ったことをすれば一瞬で看破されてしまうだろう。

だが一瞬でも姿を隠してやり過ごせるなら使わない手はない、幽鬼が悶てる隙に木陰に隠れ荷物の中からカラシニボシを取り出し身体に振りまく。

「うげぇ、やっぱこの臭いきつい。」

あの幽鬼に聞こえないように口の中でつぶやきながら息を潜め幽鬼の出方を様子見る。

「いたぁあい、いたああぃ。どこぉ、アタシの、アタシの カワイイコ ドコォ!!!」

太陽弾の効果はすでに切れている、しかし僕の一撃が相当痛かったらしく片目を抑えている。

それと同時に相当お冠でもあるようで手当たり次第にあたりを荒らして僕を探し始めた。

カラシニボシが"今は"上手く作用している、あの幽鬼から僕は見えていない、逃げるなら今のうちだろう。

それにしてもどういうわけかすぐ後ろを走っていたボレロ爺とはぐれてしまった、彼の息遣いや足音をすぐ間近で感じ取れていたのに。

とにかくこれ以上この幽鬼と闘うのは避けて、ボレロ爺と合流するに越したことはない。

あの看板まで戻ればボレロ爺がいるかも知れない、もしかしたらこっちの道まで探しに来てくれているかも知れない、そう淡い期待を胸にゆっくり立ち上がり来た道を見やる。

そこにはあの幽鬼が立ちはだかっているが、僕の姿は見えていない、都合がいいことにカンテラの火もいつの間にか消えている。

できればあの幽鬼のそばなんて通りたくない、しかし一度道から外れてしまえば方向感覚を失うほどの暗闇があたりを満たしているため、幽鬼のそばを通り過ぎるしか方法が無い。

意を決して息を殺し一歩、また一歩と幽鬼に近づく。

「うぅっ、うううぅ、ワタシの子ォ! ワタシノ・・! ワタシノォ!」

幸い幽鬼は落ち着いたようで、泣いている振りなのか本当に泣いているのか今は手で顔を覆い隠し、肩を揺すっている。

そして一歩もう一歩と前へ歩き、幽鬼のすぐ真横を通り過ぎようとした時、さっきまですすり泣いていた幽鬼がピタッと静かになった。

嫌な汗が背筋をつたい、心臓が爆発しそうな勢いで鼓動を続ける。

なんでこのタイミングで静かになったんだ?まさかカラシニボシの効果が切れてしまったか?そんなことはどうでもいい、手を伸ばせば届く距離に居る幽鬼が僕を感知していたら今ボクはここに立っていないだろう。

この幽鬼からは僕が見えないはずだ、そう胸中で繰り返しながら目を瞑り今までと同じ様に一歩一歩踏みしめるように前へと進む。

静寂が精神を蝕み暗闇が正気を侵す、五感のうち感じられる感覚は地面を踏みしめる足の感覚だけだ。

もはや自分が立っているのか座っているのか、あるいは寝ているのかわからなくなってきた。

脳裏にボレロ爺の姿が浮かぶ、今ここにボレロ爺が居てくれればこんな危機的状況に陥らなかっただろう。

「ポリム!」

そんな情けないことを考えているから幻聴でも聞こえたのだろうか、後ろからボレロ爺が僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。

目を瞑りながら歩いているもんだからいつの間にか歩く方向を違えていたのかも知れない。

「ポリム、もう大丈夫だ。」

今度ははっきりと聞こえた、幻聴なんかじゃない。

ボレロ爺の声を聞いたことによる安堵感とともに抑えていたすべての感情が一度に吹き出してゆく。

「ボレロ爺ぃ!」

気づいた時には僕は泣きながらそう叫び振り返っていた、しかしそこにはボレロ爺の姿はどこにもない。

また舌の根が渇き手足が痺れ、心臓に針が突き刺さるような錯覚を覚える。

なぜなら眼前には先程よりも恐怖を植え付けるような笑みを浮かべた幽鬼が佇んでいたからだ。

「みつけたみつけたみつけたみつけたみつけたみつけたみつけたみつけたみつけたみつけたみつけたみつけたみつけたみつけたみつけた」

今思えばあの看板から僕はもうこの幽鬼の術中に嵌っていたのかもしれない。

あの時のボレロ爺の声もまた、目の前の幽鬼が模倣したものだろう。

ボレロ爺もまた何らかの方法で僕と引き離された、そう考えるのが妥当だ。

自分の詰めの甘さに絶望する、祓いの儀で退けない様な幽鬼相手だ、模倣能力を持っていると仮定して動くべきだった。

そして僕は眼の前の幽鬼に負けた、こればかりは僕の精神力の弱さが原因だ。

浅はかだった、今出せる手札もすべて切ってしまった、もうどうしようもない。

焦燥と心的疲労で視界が霞み始める、それでも僕は目の前の幽鬼から目が離せなかった。

先程潰したはずの片目は治っている、恐ろしい治癒能力を持った幽鬼だ。

歯の根が合わずガチガチと音を鳴らしてその場に立ち尽くす。

眼前に迫りくる幽鬼に為す術もなくただ身体を震わせるのみ。

天敵に睨まれた小動物の様な僕に幽鬼が優しく頬に両手を伸ばしてくる、とても甘美なその感触は思考がすべて吹き飛ぶほどのものだ。

恍惚とした表情で身を委ねてしまう、逃げなければ ならない のに。

「ワタシのぉ カワイイ 子ォ! イイ子ねぇ・・・。」

ほとんど白骨した手で頭を撫で回される、その度に力が抜けていく・・・。

茫然とし、焦点が定まらず倒れそうになる、いや、倒れているのか、幽鬼が優しく僕を包み込んで一つに溶けてしまいそうだ。

先程の恐怖は完全に溶かされ、幸せな気持ちで心が満たされていく、居心地が良くなっていく、どんどん眠りに落ちていく・・・。

気がつくと僕は依然夢に見た黄昏の草原に立っていた。

まだ朦朧とする意識の中、覚醒の糸を手繰り寄せて周りを見渡す。

すると目の前に一人の美しい女性が霞の中から形作られるようにして現れた。

長い白髪をたなびかせ燃えるような赤色の瞳で穏やかな眼差しを僕に向けている。


「           」


その女性は何か言葉を発しているようだが音がないため全く聞き取れない。

彼女が何かをしゃべる度に覚醒しようとする僕の意識をかき乱し、また微睡みの世界へと引き戻す。

「あなたは、だれ・・・?」

判然としない意識の中、足りないリソースを全力で使って言葉に出す。


「              」


しかし返ってくるのは吹きすさぶ風切り音だけだ。

彼女が僕に何を言おうとしているのか、なんで僕はこんなところにいるのか。

依然も見た夢と同じ情景になぜ彼女が居るのか、そもそも彼女は誰なのか。

「わからない・・・」

一斉に押し寄せる疑問符が喉まで突っかかる、全身全霊を持って声に出そうとしてもせいぜい羽虫の羽ばたき程の声しか出せない。


「                待っていてね。」


突如世界が明滅する、意識は深い闇の中へ引きずり込まれ、彼女が最後に放った言葉が僕の耳に届くことはなかった。

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