第8話 恋愛経験
白井が出て行ってしばらく経ったあと、緑青はふーっと息を吐いた。
「やっと帰ったわね」
「……辛辣すぎないか? 親戚なんだろ」
「そうかしら」
「……」
まぁ親戚だからって仲が良いわけではないのだろう。もしかしたら喧嘩でもしているのかもしれない。それは俺には関係のないことだ。ただ、またあのピリピリとした張り詰めた空間に居合わせるのは嫌だなぁと思う。
「あれから、漫画は進んだの?」
「……あんまり進んでない」
「そう、じゃあ頑張って。私は勉強をしているから、何かあったら聞いてくれて構わないわ」
緑青はそう言うと、参考書とノートを机の上に広げた。俺も机の上にノートを広げる。
国語資料準備室は冷房が効いていて涼しい。それにとても静かだ。時折微かに運動部の掛け声が聞こえる程度、あとは俺と緑青のシャープペンシルがカッカッと音を立てるぐらい、集中するにはもってこいの環境だった。
しかし俺の筆は進まない。恋愛漫画を読んだことがないわけでなはい。少年誌にも恋愛メインの連載は一つくらい必ずあるし、王道バトル漫画だってヒーローとヒロインのラブコメ展開は付き物だ。
でも読んだことがあるからって、描けるとは限らない。描くとなるとすごく難しい。俺はちらりと緑青を盗み見た。相変わらず姿勢がいい。そしてすごいスピードで問題を解いている。さすが秀才。
ついついその勉強姿に見とれてしまったが、頭を軽く振って気を取り直す。行き詰まったから、相談してみようと思ったのだ。聞いていいと、緑青自ら言ってきたのだし。小さく深呼吸をしたあと、俺は口を開いた。
「あのさ、ちょっと相談なんだが」
「……何かしら」
緑青が持っていたシャープペンシルをノートの上に置き、さらり頰に垂れていた髪を耳にかけて、こちらを見つめた。
「恋愛漫画ってどう描けばいいかわからないんだ。なんでもいいからアドバイスが欲しい」
「……アドバイス」
そう呟くと、目をつぶり手を口元に当てて考え込んだ。そして、何か閃いたように目を開けた。
「あなた、好きな人っていないの?」
「はぁっ!?」
急な質問に動揺した俺はガタッと机を揺らしてしまった。恥ずかしい。それを見て緑青がくすくすと笑った。
「質問を変えるわ。恋をしたこと、あるかしら?」
「な、なんでそんなこと……」
緑青に言わなきゃならないんだ。むっとして緑青を睨む。緑青は睨まれても痛くもかゆくもないとばかりに、すまし顔だ。
「実体験を元に描くのが一番手っ取り早いと思ったのだけれど」
「あ、そういうことか」
確かに、一から設定を考えるよりははるかに楽だろう。でも、それって恋愛経験が豊富でないと駄目なんじゃないか?
「それで、どうなの?」
ないことはない。俺にだって、恋の一つや二つ、経験がある。
「まぁ、好きだったやつくらい、いるけど」
「そう、ならその経験を描けばいいじゃない」
「……」
好きだっただけで、ただの片思い。告白すらしていないというのに、何を描けばいいというのか。まったく、大層おモテになる学校一の美少女、緑青には俺の気持ちなんてわかるはずもない。きっと、振られるかも、なんて不安に思ったことなんて一度もないのだろう。
「何かしら?」
緑青は俺が何も言わないで、じとっとした目で自分を見つめていたのを不満に思ったようだ。
「……緑青はどうなんだ」
俺は自分の経験ではとても漫画は描けそうにないので、緑青に聞くことにした。きっと沢山の男に告白された経験があるに違いない。是非とも参考にさせていただきたい。
「あらやだ。私の恋愛経験が知りたいだなんて、いやらしい」
「い……っ」
いやらしいって、ただアドバイスをして欲しかっただけなのに、ひどい言い様だ。訂正してもらいたい。
「俺は漫画の参考になると思って聞いただけだ!」
「……わかっているわ」
冗談が通じないのね、とくすりと笑われて顔から火が出る思いがした。くそ、馬鹿にして……。
「付き合ったのは、あなたが初めてよ」
「な……っ」
不意打ちだった。嘘か本当なのか、わからない。でも、ふんわりと微笑む緑青はとても綺麗で、胸がざわついた。
「どうしたの? 顔が赤いわよ」
「……くそ」
遊ばれている。それでも、一瞬でもときめいてしまった俺の負けだ。
緑青から目をそらし、机に向かう。目を閉じると、先ほどの緑青の笑顔がフラッシュバックして、また顔に熱が帯びるのを感じた。
あつい。
「あなたはどうなの?」
「え?」
「恋愛経験」
「……俺だって、付き合うのは初めてだ」
ノートとにらめっこをしながら、そう答える。緑青がどんな顔をしているのか見れない。そもそも、付き合うってなんだ。俺たちは一応付き合っていることになっているみたいだが、二人の間に恋愛感情はない。
ないはずだった。