第32話 自覚してしまった
さっそく原稿用紙を一枚机の上に置き、ペン軸にペン先を挿し入れ、墨汁につけて線を引いてみた。
力を入れると太い線が、抜くと細い線が引ける。俺は楽しくなって、原稿用紙にぐるぐると円を螺旋状に描いたり、スピードに緩急をつけて直線を引いたりした。コツがだんだん掴めてきた気がする。俺はペン先をティッシュで拭うと、ペン立てに立てた。
さて、練習は一先ずおしまい。いよいよ下書きだ。原稿用紙に、ネームを見ながらコマ割りをして絵を描く。いざ描いてみると原稿用紙がでかくてバランスが取りにくい。こういう時、トレース台があったら便利なのだろうか。文句を言っても仕方がないので、とりあえずシャープペンを動かすことに集中し、10枚目まで描くことができた。
これ、写真に撮って緑青に送ってみようかな。
そう思い、スマホで写真を撮った。でも、送ってもいいのだろうか。まだまだ完成には程遠い。逐一報告していたら、緑青は煩わしく思うんじゃないだろうか。
嫌われたくない。
漠然とそう思った。送るのはやめよう、と思いスマホを閉じようとして、間違えて送信ボタンを押してしまった。
「あっ!」
送信済みとなった画面を見て俺は青ざめた。覆水盆に返らず。送ってしまったものは取り戻せない。俺はスマホをベッドに放り投げた。
しばらくして、スマホが震えた。恐る恐る見てみると、緑青からだった。たった一言、頑張ってるのね。という労いの言葉に俺は一気に元気になった。もしかしたら俺は人一倍承認欲求が強いのかもしれない。
・・・・・・・・・
いよいよ夏期講習前半の最終日。俺は少し寝坊をしてしまって、慌てて教室へ駆け込んだ。遅刻にはならなかったが、いつも以上に汗をかいてしまった為冷房の風が寒い。俺が寒い寒い、と呟いていたら高砂が部活で使う大きめのタオルを貸してくれたので肩にかけた。高砂はやっぱりいいやつだ。お礼に今度何か奢ると言ったらまじ? やった! とVサインを贈られた。
夏期講習と同様に準備も今日で一区切り、みんな区切りの良いところまで進めようと一生懸命だった。なかでも渡辺はきびきびとよく働いていた。一方俺は黙々と、迷路に使う壁に色を塗っていた。松来と何度か目があったが、話しかけられることはなかった。
準備が終わった後、俺は約束をしていなかったものの国語資料準備室へと向かっていた。緑青がもしかしたらいるかも、と少し期待しながら。だから、電気がついていて、扉を開けると緑青が座っていた時は嬉しかった。
「ど、どうしてここにいるんだ?」
「一人で、作業したかったから」
見れば裁縫道具とともにフリルの付いたカチューシャが緑青の机の上に置かれていた。
「黒石くんこそ、どうしてここに? 連絡がなかったけれど」
「あ、その……別に漫画を見せたいとかじゃなくて、ただ……」
「ただ?」
会いたかったから。
その一言を、俺は言葉にできなかった。
自覚してしまった。いや、ずっと前から薄々気がついていた。でも、知らないふりをしていた。
俺は、緑青藍が、好きだ。
俺を見つめる大きな澄んだ瞳も、長く指通りの良さそうな髪も、抜けるように白い肌も、細い手足も、完璧に見えて本当は人並みに弱いところも、澄ましているようでいて本当は優しいところも、
全部が、こんなにも愛しい。こんな気持ちは、生まれて初めてだった。
「だ、大丈夫? 黒石くん」
緑青が立ち上がり、俺の元へ近づいて来る。
俺の名前を呼ぶ君の声が好きだ。
でも、どうしたらいい? こんな気持ちを自覚してしまって、どんな顔をすればいい? どんな言葉を紡げばいいのだろう。
頭が混乱する。
ぐるぐると、昨日原稿用紙を埋め尽くした試し書きの線が脳裏に浮かぶ。そして、蘇る不安。赤く不気味に染められた空に飲みこまれるような感覚。
「……大丈夫だ。ちょっと、夏バテ気味で……」
「それはいけないわ。ちゃんと寝ているの?」
「ああ、でもそうだな。今日はもう帰るよ」
「そ、そうなの?」
「急に眠くなった」
「なんだか子どもみたいなことをいうのね」
可笑しそうにくすくすと笑う緑青。その顔も堪らなく好きだ。
緑青に見送られながら国語資料準備室を出て、階段を降りていく途中。白井に会った。俺は小さな声で挨拶して通り過ぎようとしたが、白井に腕を掴まれた。
「黒石くん、顔色があまり良くないよ」
俺は白井の顔をぼんやり見ながら思った。
そういえば、なんで緑青は白井を嫌っているのだろう、と。