第24話 つながる
メロンパンを夢中で食べていると、紅葉さんは俺と黄瀬の前にお茶を出してくれた。ありがとうございます、とお礼を言うとサービスサービスと手を振られた。お茶は冷たくて香りの良い紅茶で、メロンパンととてもよく合う。
「美味しいでしょ?」
「ああ、すごくうまい」
黄瀬に得意げに尋ねられ、素直に頷く。本当に、美味しい。焼きたてのパンなんていつぶりだろうか。来て本当に良かった。ペロリとひとつ、平らげてしまった。
「えへへ。私が褒められたわけじゃないのに嬉しいな。あ、お皿私片付けるね。黒石くんはパン見てて」
空になった皿を二つ持ち、黄瀬は立ち上がった。俺も紅茶を飲み干し、立ち上がった。トングとトレイを手に持ち、さっそく買う予定でいたクロワッサンを三つとった。あと俺の分でメロンパンを一つとり、両親に何を買っていこうか悩む。
「家族の分?」
黄瀬が戻って来て、俺の横に立った。
「まぁ、母親は甘いの好きだから」
「それなら、これとかどう? フルーツのダノワーズ」
黄瀬が指差したのは上に乗ったフルーツがつやつやと輝くお洒落で可愛らしいパンだった。確かに喜びそうだと思い、トレイにのせる。あとは父親の分だ。
「男の人に人気なのはこれかなぁ」
これは俺も知っている、カレーパンだ。大きめでサクサクとしていてとても美味しそうだ。よし、決まり。俺はレジへと向かった。
黄瀬がレジを打ってくれたのだが、メロンパンと紅茶の料金が含まれていない。
「なぁ、メロンパンと紅茶は」
「あーそれサービス!」
またもや紅葉さんの声に俺の声は遮られた。
「でも……」
「いーのいーの! その代わり、また来てくれる?」
紅葉さんににっこりと微笑まれ、もちろんそのつもりだったのではいと返事をした。
「やった! 先行投資は大事だからね〜。あ、そうだ菜乃花ちゃん。送ってやりな」
「はーい。いこっ」
「あ、ありがとうございました。ご馳走様です。すごく美味しかったです」
慌ててお礼と感想を述べ、俺は黄瀬に促されるまみ外に出た。外は蒸し暑いが、心は来る前と打って変わって晴れ晴れとしていた。
「駅まで一緒に行くね」
「たのむ」
男のくせに送ってもらうなんて恥ずかしいが、土地勘があまりいい方ではない自覚があるのでありがたく好意に甘えることにした。
「ふふっ、黒石くんが気に入ってくれてよかったなぁ。今日はありがと」
「それはこっちのセリフだ。ありがとう」
「どういたしまして」
「あ、そうだ黄瀬。……なんで、金が欲しいんだ?」
俺の質問に、黄瀬の動きが止まった。並んで歩いていた俺は黄瀬を通り過ぎてしまい、慌てて振り返る。してはいけない質問だったのか。
「……黒石くんになら、いっか」
黄瀬はうつむきがちになりながら小さくそう呟くと、顔を上げてふんわりと微笑んだ。
「私ね、お金を貯めて海外に行きたいの」
海外、留学とか、そういうのだろうか。
「と言っても、海外で何がしたいかは決まってないんだ。お恥ずかしながら」
黄瀬は片手を頭の後ろに回し髪をくしゃりと乱した。俺は黙ってそれを見つめた。
「あ、歩きながら話そっか」
そう言うと黄瀬は再び歩き出したので、俺もそれに続いた。
「あのね、紅葉さんと昭仁さんってパリで知り合ったんだって。パリ! フランスだよ。すごいよね。修行しにきてたんだって。それでね、恋に落ちて、結婚して、お互いの夢だったパン屋さんを日本に戻って建てたんだって」
俺は黙って黄瀬の話に耳を傾けた。黄瀬は俺より少し先を歩いているので、表情は見えない。
「凄く素敵だなぁって思ったの。やりたいことが、夢があるっていいなぁって、その夢を叶えちゃうなんて本当に凄いなぁって思ってね。私もそうなりたいって思ったんだ。憧れたの。でもね、私には特にやりたいことも夢もなかったんだ。どこかで、もういいやって投げ出しちゃうの。長続きしないから、どれも中途半端なんだよね。だから思ったの」
タタッと黄瀬は駆け出し、くるっとターンして俺に向きあった。切なげな、それでいて綺麗な笑顔だった。
「真似してみようって」
俺は一瞬時が止まったように感じた。車のガソリンの音、人の話し声、カラスの鳴き声、蝉の声、全部が一瞬だけ聞こえず、黄瀬の言葉だけが耳に響いた。そんな気がした。
「何にもないからっぽの私は、誰かの生き方を模倣する生き方もありなんじゃないかなって。勿論、私はパン作りがしたいわけじゃないし、パン屋さんを建てたいわけじゃない。だから、せめて海外に行ってみようと思ったの」
ドクンドクンと、自分自身の心臓の音が聞こえるのを感じる。
「月並みな発想だけどさ、考える前に動いてみるのも手かなって。それに、真似でも、それが本当の私につながることは、あるかもしれないじゃない? それにほら、海外に行くと価値観が変わるってよく言うじゃんね。行くだけでも価値あるかもなーって思って」
それが、理由だったのか。
「……長々と語っちゃった。ごめんね。なんか偉そうっていうか、痛かったよね」
「黄瀬は……すごいな」
「え……」
「自分で考えて、行動してる。全然、からっぽなんかじゃない」
「……」
「俺、応援するよ」
「……あり、がと」
俺は黄瀬のことを何も知らなかった。似ているようでいて、全然違っていた。だって、俺は諦めていた。自分の人生は平凡でそこそこ幸せになれればいいと決めつけ、淡々と日々を生きていた。
それに対して黄瀬は、必死に自分の生き方を模索していたんだ。何もないからこそ、何かを得たいと諦めずに前へ進んでいたんだ。
恥ずかしい。黄瀬は俺のことをすごいと言った。漫画が描けるなんて、すごいと。そんなことない。黄瀬の方がよっぽど、すごい。
黄瀬と仲良くなりたかった。世渡り上手で自然に普通を演じることができる黄瀬が、本当は弱い部分を隠し持っている黄瀬が、前に進もうと考え行動している黄瀬が、今の俺にとって眩しく、遠い。
俺も、頑張ろう。できることから、そう、まずは漫画を一作描きあげてみよう。
緑青から提案され、描くことを強要された漫画。それでも、それすらも本当の俺につながっていく事柄かもしれない。
完成させること。それが俺の第一歩だ。