第18話 ピンチ
ノートをしまい、数学のプリントを広げた俺を見て緑青は不思議に思ったらしい。
「あら、今日は漫画の続きを考えないの?」
「あー……なんか気分転換したくて。それに今日宿題多めに出たから、早いとこ片付けたくてさ」
「そう」
緑青が納得したようなので、俺は目線をプリントに戻し難しい応用問題を避けつつ比較的易しい問題をどんどん解いていった。
「……こんなものかしらね」
そう小さく呟くのが聞こえ、ちらりと横を見やると緑青が縫い終わったらしい深緑色の布を机に置き、鞄から新しく白い布を取り出しているところだった。
「それも縫うのか?」
「そうよ。これはエプロン」
「へぇ……」
つい、深緑色のワンピースに白いエプロンを着た緑青を想像してしまった。結構、いやかなり似合うだろうなと思いつつ、俺は再びプリントに向き直った。集中しろ、俺。
そんな決意も虚しく、プリントが思うように進まない。簡易な問題は解き終わってしまい、残こされた応用問題が解けないのだ。最近勉強不足だったかもしれないな、と過去の自分に少し苛立ちを覚える。
「……黒石くんそれやめて」
「え?」
「その音、不快だわ」
言われて、ハッと気づく。シャープペンの芯を出し続けていた。その為に鳴ったカチカチというノック音を緑青は指摘したのだ。
「わ、悪い。無意識に押し続けてた……」
「解けない問題でもあるのかしら?」
「……ああ」
流石緑青。なんでもお見通しなんだな、と思いながら正直に頷くと、緑青がすくっと立ち上がった。そして自身の机を俺の机にくっつけた後、静かに椅子に座った。
「それで、どこがわからないの?」
「……ここなんだが」
お互いの肩が当たりそうなほど、距離が近い。はやまる鼓動を無視して、俺はプリントを緑青が見やすいように左にずらした。
「ああ、それは……」
緑青は俺の躓いた問題の解説をすぐに始めた。すごくわかりやすい。頭の良い人間は人に教えるのも上手なのかと感心していると、聞いてるの? と緑青が怪しむような目つきで俺を見た。聞いてますとも、と真剣な面持ちで答える。
「それにしても、教えるの上手いな」
「そう? でも役に立てたなら良かったわ」
「大助かりだ。ありがとう」
素直にお礼を言うと、緑青の頰がほんのりと桜色に色づいた。そしてぷいっとそっぽを向いた後独り言のような声で、どういたしましてと呟いた。お礼を言われて照れるだなんて、結構可愛いところあるんだなと俺は口角を上げた。
「やっぱり、開いてる」
白井の声がしたかと思うと、ガラッと扉が大きく開かれた。白井が入ってくるのは当たり前のことだが、その後ろにもう一人誰かがいることに気づいた俺は目を見開いた。
「……え、黒石くん? それに緑青さん?」
黄瀬だった。段ボールを両手で持ち、俺と緑青を交互に見て固まっている。いずれこんな日が来るかもしれないとは思っていたが、いざその瞬間になってみると、青ざめて冷や汗をかくことしかできなかった。
「あっ! あい……緑青さん! 勝手に鍵を持ち出しちゃ駄目だよ」
白井は緑青に詰め寄り、ぷんぷん怒っている。それに対し、緑青はしれっとした顔で口を開いた。
「職員室にいらっしゃらなかったので、お借りしたまでです。許可は頂いておりますし、隣の席の萩森先生に伝言を頼んだのですがお聞きになりませんでしたか?」
「えっ萩森先生いなかったよ?!」
「席を外していらしたんでしょう」
「で、でもさ。鍵がないからすごくびっくりしたんだよ!」
「それでは、今度から書き置きを残しておきます」
「うん……それならまぁ、いいか。次からはそうしてね!」
そんな二人のやりとりをよそに、黄瀬と俺はじっと見つめ合っていた。気まずい。そしてなにより絶体絶命の大ピンチだ。俺はこの状況を、なんて黄瀬に説明すればいいか頭をフル回転させて考えていた。首筋が寒いのは、きっと冷房が強いせいではないだろう。
「……えっと、黒石くんはここで何をしているの?」
沈黙に耐えられなかったのか、黄瀬が一番してほしくなかった質問をした。狼狽していた俺は答えることができない。
「お、俺は……」
今は今日出された宿題をしているが、普段は漫画を描いている、なんてとても言えない。漫画を描いていることは俺にとってトップシークレットだったんだ。緑青にバレる前までは、一生誰にも知られないつもりだった。
それに緑青と二人きりでいたことをなんて説明すればいいんだろう。付き合っているなんて口が裂けても言えない。かといって男女が二人っきりで、しかもタイミング悪く机をくっつけて座っている状態を付き合っていると言わなかったらなんて言うんだろう。友達だと誤魔化すか、同好会と偽るか。
「黄瀬さん、それここに置いてくれるかな」
白井の声に、黄瀬が反応した。俺から視線を外して、持っていた段ボールを白井の指定した場所に置くいた。
「ここで大丈夫ですか?」
「うん、ありがとう。ごめんね。手伝ってもらっちゃって」
「いえいえ! 私がしたくてしたことなんで、気にしないでください」
「あ、そうだ! お礼に飲み物を奢るよ」
そう言うと白井はにこにこしながら机の横の小さな冷蔵庫からペットボトルに入った烏龍茶を、机の引き出しからは紙コップを取り出した。
「昨日買って置いたんだ。経済的だし、わざわざ買いに行かなくていいから便利だよ」
白井はとくとくと人数分の紙コップに烏龍茶を注ぎ、手渡した。ありがとうございます、と言いながら俺と黄瀬は受け取った。緑青は嫌がるかなと思ったけれど、何も言わずに受け取っていた。
喉がカラカラに渇いていたので、冷たい烏龍茶が染み渡る。これを飲んだら黄瀬のさっきの質問に答えなければならないだろう。覚悟を決めるしかない。