第13話 少しずつ
国語資料準備室の扉を開けると、ひんやりとした空気が漏れてきて、外がいかに暑かったか思い知らされる。汗をかいた背中に、冷房の風が少し寒いくらいだった。
緑青は机に座っておらず、窓を背にして少しもたれかかるように、腕を組みながら立っていた。
「……遅かったじゃない」
「そうでもないだろ」
ペットボトルをぎゅっと握りしめながら、扉を閉める。そして緑青をまっすぐに見つめた。
「白井先生は?」
「職員室に戻った」
「そう……」
緑青は腕を組むのをやめ、左手で右腕をさすり始めた。
「あの、私……」
「昨日は、ごめんっ」
なにか言いかけた緑青を制止するように、俺は声を張り上げた。続けて頭を下げる。
「え……」
「急に帰ったりして、悪かった」
言い終わると同時に、謝ることができたという安心感が胸に広がった。顔を上げると緑青はキョトンとして、口を小さく開けている。あれ? と俺が思っていると、彼女の目が柔らかく曲線を描いた。ホッとしたと顔に書いてあるような、そんな顔だと思った。でも次の瞬間違和感を感じる。穏やかなのにどこか悲しげで、苦しそうな顔に見えたのだ。
「……私も、ごめんなさい」
謝られたことよりも、彼女の切ないまでに美しい微笑に驚き、胸を締めつけられる。安心した顔とも、泣きそうな顔ともとれる不思議な表情に、息を呑んだ。
「……緑青は、悪くない」
微かに震える口からなんとか、言葉を発した。緑青は悪くないのだ。俺が勝手にキレただけで、彼女は彼女なりに考えがあって発言していたはずだ。それに、わかるわけがないと、理由も話さずに突き放したのは俺なのだから。
「私って、変、かしら」
緑青は俯いて、絞り出すような声を出した。変なわけ、ない。完璧だ。誰もが憧れる、見目麗しく頭脳明晰な女の子だ。だからきっと、変ではなくて……
「……それをいうなら特別、だろ」
緑青の目が大きく見開かれ、閉じられる。一瞬彼女の瞳が潤んだように見えたのは気のせいだろう。
「そう、かしら」
「ああ」
緑青は、特別だ。多分、この学校の誰もがそう思っているはずだ。
緑青は再び俯くとゆっくり、俺に背を向けて窓の方に向き直った。
「……ごめんなさい、なんでもないの。さっきの言葉は忘れて」
普段の緑青の声だった。弱々しくも、寂しげでもない小さい声だったが、はっきりと耳に届いた。俺は返事をしなかった。忘れることは、多分できないだろうから。
「さ、席に座りましょうか。まさか、ずっと立っているつもり?」
そう言いながら振り返った緑青は、いつもの緑青だった。
・・・・・・・・・
緑青に俺の話を聞いて欲しいとここに着くまで思っていたのだが、話にはそれぞれ話すタイミングというものがある。俺はそれが今ではない、と判断した。俺の普通への執着は聞いていてあまり気持ちの良いものではないだろうし、それに……。
いや、今考えるのはよそう。とりあえず一番の目的であった、謝罪ができたのだから良しとしようじゃないか。
俺はプロットを書くことに集中するため、頰を両手でパチンと挟むみこむようにして叩いた。プロットとは物語の筋のことだ。まず主人公と緑青がモデルのヒロインが何故知り合ったか、きっかけを考えているのだが全くもって良い案が思い浮かばない。うんうん唸っていると、緑青が俺の肩を叩いた。
「交際の公言についてなのだけど、しないから安心してね」
そう、耳に顔を近づけて囁かれた。ふわりといい香りがして、頭がくらりとする。なんせ女子との触れ合いに免疫がないのだ。あまり近づかれると困る。
「あ、ありがとう。助かる」
動揺を隠すようにシャープペンを動かしながら、平静を装ってお礼を言う。
「お話はできた?」
「まだだ。主人公とヒロインが何故知り合ったか、きっかけを考えているんだが……」
きっかけ。ベタなものだと、曲がり角でぶつかるとか本棚にある同じ本をとろうとして指が重なる、とか色々あるのだがインパクトに欠ける気がする。そもそも古いしやり尽くされているネタだろう。もっと、なにか……。
「……文化祭」
「え?」
「もうすぐ文化祭の準備がはじまるでしょう?」
「ああ」
「文化祭で知り合うとか、どうかしら」
「……なるほど」
文化祭はいろんな催しが実施される。普段関わり合いのない男女が急接近するイベントがあるかもしれない。それに他校の生徒同士というのも、ありかもしれない。祭りには人間を興奮させ、意外な行動を誘発する、そういう不思議な力があるのかもしれない。
「いいかもしれない。文化祭」
「よかった。頑張ってね」
俺は思いつくシチュエーションを書き連ねていく。告白大会で告白するとか、劇の配役で主人公が主役に抜擢されてヒロインと急接近するとか、ミスコンでハプニングとか……。漫画なんだから多少大掛かりなイベントがあってもいいだろう。どんどん案を箇条書きにしていく。ひと段落ついたので、次にキャラクターの掘り下げを進める。
主人公は俺がモデルではあるが、俺自身の投影ではない。俺みたいにひねくれていないし、顔だって画面映えのためにちょっと格好良くした。ヒロインに好かれる要素も取り入れなくてはいけないのだが、今のところ素直で真面目という長所しかない。何故ヒロインは主人公に惚れるんだろう。
しばらく悩んでみたものの、主人公の設定が定まらないので気分転換も兼ねて、緑青がモデルのヒロインについて考えることにした。緑青の要素だけでも十分すぎるほどキャラが濃いので、これ以上要素は必要なさそうだ。問題はひとつ、主人公に何故惚れるのか。惚れなければハッピーエンドにならない。
不良に絡まれているヒロインを助けたり、事故にあいそうになったヒロインを庇って怪我をしたり、そういう大きなイベントが必要かなと思う。でも……。
「これは、あなた?」
「うぉっ」
耳の近くで声がして、飛び上がってしまった。緑青が自身の椅子を俺の机のすぐそばに移動させて、座っていた。そして、俺の机の上に置かれたノートに釘付けになっている。ノートは二つあったのだ。開いておいたキャラクターデザイン用と、俺が書き込みをしていたプロット用。緑青はキャラクターデザイン用のノートの絵に白い人差し指を置いていた。
「この男の子、黒石くん?」
緑青は主人公の絵を指差している。モデルは俺なので、一応頷く。
「ちょっと……美化しすぎなのではないかしら」
「なっ……」
確かにちょっとイケメンにしたけど、美化しすぎって酷くないか? と思い、言い返そうとすると緑青が肩を小さく震わした。
「ふふっ、冗談よ」
ころころと笑う緑青を横目に、本当かよ……と思いつつ、俺もつられて笑ってしまった。
少しずつ、仲良くなれている気がする。少しずつ、いろんな話ができるようになる気がする。