プロローグ
七月も半ば過ぎ、うだるような暑さに辟易しつつも、そろそろ夏休みが近いことに浮かれていた、俺こと黒石晃は、油断していた。
まさか自分のような目立たない何処にでもいる、少しばかり世渡り上手な自負があるだけの男子高校生が、全校生徒の注目の的になってしまうだなんて、思いもよらなかった。
・・・・・・・・・
「黒石晃くん、いるかしら」
その一言に、教室にいた全員の視線が声の主に集中した。勿論名前を呼ばれた俺もその一人である。そしてすぐさま、視線は俺の方へ集中した。
「お……おいっ! 黒石お前なんかしたのか?」
隣の席に座っていたクラスメイトの男子に肩を叩かれ、揺さぶられる。そんなの俺が聞きたい。俺は何もしていないのだから。それでも呼ばれたからには答えるのが筋ってものだろう。渋々立ち上がり、声の主の元へ歩いていく。視線が痛い。クラス全員が不思議がっている。なんでこいつがって顔に書いてある。
「ここだとなんだから、場所を移動しましょう」
「は、はぁ……」
そう言った彼女の後ろについて教室を出て廊下を歩きながら、必死に考える。忘れていただけで、本当は何かしてしまったのか? いや、何もしていない。話したこともないはずだ。
目の前を歩いていた彼女は国語資料準備室の前で立ち止まり、扉を開けて中へ入っていった。俺もその後に続いて中に入り、扉を閉めるように指図されたので従う。彼女は俺が扉を閉め切り顔を上げたのを確認すると、口を開いた。
「私と付き合って」
「……は?」
自分の耳を疑った。今日初めて会話をした女子に告白されるなんて、何かの間違いではないかと。
「聞こえなかったかしら。私と付き合ってと言ったのよ」
「え……と」
予想外だった。告白が、ではない。彼女の言葉と態度がちぐはぐなのだ。付き合ってという割に、恥じらいや甘い雰囲気が感じられない。威圧感はびしびし感じるのだが。
「お願いしてるんじゃないの。そうね、命令……強要かしら?」
「…………」
「返事がないのだけれど」
目の前の少女は笑顔なのに、目だけが笑っていない。怖い。逃げ出したい。蛇に睨まれた蛙とはまさにこのことだと思った。
俺は平穏に、地味に、淡々とした日々を送ることに重きを置いて生きてきたというのに、どうして学校一の美少女と有名な緑青藍に、付き合うことを強いられているのだろう。
緑青藍、綺麗な名前であるが、本人もまたその名前に負けず劣らず美しい容貌をしている。
緑の黒髪と称される長く艶やかなストレートヘアに、透き通るように白い肌、大きな目は長い睫毛に縁取られ、形の良い唇からは鈴のなるような声でーー俺に脅しをかけている。
正直、断りたい。こんな美人と付き合うチャンスなんて今後一生ないということが薄々わかっていても、ご遠慮願いたい。俺は目立ちたくないのだ。いや、もう先ほど既に目立ってしまったのだが。それにしても怖い。美人が凄むととてつもない迫力がある。
「まさか、断るつもり? これがどうなってもいいの?」
「そっ……それは!」
緑青の手には一冊の俺のノートが握られている。何の変哲もない普通のキャンパスノートだが、書かれている内容が問題なのだ。これが黒板の写し書きであるならば、どんなによかったことだろう。
「……ノートを返してください」
返事はしないで、用件を伝える。そのノートさえ返ってくればいい。それは俺にとって、とても大切なものなのだ。
「じゃあ、付き合うのね?」
「……脅迫はよくないと思います」
「だったらノートは返さない」
緑青は俺のノートを両手でぎゅっと抱きしめた。無理やりとることができないようにするためだろう。恐ろしい女だ。
「あの……緑青さんは、俺のことが好きなんですか……?」
単純に疑問だった。俺と彼女では釣り合わない。俺よりもイケメンで優秀な男子はたくさんいる。それなのに、どうして俺なのだろう。
「勘違いしないでほしいのだけど、私、あなたのことなんてこれっぽっちも好きじゃないから」
これっぽっちも、を強調して冷たく言い放たれた言葉は、俺の胸に突き刺さった。少なからず俺に対して好意があるから付き合えと言われたのだと思っていたため、不意打ちをくらった気分である。好意を抱かれているから告白されるわけではないと、初めて知った高校一年生の夏。
「……じゃあ、俺じゃなくてもいいんじゃ……」
「何度も言わせないで。付き合うわよね?」
話が通じない。もう頷くしかないのだろうか。
一か八か、緑青を押さえつけてノートを奪還するか? という俺の考えを読み取ったのか、彼女は挑発するようにノートを片手で持ちひらひらと振った。
「断るなら断ればいいわ。その代わり、明日私があなたに振られたと泣いて言いふらすことになるけれど」
俺は絶句した。既にクラスメイトに緑青から呼び出されたのを見られている。そして明日緑青が俺に振られたと言ったら、その噂は瞬く間に全校中に広まるだろう。それだけの影響力を、彼女は持っている。学校一の美少女で、学校一の有名人。おまけに品行方正、成績優秀、憧れの高嶺の花である彼女を振ったとなれば、ましてや泣かせたとなれば、俺は間違いなく針のむしろに立たされるだろう。
もう逃げ道がない。いや、初めから、そんなものはなかったのだ。ノートなんぞなくとも、俺は頷くほかなかったのだ。
「……付き合います」
「そう。じゃあこれはお返しするわね」
随分とあっさり、ノートを返してくれたことに安堵する。緑青は用が済んだので自分の教室へ帰ると言い、扉に指をかけた。
「けっこう、面白かったわ。続きも読ませてね」
俺がその言葉にひどく動揺したのを見て、緑青がにんまりと笑った。その笑顔は魅力的で不覚にも見惚れてしまった。
このノートには俺の秘密が詰まっている。誰にも言ったことがない、密かな夢。書かれているのは漫画のネームである。ネームというのは下書きのようなものだ。そう、俺はこっそり漫画を描いている。
秘密がバレたとショックを受けている自分と、お世辞かもしれないが面白かったという初めてもらった感想に喜んでいる自分がいて、頭の中が混乱している。心臓がやけにうるさい。
俺の平凡な日常は、これからどうなってしまうのだろうか。