無記のファイル
書いた者と書いた者が許可した者しか読むことの出来ない妖字。読むには書いた本人の気持ちを動かすしかない。しかし、もともと見せる気のない相手に見せるわけもなく、見たければ自力で勝手に見るしかないということだ。その方法はいたって簡単である。何でも良い、白紙でも床でもいい、そこに解くための呪文を書いていく。その上に読み解きたい紙を置く。そして紙に息を吹きかける。すると一瞬だけ妖字が浮かび上がる。チャンスはその一瞬だけで、二度目は出来ない。この呪文が行えるのにも条件が存在する。妖字を書いた本人よりも妖力が強いことだ。
その条件に当てはまるのは、翡翠とフィリッツ、二人であるが、フィリッツの足首には封じの腕輪が付いたままであるため、妖術は使えない。
「ということは、必然的に俺がやるの!?」
気に食わない表情を浮かべ、大きなため息を吐いた。
三人はフィリッツの仕事部屋でテーブルを挟み座っていた。心配した栖愁が、紅茶と茶菓子を用意してくれていた。
「翡翠しかいないのなら、仕方がない」
「やだぁ……」
「何で?」
「この術の成功率は五分五分だからだ」
「五分五分?」
「相手と著しく妖力の強さに差があるのなら話は別だが、俺とオーガイではそこまで離れていない。ということは失敗するかもしれないし成功するかもしれない。それは、俺には分からない」
「でも他に方法は無いのだろ?」
「だから、オーガイに……」
「無理だろ」
空汰が苦笑を浮かべ即答すると、翡翠は大きなため息を吐いた。
「失敗すると時間が動き出すかもしれないのと同時にオーガイに気付かれる。これを書いたのがケンジならケンジに気付かれる」
「その辺なら私が察します」
フィリッツの言葉に、翡翠は不満を見せながらも白紙に呪文を書いていった。
その間、空汰は何か言いたげなフィリッツに気付いていたが、黙っていた。
そして書き終わった翡翠は立ち上がり、机の上に呪文が書かれている紙を置きその上にファイルを重ねて置いた。
「特殊なものにした」
ファイルでは紙が何枚も束になっており、一瞬だけですべてを見ることは不可能である。そのため、成功すれば翡翠が集中している間のみ見られるように呪文を書いたらしい。しかし、もちろん成功率は下がる。
翡翠は深呼吸をひとつすると、手を合わせた。
「秘密よ、暴かれろ……」
そう言った瞬間、ファイルが僅かに浮き上がり不安定に揺れ床にドサッと落ちる。そして、呪文を書いた紙が燃え消えた。
それを見たフィリッツはスッと窓の外に視線を向けた。カラスが羽を羽ばたかせていた。もう一つ、あることに気付いた。
「翡翠様、スカイ様」
翡翠は焦りの表情を浮かべフィリッツに向き直り、空汰はスッと立ち上がった。
「急いでお逃げ下さい、オーガイが来ます」
失敗した。
❦
空汰は翡翠に腕を掴まれ、窓から飛び出した。落ちる、そう思い目を閉じたが風を感じるだけで痛みはなかった。
目をゆっくり開くと体が宙に浮いていた。腕だけはしっかり翡翠が掴んでいるが、それ以外ではきちんと浮いていた。
やっぱり、自力で飛べる!?
そう思ったのもつかの間、ふと下を見てしまった。
「怖い」
「お前、高いところ苦手なのか?」
「俺高いところ無理なんだ」
「俺と逆か」
そういうと、妖長者の部屋まで上がっていった。しかし、窓は閉じられていた。
「どうする気だ?」
翡翠は一瞬考える素振りを見せた後、スッと後ろを振り向いた。そこには何もいない。広く森があるだけだ。
「隠れてないで、出て来いよ」
空汰が不思議に首を傾げていると、数秒後森の中から一羽の蝶が飛んできた。澪だ。翡翠の声は決して大きなわけではなかったが、澪にはどうやら聞こえていたらしい。
「お前なら入れるだろ?」
チリンチリンと澪が答える。相変わらず空汰には何を言っているのか分からなかった。澪は窓の小さな隙間から入るのかと思っていたが、窓を通り抜けていった。
空汰が驚いていると、澪は中から鍵を開けた。翡翠が窓を開き中に入ろうとした。だが、空汰の片足が窓に引っ掛かり腕を掴んでいた翡翠と共にこけ落ちた。
澪はその様子を笑っているのか分からないが、静かに窓のそばで見ていた。
「お前な!」
「ご、ごめん」
「痛いだろ。ったく……」
「ごめんって。足が引っ掛かったんだ」
「ほんとお前はドジだな」
「ボーっとしていたんだよ。澪が窓を通り抜けるから」
「澪が窓を通り抜けることなんか当たり前だろ!? 影なのだから。何なんだよ、今更」
「え!? 影!?」
翡翠はどうやらこけ落ちた反動で、手をすりむいたらしく痛そうに見ていた。
二人が入った部屋は妖長者の書斎だった。
どうやら翡翠は少しイライラしているようだ。
「ったく、こんな時に怪我したら面倒だろうが」
「ごめんって」
空汰はスッと立ち上がり、翡翠に手を差し伸べた。翡翠はその手を握り立ち上がった。
窓を閉め二人とも同時に振り返る。
そして、固まった。
なぜ気づかなかったのかが不思議なくらいだった。空汰は苦笑を浮かべ、横目に翡翠を見ていた。
二人が振り返ったそこには、呆然と立ち尽くす珀巳がいた。
「翡翠……様……?」
珀巳の言う翡翠はどちらの翡翠だろうか。
口を堅く結んでいる翡翠から視線を逸らし珀巳を見据える。珀巳はかなり動揺しているようだった。
「珀巳」
呼ばれハッとした。
「その…………」
しばらく沈黙が訪れた。この静かな時間が耐え難い。
やがて、翡翠が口を開きかけたとき、珀巳がフッと笑みを浮かべた。二人が驚いていると、珀巳はスッと胸に手を当てた。
「翡翠様、お久しぶりにお目に掛かります」
翡翠はその一言ですべてを悟ったらしく、ため息を吐き苦笑を浮かべた。
「お前にもばれたわけか」
「二度目ですね、本当の姿を見るのも」
気にもとめていなかったが、翡翠はオーガイに捕まえられ妖長者として部屋に戻されたときに姿を戻していた。黒銀の髪に藍色の瞳……それは翡翠本来の姿である。
「珀巳……」
その瞬間、翡翠は深々と頭を下げた。
隣にいた空汰も驚いたが、何より驚いていたのは珀巳自身だった。
「ひ、翡翠様!?」
「すまなかった。あのとき森の入り口で会った澪と名乗る男は俺だ」
珀巳は一瞬驚いたが、すぐに哀しげな笑みを浮かべた。
「もしかしたら……とは思っていましたが、妖長者の印も妖石も感じられなかったので分かりませんでした。あのとき出会った男と一緒にいると、何故か心を許してしまう自分がいました。あの男が男の子としてこの屋敷に来た時には、本当に妖長者様ではないかと疑いましたが、そこは流石翡翠様です。私もなかなか気づけませんでした。
こちらこそ、大変申し訳ありませんでした」
二人とも深く頭を下げる。空汰のみがどうしていいのか分からず、おどおどしていた。そこに澪が肩にとまった。
二人とも顔をあげると、二人は笑顔だった。
そして長い別れを埋めるかのように抱きしめあった。
空汰はそんな二人を見て自然と笑みが零れていた。
――――この二人ならどこまででもいける……。この二人の相性の良さはどこからくるのだか……俺には分からないな
❦
無造作に扉が開けられ、血相を変えたオーガイが入ってきた。
いつものように窓際で本を適当に開いていた。無論、読んでいるわけではない。
「フィリッツ!」
「どうされましたか?」
「どうやって、牢から出た!?」
やはりまずはそこですよね。
本をパタンと閉じ、机上に置いき微笑みながら自分の首元をトントンと指さした。
「彼はとても優秀ですので」
「翡翠様は呪いをお解きに?」
「えぇ、余裕そうでしたよ」
「面白い……。それで、お前はこれからどうするつもりだ。お前は裏切り者ではない」
「えぇ……確かに私は裏切り者ではありません。皆さんとは違います」
「お前はどこまで話したのだ」
「皆さんが裏切り者であること、翡翠様の暗殺計画の全貌。それくらいです」
「それ以上は?」
「以上も以下もありません」
「ならいい。お前のせいで大変なことになっているというのに、お前のその何食わぬ顔が気に食わないのだ!」
「私のせいですか?」
「お前のせいだ。お前という存在がいるから、ややこしくなっているのだ! それもわからないのか!」
「私にしてみれば、一番ややこしいのは皆さんの方です」
「そんな生意気な口を聞いていいのか?」
「えぇ。私は一応長老の長です」
「まだ、封じの腕輪が解除されていない。つまり、お前は今妖術を使えない」
「だから何だと言うのです?」
「は!?」
「妖術が使えないのであれば、妖術に頼らなければ良いわけです」
「お前が俺に勝てるとでも?」
「はい」
「言うじゃねぇか」
「私は伊達に長老の長をしているわけではありません」
「お前のその自信が綻びるのはすぐだな」
「心配しないでください。私は皆さんとは違う」
「だから一番狙われているということも知っているよな?」
「はい」
「俺からも狙われ、他の長老からも狙われ、『あいつ』からも狙われる。その意味が分かるか?」
「少なくても皆さんよりは分かっているつもりです」
「だったら、試すか? まずは、俺とお前で」
「構いませんよ」
「俺には妖術を使えるというハンデがある」
「どうぞ、使ってください」
全く動揺もせず、余裕を見せるフィリッツにオーガイは怒りを隠せずにいた。
「俺は前からお前のその、余裕の表情が大嫌いだったのだ!」
「そうでしたか」
「いつだって、自分の一歩手前を歩きながら、興味なさそうにしているお前が大嫌いなのだ! 持っているくせに使わない」
「私がそう望んだわけではありません」
「彰人様に選ばれたから何だ! お前は人間の味方なのだろ!」
「それは違います」
「どう考えたってそうだろ! 今だって翡翠とスカイという男の子を庇っているではないか!」
「いいえ。私は彼らを人間として見ているのではありません」
はっきりと答えるフィリッツにオーガイは訳が分からなくなってきていた。
前からそうなのだ。フィリッツは欲しいものをすぐに手に入れるくせに、手に入れた後は放置する。皆が欲しいと望むものこそ手にしていながら、それを軽々しく棄てようとする。そんなものに興味は無いだの形式的なものだけだの、本当に嫌な奴だ。弱い者の気持ちなんて、全く考えたことがないだろう。
「妖として見ていると言うのか? お前はバカか?」
「バカだと思います。妖として見ているわけでもありません。私は彼らをひとつの生き物として見ています。そして、妖世界を統べる妖長者だと。それ以外にありません」
「……それ以外に無くて、何故、彼らを助ける!?」
「分かりません。……正直私には分かりません」
「ここまではっきりと答えているくせに、急に黙るのか!」
「私は自分自身が一番分からないのです」
「俺はお前が分からない!」
言葉と同時にフィリッツに殴り掛かるが、軽々しく避けられてしまう。呪文を唱えると部屋中が炎に包まれ、炎龍が囲む。もちろん、本物の炎ではないが、触れば火傷するし最悪、焼死する。これで、まずは逃げ場を小さくする。
しかし、フィリッツは全く臆することなく逆呪文を唱え始めた。
それを見て、短刀を懐から取り出し飛びかかった。だが、呆気なく腕を掴まれてしまう。フィリッツはこんなにも強かっただろうか。昔から剣術は確かに一番強かった。でも、武術にはだいぶ劣っていたはずだ。
隙を見て、足を掛ける。フィリッツが少し焦りを見せたところで、上に乗り抑え込んだ。刃が首元すれすれで止まる。
力量では、フィリッツは勝てない。このままでは首を搔き切られてしまう。しかし、妖術は使えない。使えるのは自分の頭脳と技術のみである。
「オーガイはどうして、この屋敷に来たのですか?」
「そういうお前こそ、何故ここに来た!」
フィリッツがフッと笑ったのを見て、一瞬気を緩めてしまった。
その隙にフィリッツは、横に転がりオーガイの手から短刀を奪い取った。それをオーガイに向けるわけでもなく自分の懐にしまうと、再び逆呪文を唱え始めた。
消えていく炎を背に、ゆっくり立ち上がるとフィリッツと視線があった。相変わらずの余裕そうな表情をしている。本当に憎たらしい顔である。
「お前はここで殺してやる!」
フィリッツはにっこりと笑みを浮かべた。
「それは楽しみですね。どうぞ、殺してみてください」
❦
「では、貴方様が空汰様なのですか!?」
「え、あ、まぁ、そうです。俺のことを知ってるのか?」
珀巳は一瞬翡翠と視線を交差させ、首を横に振った。
「残念ながら」
口ぶりからして嘘を吐いていることはすぐに分かったが、翡翠が隠せと目で訴えたならば理由があるのだろう。
嘘を吐いているということは、珀巳は知っているということになる。何故知っているのだろうか。またひとつ、疑問が増えた。
しばらく下らない雑談が続き、話も途切れ途切れになり始めた頃、澪がずっと静かに窓際に居ることに気付いた。
空汰は立ち上がり、澪を指にのせて会話の中に入ると、自然と翡翠に飛んでいった。翡翠の頭にリボンのようにとまった。
「そういえば放置していたな」
『澪が窓を通り抜けることなんか当たり前だろ!? 影なのだから。何なんだよ、今更』
「澪は……影なのか?」
「お前本当に知らなかったのかよ」
「お前から聞いてないし」
「澪は妖じゃない。半妖だ」
「え? ハンヨウ?」
「出た。お前の滑舌の悪さ」
「う、うるせぇよ! は、半妖だろ!? 言えるし!」
「はいはい」
「で、何なんだよ」
「澪は俺の影だ」
「お前の?」
「俺の影の一部を切り取った蝶の半妖だ」
「お前の影から出来ているのか!?」
「あぁ、そうだ。だから、お前には言葉が分からないのに俺には分かるだろ?」
「あ、あぁ……。チリンチリンって」
「音は知らねぇけど。俺が呼べば来るし、俺に忠実」
「だから澪は信じてもいいって……」
「ま、俺を信じない時点で澪を信じても意味ないってことに気付いているかどうかはおいておくが……」
そういう翡翠の顔にはニヤニヤとした笑みが浮かんでいた。
「お前……」
「まあ、それくらいお前がバカってことくらい、もう分かってるけど~」
「お前絶対貶しているだろ!」
「まあまあ落ち着きたまえ」
「お前黙ってろ!」
「まあまあ、冗談だから」
「お前の冗談は嫌いだ」
「悪かったって」
「大体、澪がお前の一部なら澪はお前の位置が分かるんじゃないのか?」
「いや、それは分からない」
「何故? お前の一部なのだろ?」
「影のな。思考はそれぞれだし、言動だって違う。俺だって気配を感じとる以外に澪がどこにいるのかも知らない」
「いつ作った?」
「お前が妖長者になった後だな。お前には式がいるからいいが、俺にはいないから、まあ暇つぶしを兼ねて初めて作ってみた」
「初めて!?」
「そう」
「初めてでこのクオリティ!?」
「下手な奴は本当に影っぽく黒い色の蝶になるらしいが、澪は綺麗な青色だな」
「ダイが珍しいと言っていた」」
「当たり前だ。例え俺の影からだとしても、半妖でも蝶を模した妖は高級妖の分類に入る。契約を交わすことも難しい上に、数少ない。まさか、作り出したとは思わないだろ?」
「俺だって妖だって思っていたんだ」
「珀巳がはじめから味方だと分かっていたら、澪はいらなかったがな」
珀巳は苦笑を浮かべた。
「申し訳ありませんでした」
「そういえば、翡翠。お前、珀巳に俺の名を教えて良いのか?」
「あぁ、良いよ」
「何故? 本人の前で言うのもなんだけど、信じて良いのか? 一度裏切っているんだ」
「だから信じるんだ」
「え?」
「裏切り者だと敵にばれた者が、ずっと裏切り者でいるわけがないだろ? それに珀巳は自ら自分の口で話したんだ。澪という名の俺と翡翠という名の俺に」
「だからって」
「大丈夫だよ」
「だからお前のその自信はどこから来るんだよ!」
「そんなに心配なら、珀巳の真の名を教えておこうか?」
「え……」
「珀巳に裏切られたと思ったらその名で縛ればいい。お前なら長老以外なら縛れるはずだ」
「でも」
空汰の心配とは裏腹に、珀巳は安堵の笑みを浮かべていた。
「空汰様、私の真の名を教えましょう」
「でも珀巳……」
「私は翡翠様と空汰様の味方です。確かにこの身、一度裏切りました。しかし、信じていただけるのであれば、私は一生お二方についていくと誓いました」
「でも……」
「ですから、私の名を空汰様にお教えます」
「名を縛ることは……」
「普通はいけないことです」
「だったらっ」
「空汰様、信用を得るために一番手っ取り早いのは自身の真の名を教えることということを覚えておいてください」
「珀巳……」
「ただし、必要以上に真の名で呼ばないでください」
「それは当たり前に」
「私も空汰様ではなくスカイ様と呼ばせて頂きます」
「頼む」
珀巳は翡翠を見て、空汰を見た。そして、小さく息を吐くと笑みを浮かべた。
「私の真の名は――」
❦
「はぁ……はぁっ……」
「ハァ…………」
「フィリッツ、お前武術の腕前は最低だっただろ!?」
「はい。昔は」
「はぁ……。いつの間に腕をあげた!?」
「長老となってすぐですよ」
「歳だな。俺の方がだいぶ疲れている」
「ではここから本気ですか?」
「お前……。俺はずっと本気だ」
「そうだったのですか? そんな風には思えませんでした」
本当にそう思っていたのか、とぼけているのか分からないが、これが演技ならかなりの腕前である。
「いちいち腹立つんだよ」
「申し訳ありません」
「あーもう! お前と話していてもイライラするばかりだ。やっぱり、さっさと死んでもらう」
「ですから、どうぞと言っているではありませんか」
跳び蹴りを軽々とかわし、妖術さえも何食わぬ顔で避ける。それどころか、武器を一切使わずオーガイを追いつめていった。徐々に壁際に詰め寄り、何もしないように見せかけて懐に先ほどなおした短刀を手に取り、オーガイの視線の高さの壁に突き立てた。
オーガイの額には脂汗が流れていた。
短刀から手を離し、にっこりと笑みを浮かべる。
「ですが、殺される前にファイルを見せていただけますか?」
オーガイは恐怖のあまり、そのまま座り込んでしまった。
❦
空汰と翡翠は珀巳にすべての計画を伝えた。現状とこれからのことを伝えると、珀巳はどこか腑に落ちない様子だったが、納得したようだった。
「では、これからはフィリッツ様と一緒に裏切り者と戦うのですか?」
「少なくてもそのつもりだ。珀巳も手伝ってくれるか?」
「空汰様に言われたらしなくてはなりませんね。たくさん、翡翠様がお世話になりましたので」
「じゃあお願い。協力者は多い方がいい」
「では、まずはどうしますか?」
その言葉に翡翠は、隠し持っていたファイルを取り出した。適当なページを開きテーブルの上に置く。
「これを読み解こうとした。だが、失敗したんだ」
「ファイルですか……。確かに一気に読み解こうとすると失敗します」
「でも、一枚一枚していては……」
「確かにその通りです。空汰様はなされないのですか? 感じたところ、翡翠様とあまり変わらない妖力の強さと感じます。寧ろ少し強いのかもしれません」
「空汰はまだ呪文を知らなかった」
「では一度試してみてはいかがですか?」
「空汰はどう思う?」
空汰は困った表情を浮かべていたが、小さく息を吐くと翡翠と珀巳を見た。
「やった方がいいならやるが、失敗したらしたで、何かしらことが起こるのだろ? 失敗する気しかしない」
「その気持ちこそが一番大切なのですよ。成功すると思えば、それだけ成功率も上がる者です」
「でも、俺は……」
「まあいい。とりあえず、今一番大切なことはオーガイだ」
「オーガイ?」
「オーガイにばれたということは長老全員にいきわたっている可能性が高い」
「これからどうするつもりなんだ!?」
「そこだ。長老全員に知られているのなら、あまり動けない。かと言ってここに留まっていることも出来ない」
「動くしかないか……」
「……そろそろフィリッツのあの質問に答えなくてはならないな」
「あの質問?」
『企みに終止符が打たれたとき、貴方様はその後どうなさるおつもりですか?』
「ま、企みに終止符を打つ前に、裏切り者を探さないとな」
「お前本当にどうするんだ?」
「何だよ。お前も気になっていたのかよ」
「一応」
「まあ、裏切り者をどうにかした後、お前を人間界に帰して俺は今まで通りだな。はじめに言った通りだ」
「え……」
「なに驚いているんだよ。最初から言ってるだろ!? 人間界に戻りたいって言ったのはお前の方だぞ」
「そうだけど」
その言葉を再び口にされるのは、はじめの頃ととらえ方が違った。
確かに人間界には戻りたい。妖世界という奇妙な世界にいるのはどうも居心地が悪かった。でも、人間界に居場所はあるのだろうか。ここでは、何だかんだ理由はあるものの、翡翠や珀巳、フィリッツがそばにいてくれる。それが自分の居場所だという証拠。
人間界には自分を嫌っている妹。死んだ両親の写真。友達。家も学校も楽しくない。
「人間界に……」
「え?」
「戻ったって……どうせ…………」
「人間界に戻りたくないのか?」
「いや、そういうわけじゃないのだけど……」
「お前が帰る場所は、お前が妖石を拾った時間だ」
「俺には居場所が……」
「ここにもお前の居場所は無い」
「え!?」
「妖長者は俺で、珀巳は俺の式。式や守護者、その他使用人は皆妖ばかり。お前がこの世界に残ったところで、この家に居られるわけでもない。望むなら、俺の権限を使って、この妖世界のどこかの街に家を用意してやってもいいが、喰われるのは時間の問題だ。ただの人間が、そう易々と過ごせるほど、甘くはない」
翡翠の言葉は最もである。それは痛いほどよくわかっていた。しかし、どうしても人間界に戻る気にはなれなかった。
黙り込み視線を落とす空汰を見た翡翠は、呆れ顔でため息を吐いた。
「そんなに人間界に帰りたくないのか?」
「あぁ……」
「……まあいい。後で考えても遅くはない」
「ごめん」
「俺も言い過ぎた。話を戻そう」
「……悪い」
「だから良いって。俺も悪かったって」
「難しいな、この世界」
「人間界と妖世界は難しいものだ」
「お前が言うと変に納得してしまうな」
「褒められているのか貶されているのか」
「どちらでもない」
「そうかよ」
二人はフッと微笑み、ファイルに視線を戻した。
翡翠が失敗したものを自分が成功するとは思えない。寧ろ大失敗をしてしまう。
「それで、フィリッツの質問には?」
「裏切り者は全員捕らえ、新しい長老を出迎え、新しく世界を作り直す。そして、空汰、お前とはお別れだ」
その言葉と共に、澪は廊下へと消えていった。
❦
フィリッツは一人、窓際に佇んでいた。ずっと気になっていることがあった。でもそれが何であるのかは分からない。何かもやもやと解決しない何かがある。しかしそれに触れてはいけないような気がしていた。
――――何だろう……。凄く嫌な予感……
ふと引き出しを開け、えんじ色のファイルを取り出した。
開くとそこには、翡翠裕也のプロフィールが載っていた。
翡翠の顔写真を指でなぞる。
「翡翠……裕也……」
――――スカイ…………
スカイのあの姿は本当の姿だろうか。翡翠のように変化の術を用いているのかもしれない。
――――スカイ……。空……
ハッとあることに気付いた。しかし何故か体が動かなかった。確認しなければならない、だが、体は警告を促していた。
「空……」
――――空……た……。空汰様…………
❦
「オーガイが来る」
翡翠のその言葉の直後、オーガイが三人のいる部屋にノックもなしに入ってきた。そして三人を舐めまわすように確認すると、不適な笑みを浮かべた。
「翡翠様、スカイ様。取引をしましょう」