フィリッツ
生誕祭一日目、会場を抜け出す前……。
空汰は黄木に気遣ってもらい、食事をしたり談話をしたりしていた。隅の方に設置されているソファに座りワインを手に取る。もちろん空汰は未成年だが、妖世界にそんな概念は存在せず、こういう席でお茶などが用意されるはずもなく、当然のようにお酒が用意される。
「妖長者様のようなお方が、そんなところでお休みになられていて、大丈夫なのですか?」
頭上から声が聞こえ見上げると、白いドレスとワインを片手に微笑むローリー・ニチュアーナが立っていた。
「ろ、ローリー?」
「どこかでお会いしたことがありましたか?」
あまりに親しげに話す空汰にローリーは不思議そうに首を傾げながら、向かいのソファに座った。
空汰はローリーに言われ咄嗟に口を抑えた。
暁月記学園では姿を変えて、通っていたため、ローリーは妖長者があのスカイだとは知らないのである。もちろん、翡翠がユウであることも知らない。
「あ、いえ、申し訳ありません。ローリー様、お初にお目に掛かります、妖長者の翡翠裕也です」
「ローリー・ニチュアーナです。この度は生誕祭へのご招待感謝いたします。それから、許婚候補として選んでいただき、大変光栄に思います」
学園のローリーとは打って変わっていた。学園で見せるあの笑顔も真面目さもなく、家のために何とか妖長者に気に入られようと、必死になって猫を被っている。
「こちらこそ……。お会いできることを楽しみにしておりました」
「少しでも親しくなれればと思っております」
「そうですね」
静かな時間が流れる。会話が続かなかった。
「あ、えっと……。ローリー様は学園に通っていたそうですね」
「はい。暁月記学園に通っておりました。今は自由に生きております」
「もう学園には戻られないのですか?」
「……そうですね……。仲間と共に日々を過ごしています」
「申し訳ありません」
「ど、どうして……翡翠陛下が謝罪なさるのですか?」
「聞いたら悪かったなと思いまして……」
「少し……思い出したくない事でした……」
「も、申し訳ありません!」
「あ、いえ! こちらこそ、無礼な物言い申し訳ありません」
「いいえ、お気になさらないでください」
「誠に申し訳ありませんでした……」
「ところで、ローリー様は何故妖長者の許婚候補に?」
「え?」
「聞いた話では、双方話し合いを行い、双方の承諾により許婚候補となるそうです。ということは、ローリー様の方も承諾しているということになります。何故?」
「それは……。……私も家の事がありますので……」
「お優しいのですね」
「そんなこと……」
「恋愛というものは、本当に好きな相手とするものですよ、ローリー様」
空汰はそう言って立ち上がった。
「綺麗ごとではないと、俺は思います」
空汰は呆然としているローリーに一礼すると去って行った。
❦
「翡翠陛下」
振り返るとそこには女妖が立っていた。赤いドレスに濃い化粧(?) という容姿に空汰は少し身を引いた。
「失礼ですが……」
「許婚候補のエンシー・エティソンと申します。お初にお目に掛かります」
「これはこれは、エンシー様、失礼いたしました」
「お誕生日誠におめでとうございます。細やかな贈り物をさせていただいております」
「数が多いようなので、あとで確認しますね」
「ありがとうございます」
「エンシー様」
「はい?」
「エンシー様は何故、許婚候補に?」
「……もちろん、翡翠陛下を思ってのことでございます。この世界のために、翡翠陛下のために少しでもお力添え出来ればと思っております」
きれいごとにすぎない。こういうタイプは地位に興味があるだけだ。妖長者の夫人ともなれば、かなり扱いも良くなり、その家も必ず安泰の道となる。
「……そうですか」
「陛下、ダンスのお相手をお願いできますでしょうか?」
「……申し訳ない。今日は踊るつもりが元から無いのです」
「……そ、そうですか……。こちらこそ、申し訳ありません……」
エンシーは残念そうに深く一礼するとその場から去って行った。
翡翠もああいうタイプは苦手だろう。
❦
空汰は黄木と壁の花を決め込んでいた。
「翡翠様、踊られないのですか?」
「俺は……、今日はいいよ……」
「エンシー様が残念がっておられました」
「地位ばかり欲する者に興味は無い」
黄木はクスッと笑った。
「何だ?」
「申し訳ありません。……傍から興味がないのでしょう?」
「……そうかもしれないけど……」
「けど?」
「俺には分からない。自分のことも誰かのことも……」
もちろん、翡翠のことも……。
そこに黄色のドレスに身を纏った妖が近づいてきた。
「陛下、一曲お相手願えますか?」
「君は?」
「申し遅れました。わたくし、ジュリナ・ファロンナと申します。翡翠陛下の許婚候補でございます」
「……こちらこそ、お初にお目に掛かります。……その誘いなのですが、今日は誰とも踊らないのです」
「一曲だけでも……」
「申し訳ない」
「しかし!」
空汰が呆れて口を開くよりも先に黄木が一歩前に出た。
「ジュリナ様、申し訳ありませんが、聞き分けていただけますか?」
「黄木様……」
「本日は誰の誘いも断っております。貴方様だからというわけでは決してございません」
ジュリナは不満そうだったが、黄木の言葉に空汰を一瞥すると、一礼した。
「失礼をお許しください、陛下。本日はご招待いただきありがとうございます」
空汰は愛想笑いを浮かべていた。
「こちらこそ、ご出席くださり感謝します」
ジュリナはもう一度一礼をすると去って行った。
空汰が大きなため息を吐くと、黄木が心配そうに見た。
「大丈夫ですか? お休みになられますか?」
「いや、大丈夫。許婚候補が次から次へと……」
「仕方のないことです」
「俺が……許婚候補から一人許婚を選んでしまったらどうなる?」
「おめでたいことでございます。しかし、許婚なだけであって、まだ婚礼の儀を執り行うような状態ではないため、今とさして変わらないかと……」
「両手に花だな……」
「しかし、惑わされてはなりません」
「え?」
「許婚候補のほとんどが地位に興味を持ち、自分のため、家のために許婚になるべく声を掛けてきています。そこに純愛など存在しません」
「そうだろうな……」
「翡翠様」
真面目な顔をして空汰に向き直る。
「恋愛は好きな相手とやるものだという言葉、私も賛成です」
「聞いていたの!?」
「もちろんです」
「困ったな……」
「ローリー様相手に、どうなるかと思っておりましたが、何とか切り抜けていただけて良かったです」
「そんなに俺、信用無い?」
「いいえ。私は貴方様に信頼をおいております。この屋敷の守護者全員でも長老様方でもなく……、貴方様に」
「黄木はどうして、ここに?」
「それもお忘れですか?」
「あ……、ごめん……」
黄木は笑みを浮かべていた。
「いえ、構いません。……翡翠様が私を助けて下さったのです」
「俺が?」
「はい」
「何から?」
「それは……。また次の機会にでも」
❦
黄木は空汰を会場の中央に連れてきた。ある一点に視線を向け、空汰に説明する。
「あちらの奥で座っている方がハリィ・キャドバリー様です」
「……爆睡?」
ハリィは椅子に座りテーブルに伏せてしまっていた。折角の紫色の可愛らしいドレスが台無しである。
「ちなみに……翡翠様と同い年です」
「……あぁ、俺と……。……え!?」
「ハリィ様は翡翠様と同じく生まれてまだ二十年です。妖世界ではかなり珍しい許婚候補になります」
「一応妖だよな?」
「はい」
「俺と同い年……」
いや、正確には翡翠と同い年である。
「話されるのでしたら一番話しやすいかとは思います。つい数日前まで人間界に勉強しに出ていたらしいですから」
「人間界に!?」
「はい。ただ少し見た通り風変りなところはありますが……」
黄木が話し終わる前に、隣に立っていたはずの空汰は消え、寝ているハリィのもとに行っていた。
空汰はハリィの顔を覗き込んだ。まだまだ可愛らしいという言葉が通じるほどの女の子である。
空汰の気配に気づいたのかハリィは眠そうに顔をあげると空汰と視線があった。
「わっ!」
「あ、ごめんなさい、起こしてしまいましたか」
「えっと……。…………ひ、翡翠陛下!? これは失礼いたしました! わ、わ、わたくし、ハリィ・キャドバリーと申します! よ、よろしくお願いします!」
「お初にお目に掛かります、翡翠裕也と申します。……あの……、人間界に行っていたというのは本当ですか?」
「は、はい! 一ヶ月間人間界で過ごしておりました!」
「何か動きとかありましたか?」
「動き……ですか?」
「ニュースです」
「あ、えっと……。総理や大統領、国王が変わったとかですか?」
「それ以外にも……」
「大きな動きは無いと思います! 多分ですが」
「そうですか……。平和ですか?」
「少なくても私が過ごしていた日本という国は、平和で静かな日常でした!」
「そうですか。少し安心しました」
「陛下は人間界にお戻りになられるのですか?」
「え?」
「人間界にお戻りになられないのであれば、人間界の情勢など気にならないでしょう?」
「それはそうですが……」
「では、お戻りになるのですか?」
「妖長者はここで一生を過ごすものだと聞いています」
「えぇ、私もです」
「ですから、残念ながら人間界には戻れないでしょう」
「すきあらば、お戻りになられますか?」
「……いいえ」
「安心しました!」
盛大にハリィのおなかの音が鳴る。
「お腹がすきました! あ、陛下、本日はご招待くださり誠にありがとうございます。では、失礼いたします」
ハリィは無邪気な笑みを浮かべ一礼をすると足早に去って行った。お皿を手に取り料理を盛り始めた。
黄木が苦笑を浮かべ近づいてくる。
「どうでしたか?」
「マイペース」
「のようですね」
「でもそうだな……。あれくらい、立場関係なく話してくれるのは良い……」
「翡翠様に上からものを言うのは長老くらいですから……」
「親という有り難さが何となく分かる気がするよ」
❦
「あとはセイナ様……」
「そういえば見かけませんね」
「出席になってる?」
「はい。本日欠席の方はいらっしゃいません」
「じゃあどこかにいるはずなんだけど……」
「私としましても早めに挨拶をしていただいた方が、ジン様にご報告が出来ますので良いのですが……」
「なら探してみようか」
空汰と黄木は会場中を廻りキョロキョロと見回した。しかし、どこにもいなかった。
「いませんね」
「帰った?」
「許婚候補に名が上がった者が自らそのチャンスを棄てるとは思えません」
「でも、本人が興味なければ帰るとも考えられるけど……」
空汰と黄木の前をローリーが横切る。
「あ、ローリー様」
ローリーは驚いたように一歩下がると敬礼した。
「どうなさいましたか? 陛下」
「聞きたいことがあるのだけど……。セイナ様を知らない?」
「セイナ様……? えっと……」
「セイナ・シェタモール様」
「子爵家のですか?」
「そう」
「あ……。お帰りになられたかと思います」
「帰った!?」
「私も正確なことは分かりませんが、会場から出て行くところを見ました」
黄木と空汰は顔を見合わせ、空汰は呆れ笑みを浮かべた。
「そう。ありがとう、ローリー様」
「お役に立てたなら光栄です。失礼いたします」
ローリーが去った後、黄木はジンにとりあえずの報告をしに向かった。空汰はそれに気づかず、一人ボーっと妖たちの動きを眺めていた。
妖も人も、意味は異なっていても祝いの席にこうして集まってくれる。嫌でも来るその気持ちや言動は人間と何ら変わらない。
空汰がふと隣を見ると黄木が居なくなっていた。空汰は、一度会場に視線を向けた後、会場から抜け出した。
❦
空汰と翡翠、クロイは森の中で対峙していた。空汰は翡翠の胸倉を掴み揺さぶる。
「何とか言えよ! 俺が知っているお前はそんな酷い事するような奴じゃないだろ! お前は……そんなこと、出来ないよな!? なぁ、翡翠、何とか言ってくれよ! 四年前、黒猫族を殺したのはお前ではないと! 言ってくれ!」
翡翠は泣きそうなほど哀しそうな表情を浮かべていた。
そして空汰と視線を合わせ、力のない声で囁いた。
「……殺した……。俺は……四年前、黒猫族を皆殺しにした…………」
空汰は胸倉から手をゆっくりと離すと数歩後退った。
「翡翠…………お前……」
翡翠はため息交じりにクロイに視線を向けた。
「お前か……。あの時木に隠れ怯えていた子どもは」
「……! ではやはり、お前があの時の!」
「そうだ……」
「認めるのか!?」
「……あぁ……」
クロイは翡翠に手当してもらった傷を手で押さえながらよろよろと立ち上がった。慌てて空汰が肩を貸す。
「なっ……なんで……。なんで! 俺の仲間を殺したんだ!」
翡翠はクロイから視線を逸らした。
「陛下!」
「四年前……、俺は……黒猫族に限らず部族地域を探っていた。そして、黒猫族を調べていた時、あることに気付いた……。現長老は生き残りの長老だろう? そしてお前の父でもある」
「そうだ」
「俺はあることについて、長老に話を聞きに行ったんだ。それが、あの惨劇の日だった。はじめは話し合いをするだけで、お互い手を出すことはしないという話だった。……だが、お前の集落は炎に焼かれ人々は死んだ……。
クロイ……一つだけ勘違いをするな。先に手を出したのは、俺ではなくお前の父親だ」
『これは……翡翠陛下、ようこそ遠路遥々おいでなされました』
族長は翡翠の白百合のような髪色に青い瞳という珍しい容姿に見とれていた。
『長老ですか?』
『いいえ、ここに長老はおりません。ここにおるのは、老いぼれの族長だけです』
『族長ですか?』
『はい』
族長と名乗った男は翡翠を家の中へと誘い込むと、テーブルを挟んで座った。
お茶が出され茶菓子も出されるが、翡翠は見向きもしなかった。
『俺は忙しい中ここに来ました。早々に話を終わらせたいのです。もちろん、荒手を使うつもりは全くありません』
翡翠はそういうと腰から鞘から出さずに剣を抜き取り自分の脇にそっと置いた。
それを見た族長は大きなため息を吐き、懐に隠し持っていた短刀を自分の脇にそっと置いた。
『これでいいですかな?』
『俺を信じられないようでしたら、持っていても構いません』
『貴方様はまだお若い……』
『だから何です?』
『え?』
『若いからと言って、俺は怯みませんし権力に怯えるようなことはしません。脅すなら脅してください』
『脅すなんて、そんなことするわけがないではありませんか!』
『そうですか』
『え、えぇ……』
額に脂汗をにじませる族長を真っ直ぐに見つめる。
『……それでは、本題に参ります』
『本日はどのようなご用件ですかな?』
『率直にお聞きいたします。……何を御企みでいらっしゃいますか?』
『えっ……あ、その……』
族長は言葉を詰まらせた。額からでなく手にも汗がにじんでいる。非常に動揺していることが目に見えやすいタイプだった。
『次期族ち……』
『待て!』
族長の首元に黄木の短剣が寸止めされるのと、族長の手が短剣を掴むのはほぼ同時だった。族長は首元の短剣をじっと睨み固まった。しかし翡翠はあくまで冷静に取り繕った。
『彼は貴方の息子ではないのですか?』
『……ッ……。貴族に、何が分かる!?』
『分かりません』
『……! 大体陛下には関係のないことです!』
『そうでしょうか?』
『は!?』
『ここは妖世界。俺が統べる世界です』
あくまでも冷静沈着な翡翠に、族長は手を固く握りしめ震わせていた。
『主にこういった集落は、人間が妖世界を統べることに反対している者ばかりだというのことも……ご存知ですかな?』
『えぇ、もちろんです』
『でしたら、何故!』
『何故? 分かりませんか?』
『貴族の考えるようなことはわしらには分からない!』
『俺は自分を貴族だと思ったことは、あまりありません。正直自覚も無く、よく抜け出して怒られています』
『ふざけたことを……』
『それで殺されたのであれば、それは俺の失態です』
『……貴方様が、どこまで知っているのかは知りませんが、この世界の長である、妖長者様はわしらの気持ちは分かるはずがない!』
『分かりません。彼を生贄に捧げるために匿っていることなど』
『貴様ッー!』
翡翠は短剣を持っている黄木の腕を掴み押した。首元から短剣が無くなり、族長は短剣を手に取り翡翠に向かって飛びかかって来た。だが、翡翠の表情には余裕の笑みが浮かんでいた。その笑みを見た族長が一瞬怯んだのを見て、翡翠はスッと表情を変えた。族長が気づいたときにはもう遅かった。翡翠は脇に置いていた鞘に入った剣を手に取り、柄頭で族長のみぞおちを殴った。すると族長は、ヴッと鈍い声をあげその場に倒れ込んだ。
翡翠は剣を腰に差しながら立ち上がり族長を見下ろす。
『族長、俺は始めに言いました。荒手をするつもりはありませんと……』
族長はみぞおちを苦しそうに手で押さえながら翡翠を必死に見上げた。
『陛下は……何故そのことを……』
『ここ最近、妖世界で、人間界で見られる薬物が集落の間で取引されていると聞き、その調査をしていました。どこの集落が要なのかと……。もちろん、黒猫族も同じことです。ただし、ここは薬物ではなかった。妖世界を人間が統べていることを忌み嫌う者達が集う黒猫族であり尚且つ、生贄を捧げることにより集落の安泰を招いているという考えを持つ者たちが集うところだという情報を、たまたま手に入れた。次、生贄に捧げられる予定の者を、集落の者は全員知っている……。知らないのは当の本人だけ。そして、知らず知らずのうちに殺されてしまう。……生贄を捧げるからなんだ? 生贄を誰に捧げているんだ?』
『陛下は何も知らないのです!』
『確かに俺は妖世界の古の言い伝えなどよく知らない。だが、生贄を捧げることにより集落に安泰を招くなど、そんな事実はどこにもない!』
『陛下には全くの無関係の話です』
『この世界は今や俺の管理下。俺の管理下で不必要な死人は出さない』
翡翠がそういうなり、族長は笑い始めた。小さな笑いから大きな笑いへと変わっていく。やがて笑いすぎてせき込みだすほどである。
『……へ、陛下。貴方様の付き人は一人ですか?』
『……はい』
『それはそれは……。なめられてしまったものですね』
次の瞬間集落の者達だろう、耳を生やした人々に囲まれた。五人がかりで黄木が縛られていく。翡翠は黄木を見たが、助けることも無く、また黄木も抵抗はしなかった。
『こちらこそ』
『陛下、我々は生贄を捧げなければならないのです。それは力がある者ならだれでもよいのです。わしの子がだめだというのならば、陛下が変わって頂けますか?』
『お前は今の話を聞いていたか?』
『えぇ、聞いていました』
『生贄を捧げても捧げなくても、お前らの力によっては良い方向にも悪い方向にもいく』
『いいえ、生贄を捧げます』
族長が合図をすると、十数人の男妖が翡翠を取り囲んだ。翡翠は抵抗することも無く、あっけなく捕まってしまった。手早く縄を巻かれ、剣を引き抜かれる。
中央の広場に縛られたまま翡翠は運ばれた。手首に縄が食い込み痛い。
壇上にあがると、まるで尊いものでも見るかのような目で見上げる集落の者達がいた。
『陛下、われらに幸福を……』
『族長』
『はい』
『……一つ、間違いがあります』
『え? 最後のあがきですか?』
『いいえ。……妖長者たるものが守護者一人だけ連れて、のこのことくるわけがない』
その声と共に周りから十数名の守護者が現れ、集落の者達を捕まえていく。自力で抜け出した黄木に縄をほどいてもらい笑みを向けた。
『さすが黄木』
『考えていることくらいは分かりましたので』
『抵抗して俺を助けるかと思ったのだけどな』
『そちらの方が良かったですか?』
『いや、どちらにしても、こうなるはずだったのだから』
壇上から見下ろすと守護者らが集落の者達を捕らえていた。
『黄木』
『はい』
『捕まえる必要はないだろ?』
『えぇ……。そういう指示は出ていないはずです』
背に黄木の声を感じながら、壇上から飛び降り置かれていた翡翠の剣を腰に差した。
『やめろ』
守護者たちは一瞬翡翠を見るが、それでも手は止めず結局集落の者達を全員縄で捕まえてしまった。
目の前に立っている守護者に視線を向ける。
『何故、捕まえる必要がある』
『……め、命令でしたので』
『誰の』
『それは……』
翡翠は守護者を睨み付けた。
『お前ら、俺付の守護者ではないな?』
翡翠の言葉を聞いた黄木が守護者の一人を気絶させ、守護者なら誰もが持っている身分証を取り出した。そこには、妖長者の名ではなくジンの名があった。
『ジン様です!』
『長老付か』
『一応お前らに言っておくが、長老より立場が上なのは妖長者。それを忘れるな』
『し、しかし!』
翡翠に先ほど睨まれていた守護者が震えた声を出した。
『何だ』
『……ひ、翡翠様はお優しい方なので安心できますが、長老方はとても怖いのです……。それに、私達はジン様付の守護者です……。恐れながら申し上げます……、長老付の守護者はその主の言葉が一番となります。例え……妖長者様のお言葉であろうともです……』
自分の守護者をよこした理由はこれだろう。
『それで? ジンはこいつらをどうしろと?』
『……翡翠様に全く手を出さなかった場合、そのまま解放してよいと……』
『俺は気が長い方ではない』
『………………翡翠様に手を出した場合は……』
『早く言え』
『……皆殺しにするようにとのことですッ!』
守護者のその言葉と同時に、周りにいた守護者らが家々に火をつけ、捕らえている子供や大人を殺し始めた。悲鳴と鈍い音が翡翠の耳に入る。
『……様! ひ……様! 翡翠様!』
呼んでも気づかない翡翠の肩に黄木の片手がのり、ハッと我に返った。
『翡翠様大丈夫ですか?』
『あ、あぁ……ごめん』
頭を抱え、目の前の無残にも切り殺されていく集落の者達から視線を逸らす。
妖世界を統べる立場の者が、ほとんど無抵抗の者達を殺していく。年寄りからまだ幼き子どもまで……。
違う。
こんな……。
違う。違う。違う。違う……。間違っている。
『やめろッ!』
一歩前に踏み出したところで黄木に腕を掴まれてしまう。
『今すぐにやめろッ! 俺の言うことを聞け!』
自力で縄を解いた集落の男が懐になおしていた短刀を取り出し、翡翠に切りかかった。その瞬間翡翠は黄木に腕を引かれ尻餅をついた。
目の前で黄木により男が切り殺された。返り血が服と顔に付く。
体がガタガタと震えた。
何故殺す必要がある。
嫌だ、怖い、暗い、汚い、誰かっ! 俺も殺される。
誰か……助けて……。
『翡翠様!』
黄木は咄嗟に翡翠の腕を掴んだ。
『お立ち下さい! こうなってしまえば、後戻りはできません』
翡翠を殺そうと集落の者達が次々に襲い掛かってくるが、黄木がそれをすべて止めていた。黄木が居なければ今自分は確実に殺されている。
ガクガクと震える足で無理矢理立ち上がり、壇に片手をつき体を支えると、腰の剣に手を置いた。
集落は火の海と化し、辺り一面には血まみれの死体が横たわっている。
この一線を越えてはいけない。
そんなことくらい、考えなくても分かる。誰かを殺してもいいですよ、なんてそんな授業も聞いたことないし、教わった覚えもない。もちろん、ある方が異常だが。
人間界でも不条理に殺されることもある。何の罪もない者達が狂者によって命を奪われる。でもそれは、法によって裁かれる。罰が与えられる。しかし、妖世界で法の番人をしている妖長者などの立場の妖たちが、殺しを行ったらどうだろうか。罰を科す側の者が全員中まであるならば、どんなに悪いことをしてもそれは全て善となる。妖長者の行いは、全てが善となる。
そんなはずはない。
仮にそうだったとしても、俺はそうはさせない。
意を結して鞘から剣を抜き、黄木の隣に並んだ。
『翡翠様?』
『黄木、妖長者の行いは全て善となると思うか?』
『……難しい問いですね』
『そうだな』
走り出し、守護者が小さな男の子を切りつけようとした。男の子は恐怖の顔に怯え、ガクガクと震えている。
翡翠は唇を堅く噛みしめ、スッと剣を振った。
刃は男の子の頭上を通り過ぎ、狙っていた守護者の体を切りつける。守護者は目を見開き、吐血するとその場に倒れ込んだ。
振り返るとそこにはすでに男の子の姿は無かった。
守護者を一人殺したことで、その場の空気が変わった。その場に居た者達は、翡翠の剣からポタポタと落ちる血の雫と横たわっている守護者を交互に見ていた。
『ひ、翡翠様! 何を!』
問うた守護者の背後に素早く回り込み、刃を首にあて切り裂いた。血しぶきが体中を赤く染めていく。
翡翠はこうなればジンの裏切り者となってしまう。裏切り者はそこで殺すのが暗黙のルールとなっていたが、一介の守護者如きに妖長者を殺すほどの勇気は無かった。
守護者の一人が覚悟を決めて、再び残りの集落の者達を殺していった。
それを止めるように次々と守護者を殺していくが、守護者も黙って殺されるほどバカではない。
『翡翠様! ジン様の命により、貴方様を御守しなくてはいけません! しかし、ジン様の敵となるのであれば、我々も敵なのです!』
『だからどうした? 確かにここのやつらは生贄を捧げるなど最低なことを考えている連中だ。だが、今となってはそれ以上に最低なやつらは、お前らだ』
『しかし! 全員を殺せとの命です!』
『その前に俺がお前ら全員を殺す』
守護者、集落の者が次々と死んでいった。
地面は血の海。周りは火の海。最悪な風景である。
ふと気づくと、広場に出ていた。
誰もいない。静かな世界に一人ぼっちで立っているかのようだった。
そこに黄木が小走りでやってきた。
『翡翠様……』
『黄木…………。俺は、何で妖長者になったんだろうな』
『その答えを見つけるためではありませんか?』
『お前くらいだよ、そんなことを言うのは』
『申し訳ありません。ジン様付の守護者と気づかず……』
『別に、それくらい大したことではない。ただ、殺す必要は無かった』
『そうですね』
『俺ももう、穢れの一員だな』
『翡翠様はそんなこと……』
『ここでは、陛下と呼んでくれ、黄木。先代の翡翠に悪いからな』
『陛下……』
『黄木』
『はい』
『守護者を全員殺せ』
『……! しかしっ』
『俺が責任を取る。全員殺せ』
二人は頷き合い、黄木はどこかへと消えた。
この黒猫族は周りを森に囲まれ、集落の者を皆殺しにしようとしている守護者の人数では森に逃げ込まれでもしたらまず見つけきらないはずだ。一番先に森に逃げていた者達もいたが、それは正解だったと思う。
そんなことを考えていると守護者が背後から迫ってきた。だが、残念ながら足元は血の海。嫌でも水っぽい足音が聞こえてしまう。
翡翠は無表情のまま振り返ると、守護者の剣を素早く跳ね上げ刺した。引き抜くと体がそのまま血の海に倒れ込んだ。
二つの足音が聞こえた。どうやら、この守護者は囮代わりだったらしいが、やはり残念なことに水っぽい音が聞こえてしまう。
翡翠は二人からの攻撃を瞬時に避け、守護者の腰から短剣を一つ抜くと、自分の剣と短剣で二人を刺した。守護者が常に何を携帯しているのかどこになにを持っているのかなどを把握している翡翠にとって、見せかけも通じない。逆手に取られてこんな風に何も持っていなくても武器は増える。
ため息を大きく吐き空を見上げた。正直夜なのか昼間なのか分からない、相変わらずの暗さだが、今日は妙に明るく感じられた。
その時、背後からカサカサと微かな音が聞こえた。守護者か集落の者が奇襲を仕掛けてくるのかと思い、振り返った。しかしそこにはあの時逃げ出した男の子がこちらを怯えた目で見ているだけだった。
早く逃げてしまえばいいものを。
『陛下』
スッと視線を逸らし、名を呼ぶ黄木を見た。服に返り血が増えている。
『陛下、全員殺せとの命ですが……。生き残りは確認できませんか?』
『……もういない。早く帰ろう……』
『かしこまりました』
翡翠は男の子を横目に集落を去って行った。守護者は全員死亡、集落の者達は森に逃げた者のみが生き残った。
翌日、ジンのもとに掛けあった。
だが、ジンは全く耳を貸さなかった。長老内で話したことだと、そのままお蔵入りとなった。
翡翠はクロイに視線を向けると、鞘を手に取り腰から抜くとクロイの前に掲げた。
「四年前、黒猫族を滅ぼしたのは俺だ。そいつは関係ない、何も知らない。俺が、翡翠裕也だ」
「どういうことなんだ?」
「さあな、トップシークレットだ」
「その長老は何を企んでいたんだ!?」
「今となっても分からない。俺は妖長者かもしれない、だが、妖長者なだけだ。長老がすべてを握っているし俺への隠し事も多い。俺はあの小さな屋敷の中で、無知の存在なんだ」
「わ、分からないって……!?」
「本当に申し訳ないと思っている」
クロイの瞳からは涙が溢れ、地面に崩れた。
空汰は翡翠とクロイを交互に見る。
「ありがとう」
空汰が驚いていると、クロイは涙ながらに翡翠に精一杯の笑みを向けた。
「貴方様の話を信じるなら、貴方様は俺らの味方をしてくれたということになります。……貴族は大嫌いだけど、貴方様の味方に俺はなります。……俺を助けてくれて、逃がしてくれてありがとうございました。……心より感謝を申し上げます」
「心からの感謝など、お主がする必要はない!」
聞き覚えのある声と共に、再び矢の雨が降り注いだ。
翡翠は咄嗟にクロイと空汰の腕を掴み走り出した。クロイは逃げる中、遠くでこちらを鋭く睨む族長である父の姿が見えた。
❦
十年前、翡翠裕也と出会った。
私が彼に初めて出会ったとき、小学四年生と聞いていたが低身長で幼さを残した体を震わせながら泣いていた。
それは十年前の夕暮れ時だった。
私は前妖長者がこの世を去り、公務をする者がいない間、その分の公務をしていた。長老の長としての公務もあるなか、妖長者分の公務をすることは限られた時間の中ではとても大変だったが、それも仕事だと割り切っていた。
その日も、私は変わらず公務を行っていた。
そこに慌てた様子で栖愁が部屋に入ってきた。
「フィリッツ様!」
「どうしました?」
「次期妖長者様が実鈴と葉羽に連れられ、この屋敷にやってまいりました!」
実鈴と葉羽、双方中級妖で、次期妖長者の名にあがっていた男の子を探す役を任せられていた者達である。
急ぎ栖愁と共に次期妖長者のもとに向かった。すると、階段を下りる途中から子供の泣き声が聞こえ始めた。
「離せよ! 離せー!」
「何をしているのです!?」
そこには実鈴と葉羽に両腕を捕らえられている男の子がいた。ここに連れてこられる間に抵抗したのだろう、手足と顔に傷があった。
実鈴と葉羽は、窓から差し込む暁の光が、フィリッツの白銀の髪と赤い瞳をより一層深く映し出しているのに、少しばかり見とれていた。
「ちょ、長老様……」
「離してあげなさい」
実鈴と葉羽は顔を見合わせ、静かに手を離し大泣きする男の子に羽織を掛け、一歩後ずさりお辞儀をした。
「実鈴」
「はい」
白兎の妖が耳をピクリと動かした。
「葉羽」
「はい」
茶兎の妖が同じく耳をピクリと動かした。
「この子は誰です?」
「次期妖長者様にございます。葉羽と共に人間界より探し出し、連れてまいりました」
「次期妖長者ですか……」
正直ここまで小さな子供だとは思ってもみなかった。
涙する男の子に笑顔を向けると、男の子は不思議そうに、それでいて嫌悪を抱いた深みのある藍色の瞳を見せた。黒銀の髪色がよく似合う可愛らしくも大人びた男の子であった。
「初めまして、君、名前は何というのです?」
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「もうすぐ抜けるはずだ」
クロイの案内のもと、森の中を歩き続けた空汰と翡翠はため息をこぼしていた。
空汰はクロイを気遣いながらも、翡翠に視線を向けていた。
あの穏やかな翡翠が、助けるためとはいえ、守護者を殺したとは思えない。しかし、それこそ彼が語る真実なのだ。人は見かけによらずとはよく言ったものだ。
――――翡翠は、裏切り者を全員見つけた後はどうするのだろう……。牢に閉じ込める? 許す? ……殺す? 翡翠は、裏切り者を見つけて何をしたいのだろうか。裏切り者が全員珀巳のように裏切りたくなくても裏切らなければならない結果となってしまった者であればいいが、そんなはずもない。必ず黒幕が存在していて、仲間も存在する。一度裏切った者を、信じることも難しい
「空汰」
ふいに翡翠に名を呼ばれた。歩きながらこちらを向いている。
「何?」
「悪かった……」
「いいよ、大丈夫」
「俺のこと、嫌いになったか?」
嫌いに? 嫌いにはならない。ただ、少し怖いだけ。
「全然。そこに理由があるのなら」
「妖殺しも仕方がないか?」
「そんなわけないだろ!?」
「お前ならそういうと思った。……お前の方が、妖長者として向いているかもしれないな」
「え……」
翡翠はフッと笑った。
「冗談だ。もうすぐ森を抜ける。森を抜けたら一人で屋敷まで帰れ」
「お前は?」
「俺は今まで通りだ」
森を抜け、相変わらずの暗い空が目に入る。それだけで、少しほっとした。
しかし、目の前の翡翠が固まった。
「どうした?」
空汰が翡翠に近寄ろうとする。
「来るな」
立ち止まると、翡翠が重い口を開いた。
「もう……いいだろう!?」
「はい。彼を助け出してくれました」
翡翠の背から顔をのぞかせると、そこには、険しい表情を浮かべたフィリッツが立っていた。
「ふぃ、フィリッツ……」
「陛下、お怪我はございませんか?」
全くの無傷というわけではないが、クロイと翡翠のおかげでほとんど無傷に近かった。
「だ、大丈夫です」
「翡翠様は?」
空汰はその言葉ですべてを理解した。もうすべて気づかれている。そして、翡翠が姿を消した原因はフィリッツであることも。
翡翠は冷静だった。
「大丈夫です……」
「フィリッツ!」
空汰は翡翠の隣に走り出た。
「貴方が翡翠を?」
「……はい」
「何故!」
「とある話をしたかったのです」
「とある……話?」
「偽妖長者様」
空汰はクロイを地面に座らせ、フィリッツと向き合った。
「貴方様の本当の名は何というのです?」
「言わなくていい」
「翡翠様は少し黙っていてください」
「言うな! 前に言っただろ!」
『本当の名前を縛ることも出来るが、それは禁忌だからだ。本当の名を縛ってしまえば、その妖は絶対に主には逆らえなくなる。簡単に言えば、お前に死ねと言えばお前は死ぬ。そして、お前に自分の一番大切な人を殺せと言えば、お前は一番大切な人を自らの手で殺す。逆らえば苦痛が伴うらしいしな』
本当の名を縛ることが出来る。そして、その縛りに逆らえば苦痛が伴う。
「スカイ。暁月記学園にはスカイとして通していた」
フィリッツは呆れ顔を浮かべていたが、致し方ないという様子で翡翠に視線を向けた。
「貴方様を縛ることは出来るのですよ?」
翡翠は手を握りしめ、震えていた。
「だったら……。だったらなぜ! 一度も俺を縛ろうとしなかったんだ! 俺は自分の本名を忘れ、唯一お前だけが俺の名を知っていた。唯一、お前だけが俺の名を縛れた! 俺が逆らったとき、俺が逃げ出したとき、俺を捕まえて監禁したとき、何故俺の名を縛らなかったんだ!」
「良い名です」
『――くんですか。良い名です』
「は!?」
フィリッツは打って変わって、優しく穏やかな笑みを浮かべていた。
「長老は皆、貴方様の言う裏切り者です」
「……大体予想は付いていた。そして、お前が黒幕だ!」
「いいえ。確かに私は、長老の長として裏切り者としてあの四人と共に計画を実行しています」
「フィリッツは裏切り者だと、俺も思っていた」
フィリッツは空汰に笑みを向けた。
「スカイがそう思うのも当然ですね。私もそう演じてきましたから」
「何が言いたい」
翡翠は空汰より一歩前に出るとフィリッツを睨んだ。
風が吹き、森の木々がざわめく音が聞こえてくる。
「翡翠様、私は貴方様を守るために裏切り者となったのです」