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黒猫 クロイ



 何故人間という憐れな生き物が、妖世界の長となり妖世界を統べているのか、俺は不思議でならない。逆に考えてみる。もし、人間界を妖が統べていたら人間たちはどう思うだろうか。大半の人間が、それはおかしい、国を返せ、と抗議をするはずだ。でも、自分の世界が安泰で自分らに何も害が無ければ、気になりすらしない。所謂その状態が、俺らのこの世界の状態であるというのに、人間は耳を貸そうともしない。


 昔からこの妖世界を人間が統べていたわけではない。昔はきちんと妖が長としてこの世界を統べていた。しかし妖たちの力が何故か徐々に落ちていき、人間の一部の者が強力な妖力を持つようになった。それからだった。その時の長老が人間を妖長者にと連れて来て、それが今でも続いていた。


 正直意味が分からない。


 妖世界を統べるのが人間であることに、大いに不満を抱いている。


 俺だけではない。妖世界の実に三分の一が不満を抱きながら、日々を過ごしている。


 俺はクロイ。妖世界の西の方にある小さな集落の若い男である。一応これでも、次期集落の長ではあるが、正直そういうものが俺は嫌いだった。そんな見せかけの立場など、俺には不必要である。


 今日は問題の妖長者の生誕祭と聞き、ここまで遠路遥々やってきた。


 そして、今俺の目の前にいる身なりのいい男こそが……翡翠裕也、妖長者である。


「お前は……誰だ?」


 俺のニスデールマントの素材とは打って変わって良質な生地の繍衣。嫌なほど位の違いを思い知らされる。本当に嫌なやつだ。


「クロイと申します」


「クロイ……」


「侵入者……」


「いえ、猫ですので」


「野良猫で通るわけがないだろ」


 この妖長者はバカなのか。


「俺を恐れなくていいのですか?」


「何故?」


「俺は……」


 逃がさない。


 クロイは空汰に瞬時に近づき、腕を掴んだ。空汰は驚き、苦笑を浮かべている。


 クロイは空汰の顔を見上げるように、妖々しい笑みを浮かべた。


「陛下を殺しにきました」


 相変わらずの苦笑ぶりにクロイは嘲笑した。


「お、俺を?」


「はい」


――――汝、名を呼ばれし者よ、死とし呪われよ……


 空汰は不思議そうな顔でクロイを見据えていた。


 クロイは呆れるほどにポカーンとしている空汰の腕を放した。


「な、何!?」


「失礼ながら、呪いを掛けさせて頂きました」


「呪い?」


「汝、名を呼ばれし者よ、死とし呪われよ」


 クロイはそれだけ言うと黒猫姿に戻り、足早に去って行った。


 それと同時に空汰の体は、床に倒れた。


 意識が遠のいていくなか、ふと行方知れずの翡翠を思い出した。


――――今頃……どこで……


          ❦


 コンッコンッ


 ノックの音と同時に扉が無造作に開けられた。


「フィリッツ!」


 しかしそこにフィリッツの姿はなかった。


「フィリッツ! どこにいるのです!」


 諦めて部屋から出ようとしたその時、どこからともなく声が聞こえた。


「どうしたのですか? ジン」


 ジンはパッと振り返る。


 そこには隣の部屋から出てくるフィリッツがいた。怪訝そうにジンを見ている。


「ひ、翡翠様が! 姿を消しました!」


 フィリッツは虚を衝かれたように目を見開いた。


「翡翠様が? なぜです? 黄木が見張っていたのではないのですか?」


「申し訳ありません。私への状況説明のために少しの間席を外していたのです」


「その隙に?」


「はい……」


 フィリッツは珍しく小さなため息を吐くと、ジンに鋭い視線を向けた。


「翡翠様自ら会場を抜け出したのであれば早急に見つけ出し会場に戻してください。もし、それ以外であれば私にもう一度報告をお願いします」


「分かりました」


 ジンはそういうと、走り去って行った。


 フィリッツは、ジンが見えなくなるまで目で追うと、もう一度ため息を吐いた。そして、さっき出てきた隣室に入っていく。


 そこには、本を片手にベッドに座る本物の翡翠裕也の姿があった。


 フィリッツが入っても全く気にも留めない翡翠に、栖愁は困ったように口を開いた。


「翡翠様……」


 もちろん、翡翠はまだ自分が本物の翡翠であるということは認めていない。


 フィリッツは翡翠の持っている本を取り上げた。自然と翡翠と視線が合う。


「貴方様は翡翠様です」


「俺は翡翠ではない。澪だ」


「……現妖長者の翡翠様が、生誕祭の会場から姿を消しました」


 その言葉に翡翠はつい反応してしまう。


 それを見たフィリッツはわざと気づかないふりをして、翡翠から視線を逸らした。


「ここ最近、小さな集落や街の住民が妖長者を殺そうと企んでいると耳にします。何でも、オッドアイの少年が、色々と嗅ぎまわっているらしいです。少年が紛れていれば気づくと思いますから、たぶん、彼ではないでしょうけど……。分かりませんね」


 何も言わず、手を握りしめている翡翠にフィリッツは不敵な笑みを浮かべていた。


「どうされましたか?」


 翡翠はフィリッツから視線を逸らし俯いた。


「……もし……」


「はい」


「もし、俺が本物の翡翠裕也だったらどうする気だ?」


「そうですね。事情はさておき、まずは偽物である翡翠様を助けに行っていただきます」


「それからは?」


「そのあとは、事情聴取です」


「……」


「安心してください、私はオーガイほど鬼ではありませんので」


 フィリッツはそういうと懐から鍵を取り出すと、俯く翡翠の前にかざした。


「封じの腕輪の鍵です」


 スッと顔をあげた翡翠にフィリッツは笑みを向けた。


「ただし、条件があります」


          ❦


 急いで妖長者様を見つけなければならない。このままでは、生誕祭に支障が出てしまう。会場を出るなと言っても必ずどこかに行ってしまうところは、記憶を無くす前と後では全く変わらない。


「ジン様、いらっしゃいましたか!?」


「会場付近の廊下や部屋は確認しましたがいません。そちらは?」


「こちらは玄関付近や庭を探しましたがどこにも……」


「黄木」


「はい」


「妖長者様が行きそうな場所は無いのですか⁉」


 妖長者が行きそうなところなど正直あまりわからない。その問いには答えられなかった。しかし、あの人のなら分かるかもしれない。そう思ったときには何故か足が勝手に走り出していた。ジンの声を背に感じながら、階段を駆け上って行く。


 そして最上階の一つ下の階で止まる。すでに息があがってしまっていたが、なるべく急ごうと突き当りの扉をノックもなしに開けた。


 そこには驚きこちらを見ている珀巳が居た。


「ど、どうされました?」


「珀巳! 翡翠様は!?」


「私も探すとジン様に言ったのですが、何かあったときのために、待機していて欲しいと言われまして……」


「違う!」


「え?」


「翡翠様がこの敷地内で一番行きそうな場所はどこだ! 珀巳なら知っているだろ?」


 いつだってそうだった。翡翠様が居なくなったとき、いつも珀巳が一番に見つける。こんな生誕祭の日も同じことである。


 珀巳はハッとしたように黄木を通り過ぎ、部屋から足早に出て行った。黄木も慌ててその背中を追う。階段を降りていき、広間を通り抜け、廊下を数回曲がる。


 そこに翡翠様はいた。


 珀巳が真っ青な顔で翡翠様に近寄る。そこに確かに翡翠様はいた。しかし……翡翠様は、気を失い倒れていた。


「翡翠様! 翡翠様!」


 珀巳の声を聞きつけ守護者や探し回っていたジンが現れる。黄木はただそこに立ち尽くしていることしかできなかった。


――――守護者の長、大失態である


          ❦


『お父さん、お母さん、お帰り!』


 無邪気な笑みを浮かべ、旅行から帰ってきたお父さんとお母さんを迎え入れる佳奈。まだ幼い。四歳くらいだろうか。ということはつまり、俺は今、十三歳である。


『おぉ、佳奈~。ただいま』


 佳奈に優しい笑みを向け、お土産を差し出す父は空汰を見るなり強張ってしまう。


『佳奈、それを空汰にあげてはダメだ』


『え……どうして?』


 佳奈は寂しそうに空汰を見るが、空汰は佳奈に首を振った。


『良いな?』


『……はい!』


 佳奈は嬉しそうに袋を片手に自分の部屋に入ってしまった。母も父も空汰には目もくれずリビングに入る。


 自分には全くお土産がないことくらい分かっていた。お父さんもお母さんも自分の事を嫌っていることくらい分かっていた。……でも……。十三歳の子供が久々に親に会って、全く声を掛けられず見向きもされないのは……とても寂しかった……。


 自然と頬を涙がつたう。


 気づいたときには霊感と呼ばれるものを持ち、妖怪やおばけと呼ばれるものの類と一緒に過ごしてきた。もちろん、物心つくまでそれが異世界の生き物で自分以外には見えないことなど分からなかったから、素直にそこにいるなと思えば、そこにいるよ、と言っていた。でも大人には見えないらしいそれは俺を苦しませた……。


『そこで、何をしているんだ! お前がいくら待ったってお前には何もない! さっさと部屋に戻りなさい!』


 リビングから出てきた父に怒鳴られ、空汰は部屋に逃げ去った。


――――俺に居場所は無いのだ……


 目を開けると見慣れない天井に城を基調とした壁や家具が並んでいた。数秒後、ハッとして体を起こした。


「ここは!?」


「医務室だ」


 空汰は左に座っている翡翠に視線を向けた。


「医務室……。…………って! お前!」


「悪かったな、姿を消して。探し回っていたらしいな」


「当たり前だろ!? 今までどこで何をしていたんだ!」


「だから悪かったって」


「説明しろ!」


「今はそんな場合じゃない」


「そんな場合だろ!? どこにいたんだ」


「……正確にはずっとお前の近くにいた」


「近くに!?」


「この屋敷内にはずっと居たんだ」


「え!? だってお前の式はお前を追いかけたんだ!」


「確かに澪は俺の後を追っていた。でも、それで澪は撒かれたんだ」


「撒くために遠回りしたってことか?」


「そうだ」


「……そうだったのか……。それで、ひ……」


「呼ぶな!」


 翡翠が急に怒鳴り声をあげた。


 空汰はビクッと体を震わせ息をのんだ。


「俺の名を呼ぶな……。というより、澪の名も珀巳の名も、誰の名も呼ぶな!」


「ど、どういうことなんだ……」


「お前……呪いを掛けられたのを覚えていないのか?」


「呪い?」


『失礼ながら、呪いを掛けさせて頂きました』


――――あぁ、確かに……


「その呪いは、簡単に言えば、お前に名を呼ばれた者が死ぬものだ」


「名を……!?」


「だから呼ぶな」


「え、だって……え……あの……」


 何が何だかわからない。俺は呪いを掛けられている。名を呼んではいけない。探していた翡翠が目の前にいる。……意味が分からない。


 混乱し戸惑っている空汰に翡翠はため息を吐いた。


「混乱するのは分かるが、落ち着け」


「お前こんなところにいて、バレないのか?」


「ん!?」


 とぼける翡翠に空汰は違和感を覚えた。


「お前……何かあったんだな?」


「あったよ。それはもう最悪な展開が」


「最悪な展開!?」


「バレた」


 空汰は驚きのあまり声が出なかった。


「誰に? と聞くと思ったのだがな」


「……バレたって…………嘘だろ?」


「嘘じゃねぇよ。嘘って言いたいけど」


「だ、誰に!?」


 翡翠は空汰から視線を逸らした。


「今は聞くな」


「……分かった……。なぁ、俺どうしたらいい? 呪いについて教えてくれよ」


「その呪いはお前が一生誰の名も呼ばなければ意味のない呪いだ」


「そんなことできるかよ。ふとした瞬間に絶対呼ぶ」


「その呪いを解けるのは、掛けた本人だけだ。呪いは基本、掛けた本人しか解くことは出来ない」


「なら、掛けた相手に交渉すればいいんだな!?」


「そんな簡単にいくわけがないだろ?」


「確かにそうかもしれないけど……」


「お前に呪いをかけたやつの名前は?」


「俺が口にしたら死ぬんじゃ……」


「掛けた本人は除外だ」


「都合のいい呪いだな」


「そんなものだ」


「名はクロイ。黒猫だよ」


 空汰がそう呟いた瞬間、翡翠の顔がくもったことに気付かなかった。


「黒猫族か……」


「知っているのか!?」


「知っているも何も、あそこは俺が一度壊滅させたところだ」


          ❦


 空汰は翡翠から話を聞いた後、黄木に散々謝罪の言葉を聞かされた。そして翌日、生誕祭の会場に戻って行った。


 翡翠は楽しそうに笑みを浮かべる空汰を遠くから見据えていた。


「翡翠様、参加されてもいいのですよ」


 会場の隅から見ていた翡翠の背後にフィリッツがやってきた。


「いや、いい」


「私の事を話されたのですか?」


『ただし、条件があります』


『条件?』


『その腕輪を外してあげます。その代り、本当の事を教えてください。……貴方は翡翠裕也様、ご本人ですね?』


 何も言わなかった。


『事実ではないのであれば、否定してください』


 空汰を助けるためにはこの腕輪を取ってもらい、空汰を探しにいかなくてはいけない。しかし、鍵を貰うにはフィリッツを倒すか真実を口にするしかない。ここで俺が翡翠だと名乗ってしまえば、空汰の命は逆にフィリッツに握られてしまう。フィリッツが裏切り者でない可能性がないわけではない。寧ろ、長老の長を務めるうえで一番裏切りそうな者である。


 ここが大きな分かれ道である。


 封じの腕輪をされたままフィリッツに体当たりしたとしても勝てるはずはない。力技ではどうしても、妖と人間という壁が出来てしまう。フィリッツが妖力を使わなくてもどれほど強いかなどよく知っていた。昔よく剣の稽古をしてもらっていたが、俺は一度も勝ったことがない。惜しいと言われたことすらほとんどない。もちろん殴り合いはしたことがないから、何とも言えないが、妖長者が暴走し始めたらそれを止めるのも長老の役目であるため、それなりに妖長者を抑えつけるだけの力はあるはずだった。頭脳的にも何百年と生きているフィリッツの方がどう考えても上である。


――――どう考えても負ける……


『翡翠様? どうです?』


 翡翠は未だ考えを巡らせていた。


 フィリッツの表情からは笑みが消え、鋭い視線だけが残っていた。無言を貫く翡翠に、フィリッツは呆れたのかため息を吐いた。


『翡翠様、沈黙は了承と同じことだと聞きませんでしたか? それから、翡翠様、私は貴方が何も言わないのであれば、翡翠様かあの偽妖長者かどちらかを殺さなくてはなりません。妖長者は妖世界に一人で良いのです。でも、翡翠様が認めてくださるのであれば、貴方の意見を聞いて、考えましょう』


 フィリッツは傲慢である。自分の勘はいつも正しいと思っているに違いない。まぁ、勘が外れたことは確かに無いが……。


『それでも何も言いませんか?』


『俺を殺せばいいだろ?』


『不思議なことを言いますね』


『あいつを殺されるよりましだ』


『貴方は彼を利用しているだけではないのですか? 情がうつりましたか?』


 確かにはじめはこれ限りの縁だと思っていた。こんなに仲良くなるとは思ってもみなかった。出会って、普通に笑顔で別れられると思っていた。でも……そうだな……。今の俺では涙で別れることしか出来ない事くらい、もう何となく分かっていた。久々に人間という生き物に出会い、いい友達が出来た。


『俺を……殺せよ』


 フィリッツは見直したという表情で翡翠を見ていたが、手に持っていた鍵を翡翠の腕輪にさしまわした。カチャッという音が鳴り、腕輪が床に落ちる。


 翡翠は驚いてフィリッツを凝視した。


『――』


 翡翠は驚きのあまり開いた口が塞がらなかった。


『お前……』


「話してない」


「何故です?」


「……黒猫族のクロイという名の若い男だそうだ」


 話を意図的に逸らした。


 フィリッツは何も言わなかったが、多分、気にはなっているはずである。


「クロイ……。探しに行きましょう」


 翡翠は空汰から視線を逸らしフィリッツに視線を向けた。


「お前がか?」


「いいえ」


「まさか俺?」


「いえ?」


「は? じゃあ誰だよ」


 フィリッツはあごで会場をしめした。翡翠は再び会場に視線を戻す。しかしそこに空汰の姿はすでに無かった。


「まさか」


「彼ですよ」


 翡翠はフィリッツの言葉を聞きながら走り出した。


 空汰のもとに行かなくてはならない。


 フィリッツは翡翠の背が消えるのを目で追っていたが、やがて見えなくなるとため息を吐いた。


――――本当に……


          ❦


『……俺が翡翠裕也だ』


『やっと認めましたね』


『でも、どうしてわかったんだ! 俺はお前らが妖長者の部屋に来る前に逃げていたし印だって持っていない。ここから逃げる時だって、あいつの容姿にそっくりだったはずだ。俺の本当の姿を知らないお前が、俺を見つけることは不可能なはずだ』


『気配と匂い、それから勘です』


『気配と匂い、勘……』


『私は勘だけはいいと思います。気配は翡翠様が持っている妖力の強さの気配です。自分で出すものではなく、妖力の強い者であれば自然と出る者です。妖なら大体の者が分かることです。それに気づいただけです』


『匂いは?』


『翡翠様とあの子の匂いは違います』


『なるほど……』


 妖の大好物は人間である。


『腕輪は外しました。私を信じてくださいますね?』


『……それは分からない』


『ではこうしましょう。貴方がもう一度腕輪を付けるか貴方の身代わりであるあの子を必ず救い出すか、どちらか一方を選んでください。もしあの子が怪我を負っているようなことがあれば、貴方を法にのっとり処罰致します』


『は!?』


『当たり前でしょう? あの子に罪はありませんし私を信じる糧としていただきたいのですから』


『……分かった。助けよう』


          ❦


 どこにいる。


 もう屋敷内にはいないだろう。


 お前はどこにいる。


 頼むから出てきてくれ、クロイ。


 空汰は敷地内からこっそり抜け出し、適当に森の中を歩いていた。当てがあるわけではないが、このままでは生誕祭に参加してくれている妖たちと話がしにくいし、何よりも不便である。初日は妖長者に急用が入ってしまい抜け出したことになってしまっているため、二日目の今日も挨拶がまだ終わっていない妖たちが来ている。そんな彼らを無碍にするわけにもいかない。妖長者たるものが相手の名を一度も呼ばないという言動は大変失礼なものである。名前を覚えてくれていないのかと相手を不機嫌にさせてしまう。


 翡翠はクロイのことを黒猫族と言った。ツェペシ家の一件のときに翡翠に貰った要人物のファイルを見たときに、チラッとだけ見た名前にクロイという名があった気がして、抜け出したついでにもう一度ファイルを確認すると、確かにそこには『黒猫族 クロイ次期族長』と書かれていた。


『知っているも何も、あそこは俺が一度壊滅させたところだ』


 翡翠は見た目と言動に寄らず、怖いことをする。最近、思い始めたことだ。


「クロイ! クロイ! 頼むから出てきてくれ! クロイ!」


 場所が違えばもちろんクロイとは会えない。適当に歩いているなら尚更だ。


 そのとき木の上から猫が飛び降りてきた。紛れもなくオッドアイの猫、それはクロイである。


「く、クロイか!?」


 猫は瞬時に人型になると呆れ顔をしていた。


「陛下のくせに何ですか。その泣きそうな顔」


「クロイ、俺の呪いを解いてくれ!」


「自分でそれくらい解いたらどうです?」


「基本的に呪いの類は掛けた本人しか解けない。それくらい知っているだろ?」


「えぇ、もちろん。ですが、掛けた本人が解くことも稀であることを知っていますか?」


「……頼む」


「嫌ですよ」


「クロイ、黒猫族はここら辺で過ごしているのか?」


「何を言っているのです? 四年も前に貴方様が滅ぼしたではありませんか」


「……それは……」


「忘れたとは言わせませんよ?」


「君は生き残り?」


「そうです。生き残った者は全部で六匹。そこから場所を変え何とか存続しているのです。他の黒猫は皆、貴方様によって殺された! 翡翠様が! 俺の仲間を全員殺したんだ!」


 翡翠はそんな酷いことをするだろうか。俺の知っている翡翠は決してそんな汚濁に染まらない強さと優しさを持っている。


「俺は……」


「言い訳は聞きたくありません。陛下、貴方様は俺たちの元住処に何故?」


「元住処?」


「しらを切るのですね。この先は俺たちが元々住んでいた場所です。今はもう何もない森となっていますが」


 たまたまである。適当に歩いていたらたまたまここに着いてしまっただけである。逆に言えば何故、クロイがここにいるのだろうか。


「逆に、何故君はここに?」


「貴方様をつけさせて頂きました」


「何故?」


「言いましたよね? 陛下を殺しにきましたと」


 クロイはそういうと指を擦り合わせ乾いた音を鳴らした。空汰が身構えると空汰とクロイを囲むように黒猫族の生き残りの五匹以上にたくさんの黒猫がいた。どの子もまだ若い。きっと存続し新たな黒猫がどんどん生まれているのだろう。それだけで少し安心した。しかしそんな悠長なことを言っている場合ではない。囲む黒猫の全員の手には弓が握られていた。もちろん、毒矢だろう。


 空汰はクロイに鋭い視線を向ける。クロイは余裕の笑みを浮かべていた。


「さあ、判断するなら今ですよ、陛下。貴方様を囲んでいるのが今の黒猫族全員です。ここで今すぐに殺され、死に顔を嘲笑われるのと、謝罪の言葉を述べるのとではどちらがいいですか? 先に言っておきますけど、謝ったからと言って殺されないとは限りません」


「……結果どちらにしても命は無いというわけか」


「いいえ。俺たちは貴方様と違ってそんなに冷酷ではありませんから」


 翡翠が殺すはずがない。


「何人だ」


「殺されたのは記録に残っている限りでは五十四匹」


「五十四匹……」


「『猫に九生有り』」


「猫には九つの命があるという迷信」


「その通りです。しかし、貴方様が殺したなかにはまだ一回目の命の者、三回目の者など九回目ではない者も死にました」


「それがどうした?」


「陛下……。剣をどうされたのですか?」


「剣?」


「妖長者のみが使う剣です。腰からいつも提げているではありませんか」


「俺は持たない」


「そうですか……。あの剣で切られた者は例外なく死にます」


「俺は……」


「さあ、どちらを選びますか?」


 翡翠が五十四匹も殺すはずがない。殺したとしてもそこに何か理由があるはずである。しかし、その理由を俺は聞いていない。


 どうする。どうしたらいい。


 ここで理由も知らず頭を下げるべきなのか、俺は何も知らないと言うのか……。翡翠がそんなことをするはずがないと声をあげて納得してもらうのか、そんなこと無理である。まずそんなことをする時点で翡翠を俺が裏切ったことになってしまうのではないだろうか。翡翠は裏切られることに、恐怖を感じているはずである。命を狙われるほどなのだから。なら、答えは一つしかない。


 空汰はゆっくりと片方ずつ膝を地面につけた。


 それを見たクロイは目を丸くしていた。


 そして両膝を地面につき、両手も前についた。


「…………申し訳ありませんでした」


 静かだった。ここにいる誰もが空汰の声に耳を傾け、聞き逃さまいと呼吸すら止める。微かな風と遠くで下級妖が呻く声が聞こえるだけだった。


 その沈黙を破ったのはクロイだった。


「お前…………。ぷ、プライドとかそういうものないのかよ」


 空汰は何も言わず地面をずっと見つめていた。これ以上翡翠のことに首を突っ込みたくは無かった。自分のために、翡翠のために……。


「仮にも妖長者というお方がこんなちっぽけな中級妖の族に頭を下げるとはな……。正直驚いたぜ」


 クロイは周りの者達を見回した。


「もういいだろ!? きちんと謝ったんだ!」


「ダメじゃ!」


「族長! 許してやれよな。こいつがどんな理由で俺らの仲間を殺したかは知らねぇけど、一応謝ったんだ」


「謝って済むような問題じゃなかろうが! クロイ! そいつを殺せ」


 空汰は耳を傾けてはいたが、無表情にただただ頭を下げたままだった。


 クロイの顔が引きつり、族長を見る。


「ぞ、族長……」


「お主は次期族長だろうが! 族の皆を守ることが、わしの務めじゃ!」


「だけど!」


「お前はいつからわしに楯突くようになったのじゃ!」


「……そ、そんなつもりは……」


「良いからさっさと殺さんか! そいつはわしらの仇じゃ!」


 クロイの視線を感じていた空汰だが、何故か恐怖は無かった。クロイは自分を殺さない。何故かそんな余裕があった。根拠があるわけでもクロイの事を知っているわけでもないが、何故かそんな風に感じていた。


「……お、俺は……」


「チッ! もういい! お前に次期族長の資格はない!」


 その言葉が合図だったかのように、クロイと空汰を囲んでいた黒猫族全員が矢を次々と放った。すべての矢が空汰とクロイに向かって降ってくる。


 空汰とクロイは瞬時に避けていた。


――――あいつら正気かよ、仲間が……クロイがここにいるのに! クロイごと殺す気か!


 空汰は無意識のうちにクロイの手を引き、矢を避けていた。


 クロイもはじめは嫌そうな表情をしていたが、そんな場合ではないことに気付いたのか協力しながら避けていた。しかし、それも限界がある。中央に一気に矢がどんどん投げられてくる。容赦なく永遠に。


「……! クロイ! 危ない!」


 黒猫族の男が隙をついて横から矢を放った。


 クロイはそれを避けきることが出来ず矢が右腕を霞めた。毒が体の中に浸透していくのが感じ取れた。クロイは傷口を抑えながら倒れた。空汰は急いで駆け寄った。


「クロイ! 動かないとどんどん飛んでくるぞ!」


「陛下は逃げてください!」


「は!?」


「俺はもう見捨てられたのです……。陛下、本当は理由があるのですよね?」


「え……」


「でないと、あんな風にちゃんと謝るはずがないと俺は思うのです」


「それは……」


「翡翠様……。すみません」


 何故謝るのか。謝るべきなのは翡翠ではないのか。


「翡翠様! 後ろ!」


 クロイが叫んだのと空汰の背後に矢を放たれたのが同時だった。空汰は咄嗟に後ろを向くが矢はもう目の前だった。


 その時だった。甲高くそれでいて複雑な抑揚をつけた口笛が鳴り響いた。自然と矢を放っていた黒猫族らの手が止まる。そして飛んできていたすべての矢が、時間が止まったかのように静止していることに気付いた。


 空汰はハッとして見上げた。すると上から翡翠が飛び降りてきた。


 静止している矢を次々と切り折っていった。手で折っているわけではなく、何かを振り回し折っていた。


 それを見たクロイが体を起こし空汰に視線を向けた。


「ど、どういうことなんだ……」


 翡翠が手に持っているもの、それはまさしく四年前に五十四匹の黒猫を殺した剣だった。クロイの体が小刻みに震えた。


 あの日の悪夢が蘇る。


 まだ幼いクロイの目の前には火の海と化した家々と血まみれで倒れる黒猫族の仲間たち……。そしてその中央にはあの男が立っている。長く白い羽織は返り血を浴びたのか赤く染まり、手にしている剣からはぽたぽたと血の雫が垂れていた。木の陰から見ていたクロイの視線を感じたのか男がゆっくりと振り返った。男に表情は無く、白百合色の髪の先も血で染まり、透き通るような青い瞳に生気は感じられなかった。


『陛下』


 妖に陛下と呼ばれたその男はそのあと知ったことだが、妖長者の翡翠裕也だった。


 翡翠は確かにクロイを見ていたが、見ぬふりか本当に気づいていなかったのか、分からないが翡翠は確かにこう言った。


『陛下、全員殺せとの命ですが……。生き残りは確認できませんか?』


『……もういない。早く帰ろう……』


『かしこまりました』


 今目の前にいる翡翠様と剣を持つ男は、どちらも白百合のような髪色でも青い瞳でもなかった。しかし、あの男が持っている剣は紛れもなく……あの日見た剣であることに間違いはない。


 族長は翡翠を恐れたのか再び矢を放つように指示した。再び矢が三人に向かって降り注ぐ。しかし、今度は翡翠がすべて弾いた。そして翡翠はある一点に視線を向けると、低く小さな声で言った。


「退け」


 そこに立って矢を放っていた数人の黒猫が肩をビクッと震わせ退いた。


「翡翠! クロイ! 来い」


 空汰はクロイの手を引き走り出した。翡翠の背を追いながら、怪我しているクロイを気にしていた。


「大丈夫か?」


「どうして……助けるのですか……。お、俺らは……貴方様を……」


「助けることに理由は必要ない」


 しばらく走り続け翡翠が立ち止まった。クロイを木のそばに座らせ翡翠を見た。


「助けてあげてくれ」


「お前も本当にお人よしだな」


「確かに……。確かに俺を殺そうとしたけど……」


 翡翠は気に食わない様子だったが、クロイに近づくと怪我している右腕を見た。


 この様子では体中に毒がまわっているだろう。


「クロイ」


「何だ……」


「呪いを解け」


「……もう解いている」


「だろうな」


 翡翠はため息交じりにそういうと立ち上がった。そして着ていた服の裾を噛み千切るともう一度座り込みクロイの右腕を手に取った。噛み千切った布で傷口を巻いていく。しかし、翡翠がしたのはそれだけだった。


「それだけか?」


「翡翠、残念だが、クロイの傷口は治せても毒までは治すことが出来ない」


「どうして!? ひ……澪なら出来るだろ!?」


「出来るは出来るが、時間が掛かる。それに、ここまでまわってしまえばもう遅い」


「澪!」

空汰は翡翠の胸倉を掴んでいた。


「助けてやれよ! お前のせいでこうなったんだ!」


 翡翠は黙っていた。


「ふざけるな! 俺にきちんと話せよ!」


「あれは俺の意思ではない」


 そんなこと、言われなくても分かっている。分かっているが、意思があるかないかの前に、翡翠は妖を殺している。その事実に変わりはない。


「殺したのか! 殺していないのか! はっきりしろ! 翡翠!」


 名を口にしてしまった。クロイは空汰を翡翠と思っている。


 案の定、クロイが顔をあげた。


「翡翠って……。ど、どういうことなんだ……。翡翠様は君じゃ……」


 こうなってはもう仕方がない。


「違う、俺は……翡翠ではない」


「じゃあ……。君が……?」


 翡翠はまた黙っていた。


 空汰は翡翠の胸倉を掴んだまま振る。


「何とか言えよ! 俺が知っているお前はそんな酷い事するような奴じゃないだろ! お前は……そんなこと、出来ないよな!? なぁ、翡翠、何とか言ってくれよ! 四年前、黒猫族を殺したのはお前ではないと! 言ってくれ!」

 

翡翠は泣きそうなほど哀しそうな表情を浮かべていた。

 

そして空汰と視線を合わせ、力のない声で囁いた。


「……殺した……。俺は……四年前、黒猫族を皆殺しにした…………」


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