生誕祭
「翡翠陛下、御誕生日誠におめでとうございます」
「翡翠陛下、御誕生日誠におめでとうございます。日頃の感謝の意を込めまして、あちらに贈り物をさせていただきました。お気に召されれば嬉しい次第でございます」
「翡翠陛下、御誕生日、成人を迎えられたこと、お喜び申し上げます。末永くお元気にお過ごしくださいませ」
「翡翠陛下、成人おめでとうございます。約十年間の間、この妖世界を統べていただきありがとうございます。心より感謝を申し上げます」
「翡翠陛下、御誕生日おめでとうございます。僭越ながら贈り物を致しておりますので、後ほどご覧ください」
「翡翠陛下、御誕生日おめでとうございます。これからも益々のご活躍をお祈りいたします」
「翡翠陛下……」
「翡翠陛下……」
空汰が席に着いて約半日。未だに『翡翠』への誕生日のお祝いの挨拶は終わらなかった。いつまで席に着いていればいいのだろうかと、欠伸をしながら退屈そうに座っていた。落ち着けば自由に歩き回っていいと言われていた。しかし、これはどう考えても終わりなき時間である。この生誕祭は、まだ人数の少ない方だという。生誕祭は三日間行われるらしいのだが、翡翠の誕生日当日は極限られた者しか参加していないのだという。残り二日間は、もっと多くの妖が集まる。翡翠が嫌う媚びへつらうための貢物も山のように部屋の隅に並べられていた。
本来、この席には翡翠本人が座るべきであった。本人が祝われるのは嫌だといっても、ここにいる妖のほとんどは確かに媚びへつらうために来ている者だとしても、少なからず数人は心から喜びを申し上げている者もいるはずだ。そんな妖の者の気持ちを無碍にするのは良くないであるが……。
澪に『妖に翡翠が捕まった。助けて、空汰』と言われ連れ出されたあの日から結局翡翠を見つけることは出来なかった。澪が見失ったというところまで探しに行ったが、そこには何の手がかりも無かった。もちろん、そんな男を見たという目撃者もいなかった。あの日から約一ヶ月後の今日、翡翠はどこかで誕生日を迎えた。探し出しここに座らせたかったが、ここ一ヶ月間式たちの隙をついては抜け出し、色々なところを探した。しかし、見つかることは無かった。普通ならば、本当の妖長者である翡翠が居なくなってしまうことはかなり大きな問題であるが、妖長者の印を持たない翡翠は、単なる妖力の強い人間に戻る。今の長老や妖たちにとって好物の人間となってしまうのだ。
空汰が大きなため息を吐いたのを見て、黄木がそばに近寄ってきた。
「大丈夫ですか?」
「そろそろ……お腹減ってきた」
「何か取ってきましょうか?」
「自分でとりたい」
「しかし……」
挨拶待ちをしている妖たちに視線を向けた。しかし、空汰の事を考えるとあまり何も食べさせないのは体に良くない。
黄木は空汰に、待っていてください、と一言言うと壇を降りていき、挨拶待ちをしている妖たちに何かを言った。すると、妖たちは少し残念そうな顔をしながらも散っていった。黄木が壇上に戻ってくると笑みを浮かべた。
「お取りになったら、私のところに持ってきてくださいね」
空汰は自分の事を気遣ってくれたのだと、笑みを向けた。
「ありがとう」
空汰はお腹が鳴る前に急いでお皿を片手に料理を盛っていった。妖の料理には慣れてきていたが、やはり、見たことのない料理は無意識に避けてしまったが、それでも、お皿にはたくさんの料理が盛られた。空汰はついそのまま食べようとフォークを手に取ったが、黄木が心配そうにこちらを見ているのに気付き、小さく息を漏らし、もう一つ皿を手に取り自分の分よりも少し少なめに料理を盛った。そして、二つの皿を持って黄木のもとに行った。
「持ってこないかと思っていました」
黄木はそう言いながら二つの皿を手に取り、空汰からフォークを受け取るとすべての料理を一口ずつ毒味した。味に変化がないか毒が入っていないか、黄木はすぐに分かるようで食べ終わると頷き、空汰にフォークと共に二つの皿を返した。空汰は大盛りの皿だけを受け取った。
「それは黄木が食べな」
「え!?」
「生誕祭がある間は何も食べられないのだろ?」
黄木は、生誕祭中は所謂仕事中である。生誕祭が終わる三日後にまでそれは及ぶ。その間は、片時も妖長者のもとを離れるわけにもいかないため、食事は三日間出来ないことになっている。妖は数日おきに食事をするらしいから食事をしなくても大丈夫なのだが、それでは空汰の気が晴れない。
黄木はとんでもないという様子を見せていたが、空汰の有無を言わせない優しい笑みに微笑んだ。
「ありがとうございます……。頂きます……」
空汰は黄木と共に壇を降り、妖たちと食事や談話を楽しんだ。
❦
生誕祭一ヶ月前……。
翡翠は木の上からフィリッツと対峙する空汰を見ていた。絶対に後に空汰に怒られてしまうことを覚悟し、項垂れていた。
そして、空汰から少し逃げていようと木から降りると背後から声を掛けられた。
「そんなところで何をなさっているのです?」
翡翠が振り返るよりも早く、後頭部に鈍い音が響き視界が黒に染まった。
どのくらいたっただろうか、目を覚ますと見慣れない部屋に寝かされていた。
少し痛む頭を抑えながらゆっくり体を起こすと、自分がベッドに寝ていたことに気付いた。部屋を見回すと、白いカーテンに以外にベッドと本棚があるだけだった。
「ここは……? 俺…………」
――――誰かに後ろから……
翡翠は大きなため息を吐いた。
「やばいな………………」
立ち上がり、部屋中を再度確認した。
――――シンプルな部屋だ……。俺が利用しないようにか?
翡翠はカーテンに触れた。触った瞬間に、この価値を知っている者ならば誰でも分かるものだと驚く。このきめ細やかさと触り心地の良さは人間界には存在しない。そして、妖世界でもかなり高級品とされるものである。高級妖でも手に入るような代物ではないことくらい、妖長者をしていれば分かる。
そして、翡翠はカーテンを無造作に開き開かない窓の外を見た。
外を見なくてももう分かっていた。カーテンの素材に気付けばここがどこかくらいすぐに分かる。
「ここは……妖長者の屋敷だ」
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空汰は生誕祭一日目の夜にして嫌気がさし始めていた。食事をし続けるわけもなく、妖たちとずっと話し続けるわけでもない。貢物を見てみようかと思ったが、あれはすべて翡翠への贈り物である。そこにどんな意図があったとしても、それを空汰が開けてしまうことは違うような気がした。
ふと見ると黄木がいないことに気付き、今のうちにと会場を抜け出した。気が付けばあの回廊に来ていた。もちろん、男の子の姿になった翡翠に言われた別館への扉へは近づかなかった。
ここは本当に時間の流れが違うような気がする。いつからこんな空間があるのかは気になるが、それでも、この空間が翡翠も空汰も大好きだった。ここだけは、妖長者の敷地内でも落ち着く場所である。
いつから、何故ここに、どんな理由であるのかは分からない。誰かに聞いたことも無い。
「陛下」
空汰はどこからともなく聞こえた声に驚き辺りを見回した。会場を抜け出すことは禁止されている。しかも無断となると尚更悪い。バレて呼び戻されるのかと思ったが、そこには誰もいなかった。
――――気のせいか?
そこに猫がやってきた。この前に木の上で寝ていたオッドアイの黒猫だった。
「お前……」
黒猫はオッドアイの瞳で空汰を静かに見据えていた。猫との距離は一メートルも無い。
空汰は猫から視線を逸らしもう一度辺りを見回し、回廊の柱に手をついた。
――――見つかる前に戻った方がいいか
空汰はため息を吐きながら歩き出した。するともう一度声が聞こえた。
「陛下、お待ちください」
空汰は瞬時に振り返った。
そこにはやはり誰もいなかった。しかし、今の声は空耳などではない。確かに誰かに呼ばれた。
空汰は前を向いて歩き始めたように見せかけて振り返った。
だが、誰もいない。
それを三、四回繰り返した。
もうこうなるとただのバカである。
空汰は振り返ったままため息を吐いた。
すると黒猫が目の前で立ち止まった。空汰の視線は猫に向き、あることに気付いた。
「お前か?」
猫は不自然に笑みを浮かべた。そして、次の瞬間猫が人型に変化した。
「ようやくお気づきになられましたか、陛下」
❦
生誕祭三週間前……。
翡翠は部屋から出ることが出来ずにベッドに座っていた。本棚から数冊の本を読み終わり、考えを巡らせていた。
妖長者の屋敷に入れる者は、妖長者本人、妖長者付式、妖長者付使用人、長老、長老付式、長老付使用人、その他守護者や高級妖などその他にも想像以上にいることが今更分かった。しかし、こうやって閉じ込めることが出来る者は限られてくる。守護者や高級妖などではない。長老、長老関係、妖長者、妖長者関係のみである。だが、空汰が翡翠を捕まえる理由は無い。空汰は必然的に候補から抜けるが、珀巳、柊、黄木はありえないことは無い。一応、妖長者付式であるため、妖長者の部屋を眺めている俺を不審に思っても仕方がない。
――――だが、ここまでするか?
せいぜい牢に閉じ込めるくらいでいいのではないだろうか。牢に閉じ込めない理由は何なのだろうか。
しかも、わざわざ妖力を封じる腕輪をはめてまで……。これをつけられてしまうと、どんなに妖力の強い者でも妖力を使うことはもちろんのこと、妖術すら使えなくなる。つまり、妖術を武器にしている者からしてみれば、最悪な展開である。
どんなに考えても答えが見つからない翡翠は、疲れて寝転がった。それと同時に扉の鍵が開いた音がした。寝かせた体を瞬時に起き上がらせ扉を凝視する。
扉がゆっくりと開き、人影が入ってきた。
翡翠は入ってきた人物に驚きを隠せず、開いた口が塞がらなかった。
「……何故……」
人影は翡翠が座っているベッドまで近寄り、開けられているカーテンに気付くと、カーテンに近づき閉めた。
「人間は……本当に面白いと私は思います。そう思いませんか? 澪くん」
翡翠は驚いて身構えた。
そこには綺麗な瞳をした長老の長、フィリッツが立っていた。
「フィリッツ……様……」
「私の名前をやはりご存知でしたか」
「どうして」
フィリッツは小さく微笑んだ。
「勘だけは良いのです。回廊で会った時の妖力を私は至る所で微かに感じていました」
「微かに……」
「主に妖長者様の自室周辺です」
確かに翡翠は妖長者の自室にしか用は無い。
「澪くん、貴方の本当の名は何でしょう? 名を使い呼んでみましたが、貴方は私の前に現れませんでした。つまり、名で縛られない……本当の名ではないということです」
「監禁したやつに本当の名前を言うバカがどこにいる」
「そうですね。……なら質問を変えましょう」
フィリッツはそういうとあの羽ペンを取り出し翡翠に見せた。
「これをご存知ですね?」
確かに以前フィリッツから貰ったあの羽ペンである。
「知らない」
「しらを切りますか?」
「俺は知らない」
「この羽ペンの持ち主は妖長者である翡翠様のものです」
「だから何だ」
「あの回廊で拾いました」
「俺が来る前からあっただけだろ」
「いえ、それはありません。それなら、気づくはずです」
「誰だって見落としはある」
「あんなところに落ちていれば誰だって分かります」
どこに落ちていたのかは逃げることに夢中で全く知らないが、フィリッツは嘘だけはほとんどつかない。それは、自分自身がよくわかっていた。
「そうだったとしても、俺は知らない」
あくまでしらを切り続ける翡翠に、フィリッツは諦めたように羽ペンをなおすと翡翠に向き直った。
「まぁいいでしょう。……では、あんなところで何をしていたのですか?」
「いつから気づいて……」
「そうですね、私が妖長者の不在を知りながら部屋に入った時からです」
かなり早い段階で気づいていたということになる。
「俺をここまで運んだのは!?」
「……私の式の栖愁です」
「栖愁……」
知っている。あまり他人を信用しないフィリッツは必要以上に式を仕えず、使用人すらほとんど接点を持たせない。そんなフィリッツが唯一信頼をおき、身の回りのことなどを任せているのが、栖愁という妖である。
「何故ここに俺を運んだ」
「少々気になることがありまして」
「気になること?」
「朗々を使ってもいいのですが、多分貴方には効かないでしょう」
翡翠は口を堅く結んだ。
「数ヶ月前……。翡翠裕也という現妖長者が妖世界を抜け出し人間界へと隠れてしまいました。探すも数日間見つからず、妖世界が崩れ始めた頃、翡翠様は連れ戻されました。その時、何事も無くまた日常が過ぎて行くのだろうと私は思っていましたが、違いました。予想外にも翡翠様は記憶を無くされていました。自分の立場のことはもちろん、式や私達長老の存在など、十年前初めて翡翠様とお会いした時のように何も知らない様子でした。理由は分かりません。しかし、私はずっと気になることがありました」
フィリッツはそういうと書類の束を翡翠の前に投げ置いた。空汰と翡翠が書いてきた数々の書類の束だった。
「字が違うのです」
「……え……」
「人間界へ行く前の翡翠様の字と戻ってきてからの翡翠様の字では、よく見なければ分かりませんが、ところどころ違います……」
「人間だって妖だって、気分や時間とかの影響で変わることはある」
「確かにその通りです。しかし、字の特徴はどんなに急いで書いてもゆっくり書いてもなかなか変わらないものです。意識してわざわざ変える必要もありません」
翡翠は黙り込み書類を見る。確かに同じサインでも少し違う。こんな細かいところまでは見比べたりしない限り分からないだろうと思っていたが、それは誤算だったようだ。
「それから、口調も……」
「口調?」
「記憶を無くされたとしても、口調は変わりませんよね」
「記憶を無くしていれば、フィリッツ様方と会うのは初めてなはずです」
「確かにそうです。それならばなぜ、以前の翡翠様に似せようとするのです? 翡翠様本人であるなら、慣れていくうちに戻るはずです」
「俺は知らない」
「似せようとすること自体が、不自然なのです」
「だから、俺は知らない」
フィリッツは鋭い視線で翡翠を見据えていた。
❦
黄木はジンに状況の説明をしてほしいと言われ会場から少しの間席を外していた。
会場に戻り空汰を探すが、そこに空汰の姿は無かった。妖長者の印も感じられない。黄木は最悪な事態が脳裏をよぎった。
それと同時に足が勝手に動いていた。
先ほど別れたばかりのジンの後を追う。
背中が遠くに見え、黄木は大きな声を出した。
「ジン様! ジン様!」
ジンが立ち止まり振り返ったのを見て、急いで走り寄った。
「どうしました?」
「……ひ、翡翠様が! 会場に居りません!」
「え!?」
ジンが会場に向かって走り出したのを見て、黄木もそのあとを急いで追った。
会場に入ると、招待客に事態を悟られぬよう出来るだけ平常心を装いながら、辺りを見回した。やはり会場内には妖長者の姿も印も感じられなかった。
会場の隅で招待客に気付かれないように小声で言った。
「会場から出たか……」
「最悪連れ去られたということになります……」
ジンは何か考えているようだった。
「申し訳ありません、私が目を話したばかりに……」
「いや、いい。謝罪はいらない」
「し、しかし!」
「静かにしなさい、妖たちに気付かれでもしたらそれこそどうするのです」
「申し訳ありません……」
「とりあえず、守護者の半数に事情を話して、招待客に気付かれることがないように気をつけながら敷地内を隅々まで捜索してください」
「分かりました」
黄木は頷くと急ぎ去って行った。
ジンは壁際に立ち尽くし、招待客の動きを眺めた。怪しそうな妖はたくさんいるが、根拠もなしに疑うわけにもいかない。ジンは小さくため息を漏らし、会場を後にした。
――――翡翠様が姿を…………。本当に面倒だ
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生誕祭一週間前……。
「いい加減ここから出せ!」
「声をどんなに荒げても無駄です……落ち着いてください」
翡翠は苛立ちを隠せず、見張り役の栖愁に当たっていた。
「俺はやらないといけないことがあるんだ!」
「どうされたのです?」
「栖愁……生誕祭まであと何日だ?」
「……七日でございます」
このままここに大人しく捕まっているわけにもいかない。しかし、妖力を封じる腕輪をされたままでは、なすすべもない。
どうしても生誕祭前日までには空汰の元に行かなくてはならない。生誕祭には参加しないと言ったが、生誕祭は空汰には危険すぎる。今更ながらここに閉じ込められ気づいた。
絶対何かが起きる。嫌な予感がしてならない。
「頼むからここから出してくれ!」
「澪様……落ち着いてください」
「封じの腕輪を取ってくれ!」
「む、無理です。私にはそんな力ありません」
「栖愁ならあるだろ! 頼む!」
「そんなこと言われましても、私の主はフィリッツ様のみです」
「頼む……」
「何故……逃げたいのですか?」
「生誕祭までにしなくてはいけないことがある」
「何を?」
「それは言えない」
「その理由をきちんとおっしゃれば、フィリッツ様もきっと……」
「分かるはずがない事くらい分かっている!」
栖愁は肩を震わせた。
翡翠は膝をつき、床を見つめる。ここ最近全く寝ていないため、このままバタンと倒れてしまいそうだった。
そこにフィリッツが入ってきた。
「栖愁、大丈夫ですか?」
「はい」
栖愁に怒鳴りはするが、手は全く出していない。
フィリッツは倒れかけている翡翠を押した。すると、翡翠はいとも簡単に倒れ、ぐったりとフィリッツを見上げた。
「貴方こそ大丈夫ですか?」
「フィリッツ様……」
「……出たいですか?」
「出してくれ」
「理由を教えていただけますか?」
言えば出してもらえるかもしれないが、翡翠は口を噤んだ。フィリッツはため息を吐くと、翡翠に穏やかな視線を向けた。
「では、話やすくしてあげましょう」
翡翠は何かをする気だと身構えたが、フィリッツはただ翡翠のそばに座り込み、笑みを浮かべた。
「……成長された本当の姿を初めて見ました」
翡翠は驚いて体を無理矢理起こし、ベッドに背を預けた。ちょうどフィリッツと向き合うような形になった。
「初めて出会ったのは約十年前です。そして、その時から貴方の本当の姿は見たことがありませんでした。封じの腕輪を付けられ、妖力が及ばなくなり、変化の術も解けてしまいました。おかげで、成長された貴方を見るのは初めてです。少し嬉しいですね」
翡翠は肩で呼吸をしながら、フィリッツを見据えていた。視線を逸らせなかった。
翡翠はフィリッツがこれから言うであろう言葉が脳裏をよぎった。最悪な展開である。翡翠は、フィリッツから視線を逸らすと俯いた。フィリッツは柊よりも恐ろしく勘のいいやつではある。洞察力も観察力も妖力も……かなり強い。しかし、そんなに長老の長という存在に接点を持つことはなかったからと、少し油断していた。大誤算である。
「貴方は、澪……ではありません」
翡翠は吸い寄せられるように顔を上げた。フィリッツと視線がぶつかる。
「貴方は、翡翠裕也様ですね?」
❦
空汰の目の前には先程まで黒猫の姿をしていた男が立っていた。
「ね、猫が……、ひ、人に!? あ、でも……猫耳……ある…………」
動物を擬人化したような黒猫の男は、真っ直ぐな瞳で空汰を睨んでいた。
空汰は驚きながらも少し冷静になり、黒猫の男に向き直った。
「お前は……誰だ?」
見たところ身なりがいいわけではない。中級妖くらいだろう。ニスデールマントが妙に似合うその男は軽笑を浮かべていた。
「クロイと申します」
「クロイ……」
今日の参加者にそんな名の者はいない。つまり。
「侵入者……」
「いえ、猫ですので」
「侵入猫で通るわけがないだろ」
「俺を恐れなくていいのですか?」
「何故?」
「俺は……」
そういうとクロイの手が空汰の腕を掴んだ。離れていたから油断していた。クロイと名乗る男の動きは速かった。
クロイは空汰の顔を見上げるように、妖々しい笑みを浮かべた。
「陛下を殺しにきました」