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2/14

準備



 翡翠裕也は今年で二十歳を迎える。


 その生誕祭を前に空汰は一つの壁と向き合っていた。


 目の前には真剣なまなざしを向けるフィリッツが立っていた。目の前には見覚えのない……いや、翡翠が公務をする時に使っていた羽ペンが置かれていた。


 黙り込む空汰にフィリッツはもう一度訪ねた。


「これは……翡翠様のものですか?」


「……これをどこで?」


「回廊で拾いました」


「どこの?」


「貴方様が好きな場所です」


 翡翠が好きな場所など知らない。知らないが……多分……。


「花と小川のある?」


「それ以外に何があるというのです?」


「あ……いや……」


 濁す空汰に鋭い視線を向けていたフィリッツだが、ため息を吐くと羽ペンを手に取り眺めた。何かの思いを呼び起こすように、思い出を思い出すように……。


 静かな時間が流れた。


 数分後、フィリッツは何事も無かったかのように羽ペンを懐になおすと空汰を見た。


「私の勘違いのようです……。突然の無礼、お許しください」


「え……あ、いえ」


「失礼します」


 フィリッツは一礼をすると踵をかえし、去って行った。その時、一瞬窓の外の木に視線が向いていたことに、空汰は気づかなかった。


          ❦


 空汰の部屋にジンが訪れていた。


「……という感じになります」


「分かった。座っておくだけで良いんだな?」


「はい。はじめは座っておいてください。食事が各自始まりまして、しばらくしたら、翡翠様もご自由に動いていただいて構いません。ただし、必ず料理を口にする際は、黄木に毒味を必ずさせてください」


「大丈夫だって」


「しかし……」


「毒味して黄木が死んだ方がバカらしい」


「翡翠様。貴方は世界を統べる長なのです。貴方様が居なければ妖世界が滅ぶと知っていて、そうおっしゃるのですか?」


「…………悪かった」


 俺には確かにこの世界がどうなろうと関係のない事だが、翡翠や長老たちにとってみればここが自分の世界なのだ。自分の世界が滅べばいいと思うような者は妖であろうがいないだろう。


「……昔、数代前の妖長者様はとてもお優しい方でした。他人に毒味をさせるなどあり得ないと毒味をさせることなく料理を食べていました。……案の定、毒死しました……」


 そういう結果があるからこそ思うことなのだろうと空汰はやっと理解した。


「万全の態勢を取っておくように」


「かしこまりました」


 ジンはそういって一礼すると、空汰を見た。


「それでは、部屋を移動いたします」


「え?」


「人間はすぐに成長するものです。服の新調を致します」


 まだ翡翠とはきちんと話が出来ていない。どちらが生誕祭に出るのか確定していない今、服の新調をしてしまっていいのだろうか。しかし……。断るに値する言葉が見つからなかった。


「どうされましたか?」


「分かった……行くから先に行っておいて」


「分かりました」


 ジンが部屋から去ったのを見て、空汰は窓に近づいた。そして、外に向かって長老らに気付かれない程度で声を上げた。


「裕也! 裕也―! いるんだろ!? 話があるから出て来いよ!」


 ……。


 空汰は首を傾げた。


「裕也―? 裕也―!?」


 ……。


 しかし返事はどこからも返ってこなかった。


 空汰は不思議に思いながらも、遅くなると不審に思われると思い、仕方なく部屋を後にした。


          ❦


 オーガイはフィリッツの部屋にやってきていた。


 珍しく二人向き合い紅茶を手にしていた。しかし、なかなか居心地が悪かった。


「それで……どうしましたか? 私はこれから少し雑用があるのです」


「多忙なところ申し訳ありません、フィリッツ。ただ、お耳に入れておきたいことがあります」


「何でしょう?」


「フィリッツ……。計画の事を知った翡翠様を殺そうとあの夜、動きました。しかし、逃げられ、数日間行方知れずに……。そして数日後、記憶を見事に無くされ戻ってきました。今も尚、記憶は戻っていない……皆がそう思っています。しかし、私はそうは思わないのです」


「どうしてですか?」


「先日、勝手ながら翡翠様の部屋に監視の目を付けさせていただきました」


 オーガイがそういうとフィリッツの視線は鋭いモノとなった。


「も、申し訳ありません……」


「無断では止めていただきたい」


「以後気を付けます……」


「それでそれがどうかなさいましましたか?」


「監視の目に翡翠様は気づかれました」


「気づかれた……。 オーガイの付け方が下手だったのではないのですか?」


 オーガイはフィリッツの言葉にムッとなりながらも平常心を保っていた。


「万全でした」


「しかし、気づかれたのですか?」


「はい。もしも本当に記憶を失われているのなら、監視の目の付け方に不自然が無い限り気づかれることはありません。だが、気づかれた……。それは付け方が下手だったのではないとしたら、考えられる可能性は一つです。…………翡翠様の記憶がお戻りになられた」


 フィリッツはオーガイの話に耳を傾けながらも、頭では違うことを考えていた。


 あの羽ペンは確かに翡翠様のものである。しかし、濁し方といい戸惑いといい、嘘をついているようにも見えなかった。それにもしもあの羽ペンを男の子が落としたら男の子イコール翡翠様ということになるが、妖長者の印を全く感じられないのは可笑しな話である。感じられたのはただならぬ者の気配と妖力が強いということだけだった。男の子が翡翠様であるのならば濁す必要もない。わざわざ、澪などふざけた名を名乗る必要もない。


 考えれば考えるほど、不思議なほどに疑問と矛盾が溢れ出てきた。


 記憶が戻っていてもいなくても、正直関係無い話だが、フィリッツにとっては、こちらの方が気になることであった。


「記憶が……ですか」


「記憶が戻ったとなると、一大事です」


「しかし、事を起こしていないのならばいいのでは?」


「こちらを陥れる手段を考えているのかもしれないのです」


「無いとは言えませんね」


「ならば! 急ぎ手を……」


「とりあえず、あちらが何も動かないのであれば急ぎ手をうつ必要もありません」


 フィリッツはそういうと立ち上がった。オーガイを冷たい視線で見下ろす。


「しかし!」


「オーガイ」


 フィリッツの低い声にオーガイは黙り込んだ。だが、視線はそらさなかった。


「あちらに何か動きが見られれば、長老会議でも開きましょう。しかし、記憶が戻ったかどうかも定かではありません。今下手に動いて、計画が逆に漏れる可能性もあります。少しだけ、待ちましょう。まずは、生誕祭を無事に終わらせなければいけません」


 オーガイは何か言いたげにしていたが、フィリッツの威圧な瞳に黙って頷いた。


「分かりました……」


 フィリッツは一息おいて本棚から本を取り出し窓際に行くと開き読み始めた。


 それを見たオーガイは何も言わずに去って行った。


――――クソッ!


          ❦


 珀巳はツェペシ家を訪れていた。


「よく来たな」


 笑みを見せるダイを見て、一礼をすると、横から誰かに突然抱き付かれた。見ると、ミーランが笑みを浮かべ見上げていた。


「ミーラン様」


「珀巳って狐なのでしょう!?」


「えっと……はい、そうですよ」


「妖狐っていいよね!」


「そうですか?」


「私狐って好きよ! あ、でも私はフィリッツの方が~」


そう言いながらミーランは頬を赤らめる。そんな可愛らしいミーランに珀巳は作り笑いを浮かべていた。フィリッツはモテるくせに異性に全く興味を示さないことを知らないミーランに夢を崩させないための精一杯の誠意だった。


珀巳はダイに連れられ、応接間に入った。


エリアも入ってきた。


三人は向き合うように座り、紅茶を一口飲んだ。


「あれからどうだね?」


 突然のダイの問いに珀巳は少し戸惑いながらもきちんと答えた。


「私の身の上話は致しました」


「そうか……。もう気楽だな」


「そうですね。ある男のおかげです」


「ある男?」


「澪と名乗る男です」


「澪……か……。ん? 待てよ……どこかで聞き覚えが……」


 ダイが思い出せずにいると、エリアが口を挟んだ。


「夜会の数日前にこちらの屋敷にいらしました」


「え!?」


 ツェペシ家の夜会数日前。その日は雨が朝から降り続いていた。バケツをひっくり返したような土砂降りに皆の気持ちも少しばかりどんよりとしていた。


 そこへあの男はやってきた。


『ダイ様はいらっしゃいますか?』


 素性の知れない男を屋敷内にあげることは普通しないが、その日は土砂降り。男はかなりびしょ濡れだった。それを見たエリアが応接間に通した。


『主人に何か?』


 男は貸してもらったタオルで綺麗に雫を拭きながらエリアを見た。


『翡翠……裕也様についてお話があります』


 そう言われたエリアはダイに相談した。すると、ダイは男の前に現れた。


『何の用です? あなたは?』


 男は優しげな笑みを浮かべ胸に手を当てると一礼した。


『これは申し遅れました、澪と申します』


『澪? 知らない名だ』


『翡翠裕也様殺害計画について、伝達を致します』


『誰からだ』


『……名を、オーガイと申します』


『……伝達を聞こう』


『「珀巳を助けてやれ」とのことです』


 ダイは不思議に思い、首を傾げた。先日オーガイと会った。その時には、とある紙を渡された。そこには、珀巳という式を使い翡翠様を捕まえろと書いていたはずだった。しかし、助けろとはどういうことだろうか。


『どういうことだ』


『はい。珀巳は今、妖長者にとらわれております。彼を自由にする手助けをしてほしいのです』


『手助け……』


『貴方様の裏金……』


『それをどうする気だ』


『貴方様は裏金で脅されております。それを利用して、貴方様が自由になれば珀巳を自由にすることも出来ます』


『どういうことだ』


『その後の事は事が起これば分かる話です。まずは、珀巳を使い裏金の証拠である書類を燃やし消させてください。そのあとは、自由にさせてあげてください』


『ギブ&テイクか』


『はい』


『本当にそれをオーガイが言ったのか?』


『はい』


『オーガイはなにを考えている』


『私には分かりません。しかし、オーガイ様は珀巳を欲しております』


『珀巳はそれを望むのか?』


 澪は黙った。そして一呼吸おき口を開いた。


『いいえ』


 澪は鋭い視線を向けていた。あまりにも真剣な表情にダイとエリアは固まった。


『お前……オーガイの使いではないな!?』


『珀巳を……オーガイから解き放つためなのです。貴方様にも利点はあります』


『……それを信じろというのか』


『信じていただければ、珀巳は必ず力を発揮します。珀巳は嘘を吐くのが苦手です。嘘を吐けば初めて会う貴方様でもすぐに見抜くことが出来ましょう』


『……お前はどうするのだ』


『私は傍観者としております』


『……私が約束を守らなければどうする!?』


 ダイがそういうと澪は笑みを浮かべた。


『ダイ様、エリア様を信じております』


 珀巳はその話を聞き、目を丸くした。


 澪という男は事が起きる前から、こうなることを予想していたのだ。いや、分かっていたのだろう。そして、ダイがきちんと約束を守り珀巳が燃やしてしまうことを。そして、そのあとに何が起こり、今の状況になるのかもすべて見抜いていたのだ。ますます澪という男の存在に疑問が増えた。


――――誰なんだ?


 ダイは納得したように数回頷いた。


「今思えば、珀巳を助けろと言うが珀巳と私を助けるためだったのだろうな……」


「澪という男は、すべてを見抜いていたのです……きっと」


「だろうな」


「オーガイ様の名を使い貴方様のところに来た時点で、ただ者ではありません」


「そうだろう……。しかし、私には真実を求めるつもりはない」


「……どうしてですか?」


「澪という男に、正直、感謝しているからだ」


          ❦


 空汰が服の新調などを終え、部屋に戻ってくると蝶の大群が部屋を飛び回っていた。ある意味神秘的な風景だが、蝶たちが暴れた後だろう、書類や本が床に落ちていた。


 空汰は驚きながらも部屋に足を踏み入れると、すべての蝶が綺麗に並んだ。


――――な、何だ!?


 するとその中で一際目立って綺麗な蝶が、ひらひらと空汰の目の前で飛び浮かんでいた。


「澪?」


 澪はチリンチリンと綺麗な音を鳴らした。翡翠には分かるその言葉だが、空汰には分からない。何かを訴えようとしていることしか分からなかった。


「ごめん……澪。俺はお前の言葉が分からないんだ」


 空汰はあまり蝶の大群を気にせず、散らかってしまった書類や本棚を綺麗になおし始めた。その様子を蝶たちは見ていた。


 澪だけが一羽、すごく焦っていた。


 どうにかして空汰に何かを伝えようとしているのだろうが、空汰自身はそんなことも気にせず部屋を片付けた。


「澪、来るのは良いが散らかすな……。片づけるのが面倒なんだ」


 空汰は翡翠に部屋を返したときのために、本や資料などはすべて来た時からあった通りにきちんと整理していた。物語の本なども一部順番が違うところがあるが、それも馬鹿正直にきちんと違うなりに並べているくらいである。


 空汰はやがて片づけ終わると椅子に座った。公務が途中になっている。


 空汰は公務に手を付けようかと思ったが、蝶たちが部屋中を飛び回っているのを見てやる気がなくなり、仕方なく先程ジンから渡された生誕祭についての資料を確認し始めた。生誕祭では、特にこれと言ってすることはない。会場に入った後、一言集まってくれた者達への感謝の意を伝え、椅子に座る。それからは色々な方々が挨拶に順番に来るそうだ。それに適当に解釈するだけで良いという。そして、それも少し落ち着いたら立ち回り食事をしていいのだそうだが、もちろん毒味は必須と記されていた。絶対にしてはいけないことまで丁寧に書いている。一番してはならないことの一つに、会場を無断で絶対に抜け出してはいけないというものだった。どんな生誕祭なのか、どのくらいの規模なのか、全く分かっていないが、規模によっては抜け出したいと思うほどの場所になるのだろうと予想は出来た。やはり、翡翠本人が出た方がいい気がしてならなかった。


 それにしても……。


「澪、お前らいつまでいるんだ!? というより、その蝶たちは何なんだ」


 澪はまた音を鳴らした。しかし、やはり空汰には分からなかった。


 空汰はふとあることに気付いた。


「澪、お前何で俺のところに来た? 翡翠は?」


 澪がせわしく音を鳴らす。


「あぁ……」

空汰は一瞬頭を抱えた。不便だ。実に不便だ。


 空汰は半ば諦め羽ペンを手に取り、公務の書類を書き始めた。


 数秒後、空汰の持っていた羽ペンに澪が止まった。


 空汰はため息を吐いた。


「澪……。お前……邪魔をするな。翡翠がいないと、悪ガキと何ら変わらないぞ」


 しかし澪は空汰の羽ペンに止まったままだった。


 空汰は澪をじっと見つめた。


――――ん?


 よく見ないと分からないが、澪は羽ペンを必死に引っ張っていた。空汰はスッと羽ペンを握る手を緩めた。すると、澪がそれを持ったまま浮いた。


 そして空汰の書きかけの書類の紙に、飛びながらふらふらと妖字を書き始めた。


――――なるほど……。声で伝えられないのなら、書く、か……


 空汰はため息を吐き、澪が何を書いているのか静かに見守っていた。


 蝶には重いであろう羽ペンを持ちふらふらと揺れながら書き上げた妖字を空汰はのぞき込む。正直子供が殴り書きをしたような絵に見えるが、それでも必死に書き上げ疲れたのか机の上でぐったりとしてしまっている澪を見ると、きちんと読んであげなければいけない、と思う。


 空汰は紙を回し、一生懸命に解読をした。


『つ』


『が』


『翡翠』


『ま』


『ら』


『妖』


『た』


『た』


『っ』


『、』


『て』


『そ』


『に』


『か』


『。』


『け』


『た』


『す』


 空汰は羽ペンを片手に提出する書類の裏に書き表した。


――――全く意味が分からない


 本当にこの文字で合っているのか不安になりながらも空汰はもう一度解読を試みる。ふらふら揺れ不安定な文字の並びは複雑だった。


 空汰は唸りながら澪を見た。


 澪がどこを向いているのか、どんな表情をしているのかは分からないが、読んで欲しいと投げかけられているように感じた。


 空汰は目を閉じ澪が書いていた順番を思い出していた。


『妖』


『に』


『翡翠』


『が』


『つ』


『か』


『ま』


『っ』


『た』


『。』


『た』


『す』


『け』


『て』


『、』


『そ』


『ら』


『た』


 空汰は紙を見る。


 空汰は驚きのあまり澪を見た。


 澪は空汰の心を悟ったかのように再び飛んだ。そして、数回空汰の周りを飛び回り窓の外に飛び出した。


 空汰もそれにつられ窓に駆け寄った。しかし、ここは最上階。とてもではないが、ここから飛び降りるわけにもいかない。


 すると澪は戻ってきた。空汰の前でひらひらと飛ぶ。


――――飛べってことか? でも……


 空汰は空を飛ぶ妖術をまだ知らない。教えてもらってもいなかった。だが、今はそんなことを言っている場合ではない。空汰は意を結して飛び出した。


――――飛べ! 頼むから! 俺の体!


 空汰は目を閉じ落ちるのを覚悟していたが、不思議と痛みが無かった。恐る恐る目を開けると浮いていた。


 自分の力で浮いているのかと思い視線を背に向けると、それは違うようで部屋にいた蝶の大群が空汰の服を掴み浮かせていた。


「ありがとう」


 そしてそのまま澪と共に運ばれた。


 森を抜け、暁月記学園を通り過ぎる。そして空汰はあることに気付いた。ずっと蝶の大群が自分を運んでいるのだと思っていたが、蝶の大群は空汰の後を飛んでいた。空汰は恐る恐る背を見る。そこには一羽も蝶はいなかった。


 自力で浮いていたのだった。


「お、俺、飛べるの!?」


 その声に反応した澪がチラッと見て、音を鳴らした。相変わらず言葉は全く分からなかったが、空汰は自然と笑みを浮かべていた。妖長者なのだから飛べるよ、と言っているようなそんな気がした。


 空汰は自力で澪の後を飛んだ。


 翡翠のもとに行くために……。


『妖に翡翠が捕まった。助けて、空汰』


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