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分岐点


「橘楓がどうした」


「いえ……少々気になることがあっただけです。気になさらないでください」


 そういうとフィリッツは歩き出し、ある扉の前で立ち止まりノックをした。


 空汰と翡翠は何をしているのか全く分からず、身構えたが、扉を開け現れたのは珀巳だった。


「珀巳!?」


 二人が声を揃え呼ぶと、珀巳は苦笑を浮かべた。


「お二人とも、大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」


「何故お前がここに……」


「フィリッツ様に匿っていただいておりました」


「匿う必要がどこにある?」


「あの、翡翠様。フィリッツ様を疑う気持ちも分かりますが、彼は私を助けてくださったのです」


「助けた? 何から?」


 話を遮るようにフィリッツが全員分の紅茶と茶菓子を用意した。


「まあ、募る話もありますが、まずは少し休みましょう。最近そこまで気を休められてはいないでしょう」


 全員言われるままにテーブルを囲み、紅茶を飲む。体の奥に染みわたる感覚がした。とても、美味しい味だった。


 全員が落ち着き始めた頃、フィリッツが小さく息を吐いた。


「翡翠様、空汰様、珀巳。約束してほしいことがあります」


「約束?」


 空汰の声に、フィリッツは小さく微笑んだ。


「はい。これから動いていく上で大切なことです」


「俺らが守れるものなら守ろう」


「今ここにいる四人以外、一切信じないでください」


「一切?」


「長老全員はもちろんのこと、柊や黄木もです。それから、空汰様が連れてこられた守護者のディリーらもです」


「え!? ディリーも? 柊や黄木も!?」


「はい」


「何故!?」


「空汰様よく考えてみてください。今は違うとはいえ、珀巳も裏切り者でした。ターゲットが一番油断するのは、すぐそばにいる者です。珀巳がいなくなった今、柊や黄木に向きます」


「なるほど……」


「ですから、今ここにいる四人以外は決して信じず、惑わされないようにしてください」


「俺はいいけど……」


 視線を翡翠に向けると、翡翠は頷いていた。


「俺もいいよ、別に」


 珀巳も頷く。


「その方が効率もいいでしょう」


「では、空汰様と翡翠様にひとつ提案があります」

「提案?」


「過去へいきませんか?」


 その言葉に翡翠は顔をあげた。空汰は首を傾げる。


「過去?」


「この計画の始まりの時間へ戻るのです。そこで、黒幕を見つけます」


「黒幕って、オーガイじゃないよな?」


「はい。黒幕は別にいます」


「その黒幕を過去に戻って見つけると?」


「その通りです。今の状態ではあまり動くことが出来ません。過去に戻って、探った方がスムーズにとはいきませんが、こちらで探すよりは探しやすいと思います」


 空汰は翡翠を見るが、翡翠はフィリッツを見据えているだけで黙ったままだった。何を考えているのか分からない。賛成なのか反対なのかすらわからなかった。


「過去へはどうやって行くの?」


「私の力をお貸しします。過去へ戻るにはそれなりに体力を消耗します。行けて数時間程度です。その間に、様々なところを探らなければなりません」


「なるほど……。そっちの方がいいんだよな?」


「動きやすさでいえば、そうですね」


「じゃあ……」


「待て」


 空汰の言葉を遮るように、翡翠が口を開いた。自然と翡翠に視線が集まるが、翡翠は大きなため息を吐くとフィリッツと空汰を見た。


「……過去へは行くな」


「どうして? すぐに裏切り者が分かるのだぞ!?」


「空汰。よく考えてみろ。お前はその時間を人間界で生きている。お前はそこにいるべき人間ではない」


「でも」


「それに、もしもお前が過去に戻って黒幕を探っている間に、フィリッツやオーガイとかに会ったらどうする!? お前は俺がここに連れてくる。それまで、お前はフィリッツたちを知らない。でも、フィリッツたちは覚えている。過去へ行くということは未来を変えるかもしれないということだ」


「変えなければ……」


「俺とお前が……出会わなかったということにも……なるかもしれない」


 空汰はハッとした。過去へいき、少しでも弄ってしまえば翡翠とは出会わないことになるかもしれない。翡翠が死ぬかもしれないし、この計画自体がなくなっているかもしれない。翡翠に止められずそのまま行っていたら、きっと過去を弄っていただろう。


「翡翠……」


「俺はお前と出会いたいよ」


 そう言って目を伏せる翡翠に、フィリッツは冷ややかな視線を向けていた。


          ❦


 その日の夜、フィリッツの自室である別館内で、フィリッツ、翡翠、空汰は別々の寝室で休んでいた。しかし、誰一人眠れてはいなかった。


 空汰は部屋の大きな天窓から見える、暗い空の大きな穴を見つめていた。


 あれが、翡翠が前に言っていた人間界へと通じる穴。帰ろうと思えば、ある意味帰ることが出来る。でもそれは、翡翠とフィリッツを裏切り、一人逃げ帰るということになる。この窮地に二人を置いては帰れなかった。ここに突然来て、妖長者という荷を負うことになった。誰が裏切り者で、誰が味方なのか、見極めがとても難しくて、俺には全然分からなかった。翡翠のことを知り、手助けしてやりたいと思うのと同時に、不信感も少しだけある。どんなところに不信なのか……それは、大切なことを一切言わない。何かを知っているようなのに、それを自分の中に留めて自分だけで解決しようとする。他にも、俺に何かを隠しているような……そんな気もする。


 自然とため息が出るのは何故だろう。


 この状況に疲れているからなのか、何か考えているからなのか、それすらも定かではない。自分がこんなに深く関わるつもりはなかったから……。そこまで大きな覚悟をしてきわけではない。ちょっと行って、ちょっと手助けして、すぐに帰る予定だった。そんな甘い考えで、この地に足を踏み入れた自分が馬鹿らしくなってきた。翡翠やフィリッツは、自分の地のことだからかなり真剣に取り組んでいる。当たり前と言えば当たり前だが、温度差のある俺が、ここにいていいのかと最近つくづく思う。


 こんなに大変なことになっているのに、俺は結局何も出来ていない。妖力もそんなに強くないし、妖術だって基本中の基本のしか知らない。珀巳を助けることはおろか翡翠一人助けられない。俺は何のためにここに来たのか、これでは全く意味がない。


 挙句には窓から飛び出して、高さに怖気づいて落ちてしまい、翡翠に軽傷を負わせる始末。迷惑しかかけていないのだと、本当に実感する。


 今後長老と対峙していかなければならない中で、俺には何が出来る? 結局、俺はただの荷物でしかないのか。少しくらいは、手助けしてやりたいよ……。そして、笑ってお別れを…………。


 自然と頬を涙が伝う。


 笑って……別れないといけない。ことが終わったとしても、翡翠はここに残ることになる……。俺は人間界に戻って、またあの妹と暮らすんだ。そして、学校生活を楽しんで、大人になって適当に働いて、結婚なんかして、子供が出来て、家族と過ごしながら仕事して……。そんなごく普通で幸せな人生を送るんだ。翡翠が叶えることの出来ない……幸せな日常を、俺は送る……。


 翡翠が、好きな日常を送っていないことを知っているのに……俺が…………そんな日常を送れるわけがないだろ!? 一人取り残される翡翠は、どんな思いか考えるだけで……可哀想だ。


 空汰は頬を伝い、ベッドを濡らす涙を拭うと深呼吸をした。


 窓から視線を逸らし、翡翠が前に持ってきてくれた自分の持ち物を見る。リュックには懐かしい写真やおもちゃが入っていた。写真を手に取り眺めていると、再び涙が零れた。涙が写真を濡らす。空汰は手でそれを拭きながら写真を眺めた。それは、妹、両親と自分が写っている写真であった。


『ほらほら~、お兄ちゃん早く~!』


 カシャッ


『あぁーもうっ! お兄ちゃんダメだよ、急がないと~』


『ごめんごめん、佳奈。タイマーの時間を間違えたよ』


 家族で楽しく笑い合った、最初で最後の日。それから一ヶ月後、両親は死に俺は佳奈と二人きりになった。それから佳奈が笑みを見せることはなくなり、俺も家で笑うことはなかった。


 昔から奇妙なものを見た。家でも家の外でもそれはいて、俺の周りを付いてきた。でもそれは、俺以外の誰にも見えないらしく、たぶん、お化けと呼ばれるもの。他にも幽霊と呼ばれるものだと思う。


 俺は俺以外に見えないとは知らず、何かがそこにいるよ、誰かがついてくるよ、と口々に言っていた。でもそれは周りからしたらすべて嘘で、俺は嘘つきと呼ばれるようになった。俺は嘘を吐いているわけではない。嘘つきと言われなくなった後、俺は気味が悪い子だと言われるようになった。


 どうして、俺だけ……。そんなことを思いながら気づけば高校生になっていた。


 俺は今の学校に転校してきた、所謂転校生。


『このクラスに転校してきた、酒々井空汰くんです。皆さん、仲良くしてあげてくださいね』


 担任の先生の声に、もともとクラスに数少なかった男子が喜んだ。


 喜んでくれたことが心底嬉しかった。この学校で、このクラスで、楽しく出来る。そう思っていたから。


 でも翡翠が現れた。


 嫌だったわけではない。ただ、今でも少し寂しい。


 絶対的な別れというわけではない。でも……。


「……さあ、寝よう」


 空汰は涙を拭い、写真をなおすとベッドに入った。


 寝転がり目をつぶる。


 俺は酒々井空汰。忘れられない時間を生きる、どこにでもいる高校生。


          ❦


 翡翠は大きなため息を吐いていた。ごろんとベッドに寝転がり、横を向くとあの日記が視線の先にあった。ダイ・ツェペシから戻されたあの日記である。


 翡翠は手を伸ばし日記を手に取る。ページを捲り読み始めた。


[妖長者として妖世界に連れてこられて気が付けば一ヶ月ほどが経っている。でも、俺は妖長者として何かしたかと聞かれれば、何もしていない。公務は面倒だし、長老とかもっと面倒だ。だから、抜け出して街々を探るんだ。そしたら、人間界にはない新しい発見がいっぱいあるんだ。見たことのない食べ物から知らないモノまでたくさんある。食べ物は時々買ってみたけれど、美味しいものとこの世のものとは思えないほど不味いものがあった。名前を忘れたけれど、何とかという食べ物は、人間界のスイカのような味がして、俺は結構気に入っている。また機会があれば、食べたいな]


 そういえばあの食べ物の名前は一体何だったのだろうか。十年前に結局一度しか食べられなかったあの食べ物。あの後、もう一度食べたくて店に行ったが、店は潰れてしまっていた。


[今日は生誕祭だった。施設の皆から、たくさんおめでとうを言ってもらったことを思い出した。ここでも、たくさんの妖におめでとうございますと頭を下げられた。でも、全く嬉しくはなかった。どうせ俺の立場に興味があるだけだろうと、そう思っていたから。妖世界の料理の味には慣れたけれど、やっぱり人間界の料理が食べたい。そして、もう一度、あの施設の家族の皆におめでとうって言われたい。たくさん笑って、ケーキを食べて、遊びたい。小学四年生にもなって遊びたいなんておかしいかもしれないけれど、俺は皆が大好きだから、遊びたい。いつか人間界に戻れる日って来るのかな?]


 帰られる日なんて来ないことを、この当時の俺に伝えてあげたい。もう二度とこの世界から出ることはないのだよ、帰れず寧ろ命の危険にさらされるよ、と教えてあげたい。そしたら、少しはいい方向に進んでいたのかもしれない。空汰に迷惑を掛けなくてよかったのかもしれない。妖長者は俺だけで、よかったのかもしれない。


 妖長者は、俺だけで……。


 日記を読み進め、ページを捲ると白紙になっていた。前のページに戻る。それは、自分自身が最後に記した日記である。


[妖長者としての日々にもすっかり慣れた。もうこの日記も不必要になるかもしれない。今はとても日々が楽しくて、笑っているわけではないけれど、本当に楽しいんだ。家族のことをずっと忘れなかった俺が、たまに忘れてしまうほど充実している。人間界は、腐った大人が多いと思っていて、妖世界も皆そうだと思っていた。でも、それは違うのだと少し感じる。少し振り返ってみると、大人でもいい人だっていた。施設の大人はそうだった。俺に暴力は振るわないし、悪い子だとも言わない。気味の悪い子なんて言わないし、痛いことだってしない。ここの妖だってそう。口では結構ひどいことを言ったり、強制してきたりするけど、暴力はないし俺の言うことだって一応聞いてくれる。俺のことを分かってくれる式もいる。ここは、俺の大切な場所なんだなと感じ始めたよ。もう少しここで頑張ってもいいなら、もう少しここで頑張りたい。俺が死ぬ最期まで、この気持ちが続くのなら]


 続かなかったのかもしれない。空汰にこのまま妖長者の座を預けて逃げ出そう、とは一度も思わないが、そんな考えがないわけではない。ただ、それは自分自身が許さない。


 これから、誰を味方につける!? 空汰だけでは正直今後難しい。フィリッツを信じていないわけではない……だが……。


「見極め……ねぇ……」


 翡翠はベッドに座り再び日記を開いた。最後のページの紙が捲れていることに気付き、慌てて捲ると奇妙な数字が書かれていた。


「32481 47333 18274 09573 81745 83829 55544 32812 85948 47582 99685 47584 67584 71097 47692 01012 47394 19503 84730 87495 58694 38283 95860 94057 71638」


 翡翠は考えた素振りを見せた後、立ち上がり机上にあった白紙と羽ペンを手に取り日記を片手に書き始めた。


「32481……」


 日記をぺらぺらと捲る。


 翡翠の寝室にはページを捲る乾いた音と羽ペンを動かす音だけが静かに響いていた。


          ❦


 フィリッツは寝室の窓際で、本を開いていた。しかし、視線は窓の外に向いている。


「彼が……」


 酒々井空汰様なら、翡翠様はあのことを知っているのか。いえ、知らないはずはないと思うけれど……。故意なのか偶然なのか……。


 立ち上がり、白紙と羽ペンを手に取り妖術を書いていく。


 書き終わり、懐から小石のようなものを取り出した。それは、翡翠に持たせているあの小石と酷似していた。それを、妖術を書き表した上にそっと置くと、映像となって現在の翡翠の様子が映し出された。


 どうやら翡翠は机にむかい何かを書いているようだった。


「こんな夜中に……。これは数字?」


 手元を見ると、本を開き紙に何かを書いていた。


「47582……99685……」


 あの本をどこかで見た覚えがあった。翡翠様がこちらに来てまだ間もない頃、見た覚えがある。でもあれは、確かダイ様がお持ちになっていたはずでは……? ダイ様がお返しになられたのか、見つけ出したのか……。


「あれは確か日記……」


 翡翠様が来て間もない頃、書き始めたらしいあの日記。内容は少し覗き見したことがあるだけで、ほとんど知らないけれど、また急にあの日記を?


 あの数字がなにか関係している? あの数字は何? 誰が書いたもの? ダイ様? 空汰様? 空汰様ではないか。


 ため息を吐き紙の上から小石を退けた。すると映像も切れる。


「さてと」


 これからどう動くか……。このままでは妖長者の部屋にも戻れない。動くにもここから出ること自体が難しいから動けない。敵が内部にいるばかりか、ほとんどが敵と化したこの屋敷内に、留まること自体難しいかもしれない。この屋敷から逃げ出すか? そんなこと出来るのだろうか。こちらには妖長者がいる。世界が崩れることはないが、印と石を持つ限り逃げられはしない。襲撃者の主犯格はケンジ。ケンジが私達を安易に逃がすとも思えない。ジンやナクは、妖長者のことをよく思ってはいないが、基本的にゆるい二人だ。撒こうと思えば撒くことが出来る。オーガイをずっと瓶に閉じ込められるわけでもない。オーガイは早急に牢にでも閉じ込めておく必要がある。実際、あの瓶にヒビが入ってしまっていることなど言えるわけもない。オーガイを牢に閉じ込めた後、ケンジを捕まえる。そして同じく牢に入れた後、次はジンやナクだ。あの二人は少々厄介……。オーガイやケンジは下の者を使う以外、単独行動だから捕らえやすい。だが、ジンとナクは二人で行動をするため、一方の考えを動かしたところで、逆に自分が捕らえられる危険が残ってしまう。すんなり話を聞き入れてくれさえすれば早いが、そこは正直賭けである。


 翡翠様がどうしたいのか分からない限り、あまり下手には動けない。


 手を額に当て、目を閉じ深いため息を吐いた。


 それに……。


『おかえりなさいませ、フィリッツ様』


『目が覚めたようで何よりです』


『それを見越してのお帰りでしょう?』


『まあ……そうですね』


『どちらへ行っていたのです?』


『少しさがしものをしに行っていました』


『さがしものですか?』


『「橘楓」という人物について』


『たちばなかえで……。聞いたことのない名です』


『それはそうでしょう』

『何故ですか?』



『何故でしょうね』


 栖愁は諦めたように小さく息を吐き、フィリッツに強い視線を向けた。


『フィリッツ様、少々気になることがあります』


『気になることですか?』


『先程、翡翠様とスカイ様が再会されているところを見ていたのですが』


 フィリッツはフッと笑った。


『何です、羨ましいのですか?』


 栖愁は少し頬を赤らめ口を尖がらせた。


『違います!』


『冗談ですよ。それで、どうされました?』


 栖愁は落ち着き、フィリッツから視線を逸らさず重い口を開いた。


『そばに置かれていた、妖石にひび割れが見られます』


『ひび割れ?』


『はい。まだ小さなもののようですが、妖石が割れれば妖長者は死にます……』


『妖石に今までひび割れなど一度も……』


『私の憶測ですが、多分、必要以上に妖長者の印と妖石の移動が行われているためだと思われます』


『混乱しているというのですか?』


『断定は出来ません。しかし、このままでは妖石は割れてしまいます』


『タイミングによっては、翡翠様が死ぬかもしれませんね』


『……やはり翡翠様の心配をなさるのですね』


『……現妖長者は翡翠様です』


『スカイ様の正体をお知りになってもですか?』


 栖愁に鋭い視線を向けると、栖愁は怯むことなくこちらを見た。


『栖愁、貴方に隠し事は出来ませんね』


『空汰様なのですね?』


『えぇ、そのようなのです』


『それでも尚、翡翠様につくのですか?』


『私は迷っているのです』


『フィリッツ様がですか?』


 栖愁の言葉につい笑みが零れる。


『私は常に迷っているのですよ?』


『それは知りませんでした。いつも即断即決の方だと』


『見上げられたものですね』


『見下げられるよりましかと』


『栖愁も言うようになりましたね』


『そちらこそ』


『……でも本当に迷っているのです。どちらかしか助けられないとして、どちらを助けるのか……』


『どちらも人間です』

『そうなのですが……』


『翡翠様も空汰様も私は認めます』


『しかし、このままでは双方消えます』


『双方!?』


『はい……。このままでは最悪の場合、翡翠様も空汰様も逝ってしまいます』


『それはっ』


『かなり困ります。彼らが死ぬと、私の命も正直危ないのです』


『オーガイ様やケンジ様でしょうか?』


『以外に私に敵はいませんよ』


『フィリッツ様!』


『そう急かさないでください。分かっているのです、私が迷っていてはいけないことくらい。ですが、妖石にひび割れが入るとまでは考えていませんでした。本当にどうにかしなければいけません……』


『片方が死ぬ以外に、解決法はないのですか!?』


『あることにはあります……。ただし、結局誰かが死ぬことにはなるのです』


『……もし、翡翠様と空汰様、どちらかが死ぬことになって、その後に困らない方はどちらなのでしょうか』


 少し考えた後、少し間をおいてため息交じりに俯いた。


『…………現妖長者は翡翠様です。決まりに従うなら、翡翠様が生きていて貰わなければなりません。……ですが』


 顔をあげ、栖愁を見据える。


『私は空汰様に生きていて頂きたいのです』


          ❦


 翌日、三人と栖愁、珀巳が部屋に集まっていた。


「翡翠様、空汰様、どうされますか?」


 空汰は翡翠を一瞥した後、フィリッツに視線を向けた。


「俺は過去へは行かない。この世界でこの時代で解決する。この時代に起きたことは、この時代で解決しなければならない」


「よろしいですか? 翡翠様」


「空汰が最終的に決めたんだ。俺はどちらでも構わない」


「分かりました。では、翡翠様と空汰様にそれぞれ指示を出します」


「何?」


「翡翠様は長老会議室奥書庫へ行き、調べ物を続けてください。何か出てくるかと思います」


「俺だけ!?」


「翡翠様自身も、一人の方が動きやすいのではありませんか?」


 翡翠は一瞬顔を曇らせたが、すぐに小さなため息を吐き、フィリッツを見た。


「分かった。何かあることを祈る」


「それから、私はケンジのもとへ行ってきます」


「ケンジ? 何故?」


「空汰様はお気づきになられませんでしたか? 襲撃者の主犯格はケンジです」


「知っているけど……でも」


「私なら大丈夫です。ケンジと対峙してきます」


「敵陣に入るんだよ!?」


「大丈夫です。私はケンジには負けません」


 そう言い切るフィリッツに空汰は安堵の笑みを浮かべた。


「分かった。で、俺は?」


「空汰様と珀巳はここで待機していてください」


「待機? 俺も何かするよ!」


「いえ、空汰様は現在妖長者の印を持っています。動かれると、危険です」


「でも、俺だって役に立ちたい!」


「立っています」


「俺は何も出来ていない!」


「翡翠様に自由を与えているのは、まぎれもなく空汰様です。空汰様が妖長者の印と妖石を預かっていてくださらなければ、翡翠様はこうして自由に動けないのです」


「でも……」

「安心してください。空汰様を見捨てたりはしません」


 空汰は納得したのか首を縦に振った。


「分かった。そのかわり、ケンジには絶対勝って」



「仰せの通りに。空汰様には珀巳が付きます。珀巳」


「はい」


「珀巳は一人で、空汰様を守れますか? 私が察することが出来れば、戻ってきますが、それでもはじめのうちは一人で守らなければいけません」


「空汰様一人を守れないなど、式失格です」


「では、任せましたよ」


「かしこまりました」


「栖愁」


「はい」


「栖愁は翡翠様についてあげてください」


 一番驚いたのは翡翠である。


「え、俺一人でいいよ!?」


「いえ、例え妖長者の印を持っていないからといって、安心は出来ません。しかし、栖愁は戦闘不向きですので、戦う際は翡翠様一人に変わりありません」


「それって、栖愁いる意味……。というか、俺は守らねぇのかよ!」


「翡翠様の力を私は知っています。それを考えてのことです。栖愁の妖術を使えば、見つけたいものがすぐに見つかるかもしれません」


「だけどさ」


「栖愁を後ろに庇う必要はありません。彼女の治癒能力の速さは誰にも負けませんから」


「庇うだけ無駄ってやつな」


「その通りです」


「分かった。栖愁、よろしく」


「よろしくお願いします」


「では、空汰様、翡翠様、珀巳、栖愁。よろしくお願いします」


          ❦


 空汰は珀巳と共にフィリッツの自室にいた。ソファに座り微動だにしない空汰に珀巳は首を傾げる。


「空汰様、どうかなさいましたか?」


 しかし声を掛けても聞こえていないのか呆然としているだけだった。仕方なく目の前で手を振ると、ハッとして顔をあげた。


「空汰様?」


「あ、ごめん……。俺、本当に何しに来たんだろうなって。俺、結局何も出来なくて」


「そんなことはないと思いますよ?」


「そうだよ、皆そればかり言う。空汰様は頑張っていますよって……。俺は、何も頑張っていないのに……。俺は翡翠の足元にも及ばないのに……」


 珀巳は困った表情を浮かべていた。


「空汰様」


「黙って。きれいごとはもういらない」


「空汰さっ、あっ」


 空汰に伸ばしかけた手を払い退けられてしまい驚いていると、空汰は立ち上がり手を強くに握りしめた。


「俺は何もできない……。俺は、ダメな奴だ……」


「空汰様……」


「珀巳。お前は翡翠の式だろ? 俺の心配なんていらないから、翡翠の元に行ってやれよ」


「私は翡翠様の式ではありません」


「は!? 翡翠と契約したのだろ!?」


「翡翠様と契約を交わしたのではなく、妖長者と契約を交わしたのです。ですから、私や黄木、柊は妖長者が代わり動くと、私達も主が変わり動くのです。ですから、空汰様。ひとつ勘違いしないでいただきたいことがあるのです。現在妖長者の印を持っているのは空汰様です。ですから、私の主は空汰様なのです」


「だって……俺は何も」


「空汰様、貴方様は無力なのではございません。ですから、ご自分を信じてください」


「何を信じろって!? 俺の何を信じればいいんだよ! 俺は、翡翠みたいに妖術は全然できないし、高いところが苦手で飛べもしない! 皆に迷惑をかけてばかりなんだよ!」


「それは違います」


「そうやってきれいごとばっかり……。もううんざりなんだよ!」


 そう言った瞬間、乾いた音とともに頬に鋭い痛みが走った。珀巳に頬を叩かれたのだと気づいたのは、珀巳の手が叩いた後のまま固まっていたからである。


 空汰は叩かれた頬を手でおさえ、珀巳を見据えた。珀巳は空汰に鋭い眼差しを向けていた。


「空汰様! 人間はそれぞれ違うものです。その違いがあるからこそ、人間は支え合い、助け合って生きているのです。それは翡翠様、空汰様も同じのはずです。空汰様は、ご自分のことを考えすぎなのです。そうでなければ、翡翠様に嫉妬をなさっています」


「……しっと?」


 空汰の声は涙声だった。無理もない。ただでさえ泣きそうな雰囲気だったところに、珀巳が追い打ちをかけたのだ。


「翡翠様に手柄をとられているから、フィリッツ様が翡翠様を頼るから。もっと自分を頼ってほしいという願いが、翡翠様によって遮られているのです」


「俺はただ、翡翠のために」


「残念ながら、今の私には空汰様はそのように見えません」


「え……」


「少し落ち着かれて下さい。良ろしければ気分転換に、フィリッツ様の図書室に行かれてはどうですか?」


「……あるの?」


 空汰の顔がパッと明るくなったのを見て珀巳は微笑んだ。


「ありますよ、行きますか?」


「行く!」


 先ほどまでとは打って変わって笑顔を浮かべる空汰に、珀巳は苦笑を浮かべていた。


――――困った人です……


          ❦


 栖愁は会議室の扉の前で待っていた。翡翠は奥の書庫に入ったきり、出てくる気配はない。


 翡翠は書庫をかなり荒らしていた。


 ここには面白いものがたくさんある。それをすべて読んでいってもいいが、そこまでの時間は無い。


 これだけ自由があれば、探したい放題だ。


 その時、ファイルを持っていた手が滑り床に落ちる。


「これ、片づけるのが面倒なやつだな」


 ため息を吐きファイルを拾い上げると、一枚の紙が落ちた。拾い上げ見ると、フッと微笑んだ。自分のプロフィールだった。


「翡翠裕也……二十歳。備考、仕事放棄をすることが多いが、公務に関しては何事も抜かりなく行う。態度は悪いが、妖長者としての器は歴代妖長者内でトップである」


 嬉しいことを書いてくれるじゃないか。だが、やはり本名は書いていない……か。


 長老の書庫を探せば、自分のことについて何か見つかるかもしれないと思っていた。こうして自分のプロフィールが出てくることから、その可能性が全くないというわけではないが、今まで見たファイルにはどれも自分の名前が詳しく記されたものはなかった。隠しているのかここにはおいていないのかは分からないが、もう少し出てきてもいいと思うのは俺だけだろうか。


 本名さえ、分かれば……。待てよ……。今、フィリッツは味方だ。ということはフィリッツに聞けば教えてくれるのか? ……そんな簡単なはずはない。教えてくれる気ならはじめから教えているはずだ。フィリッツは本名を知っていると脅してはくるが、その名を口にしたことはない。何故、教えない? フィリッツが知っていることは確実。だとしたら、俺に人間界に戻られたら困るからか? 空汰に全て任せて、俺が帰ることを恐れているのか? それとも違う意図がある?


 ファイルを開き、中を読む。特にこれといって目ぼしいことは書かれていない。


 そういえば……。


 ファイルを読み進めているいるうちにふとあることを思い出し、ファイルを急ぎ片づけ始めた。必要そうなファイルのみ隠し持ち、他は綺麗に棚に戻した。


 そしてロックを掛け、扉の前で待つ栖愁に声を掛けた。


「栖愁」


「お早いですね」


「俺は妖長者の部屋に行ってくる」


「え!? し、しかし」


「空汰に伝えておいてくれ」


 そういうなり去って行く翡翠に栖愁は戸惑っていた。


「ちょっと、翡翠様―!」


 しかし翡翠はそのまま姿を消してしまった。


          ❦


 フィリッツは瓶を懐になおしたまま、ケンジの部屋に来ていた。


 ノックもせずに入ると、ケンジは待っていたというように得意気な笑みを浮かべ、立っていた。


「ケンジ」


「よお、フィリッツ」


「大人しく捕まりますか?」


「そんなわけねぇだろ!?」


「では、決着をつけますか?」


「まず、聞いておく。お前は何がしたい」


「どういうことでしょう」


「とぼけるな。お前はアイツを放っておいていいのかと聞いているんだ」


「いいわけありません」


「でもお前は黒幕を知っていて野放しにしている」


「そうです」


「何か策があるのか!?」


「……正直……、皆さんが思うほどありません。ですが、ないわけではありません」


「へぇ、だったら俺らをこれからどうするかも考えているわけだ」


「長老の裏切り者は少々厄介者が多いので、牢に閉じ込めて放置です」


「放置かよ。絶対嫌だね」


「でしたら、勝負です」


「素で?」


「どちらでも構いません。私はケンジにだけは負けませんから」


「その自信、どこから来るのでしょうねぇ」

 

二人は強気の笑みを浮かべていた。

 

フィリッツは小さく息を吐き、ケンジに素で攻撃すると見せかけ殴り掛かる寸前で短刀を手の中に出現させると、それを首元すれすれに持っていった。


 瞬殺である。


「おまッ!」


「誰も素で行きますとは言っていません」


「どちらでも良いってッ!」


「それを鵜呑みにする方が負けるのですよ、ケンジ」


「ハッ、お前のそういうところが大嫌いなんだよ」


「私もケンジのこと、大嫌いですよ。素直なところ以外は」


 物語は、呆気ないこともある。


 フィリッツは瓶にケンジを入れ、左右に振った。


 ケンジとオーガイが中で下らない言い争いを始めたのを見て、懐になおした。


「本当に下らないですね……」


 フィリッツは深いため息を吐き、ケンジの部屋を出た。薄暗い廊下に、フィリッツの足音がカツカツと鳴り響く。


――――……さらに深まる奇怪譚……


 空汰はたくさんある本の中から一冊を手に取った。表紙をなぞり、ふと窓に視線を向けた。


――――曖昧模糊なこの世界を、胡乱揃いの屋敷内……、さらに深まる奇怪譚……。……これが先触れ、凶兆(きょうきざし)…………


 空汰の手にしている本には『翡翠 裕也』の名が記されていた。


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