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明日は明日の風が吹く

「はあ……」


 盛大にため息を洩らしながら書類を決裁している人物。彼の名は張紘。母流龍九商会を取り仕切る要人である。


「おやおや、どうにもお疲れのご様子、と。茶でも淹れてくるさ」


 くすり、と小さく笑いながら問いかけるのは赤楽。

 張紘の秘書兼護衛兼情人――本人曰く――である。


「ああ、頼む。ちょいと……ああ、疲れちまった」


 大きく伸びをする張紘。彼の面前には積まれた書類が鎮座している。それを毎日片づけるというのは最早偉業に近い。それを知るどこぞの武家の跡取りは菓子やら酒やら珍味やらを送りつけてくるのだが。

 もうちょっと違う形で貢献すればいいのにというのが赤楽の正直な感想だが、愚痴一つくらいで眼前の懸案に向かい合う張紘の顔を見たら何も言えないのである。

 惚れた弱み、という奴だ。そう思うと赤楽の頬も緩むというものである。


「ふふ、張紘がそこまで疲れるのは久しぶりだな」

「んー、そだなあ。実際二郎がさ。長期にいないからってさ。あちこちからちょっかいがひどくて、な」


 ……母流龍九商会の総帥は紀霊である。そして彼が不在の間は大局的な判断については張紘の役目となる。

 無論、重要案件については書簡にて相談もするが、一々確認していられないのが現状だ。

 いつの時代でも案件に対する判断と対応が早いにこしたことはないのである。

 無論張紘には全権が委任されているし、その決定に異を挟むものはいないだろう。だが、それだけに感じる重圧というものがあるのである。

 これまでの不在については一時的なものとしていたが、今回はひょっとしたら長期にわたるかもしれない。その展望から目を反らすことができるほど張紘は無責任ではない。

 だからこそ、肩が凝る。胃も痛む。

 赤楽の淹れた茶をすすりながらため息を一つ洩らす。


「はあ……」


 どちらかと言えば後ろ向きなその声音に赤楽は問う。

 どうしたんだ、と。


「いや、二郎っていつもへらへらしてるじゃねえか。でもさ。あいつもこんな重圧をいつも感じてるのかなって。

 だったらすごいなあ、ってさ。

 正直おいらにゃしんどいなあ」

「ふふ、張紘以外に勤まる人なんていないだろう」

「そんなことねえよ。魯粛でも虞翻でも、顧雍だっているさ」


 それにお前もな、とは言わない。


「それぞれ傑物ではあるな。だが魯粛は後先考えない節があるし虞翻は四角四面だ。顧雍は汚れ仕事ができないだろう。

 ああ、一応言っておくがな。私には致命的にやる気がない」

「できないとは言わないんだな」


 張紘の言葉に赤楽はにんまりと笑みを深める。

 そんな二人に声がかけられる。


「張紘殿、田豊様がおいでです」


 うげ、という声。その、漏らした声に楽進は首をかしげる。


「お召しを散々逃げ回ったからな、いよいよご本人ご出馬、ということだろうさ」

「ああ、二郎め、こんな時にいないんだもんなあ」

「いないからだろうよ」


 頭を抱える張紘を室から追い出して赤楽はくすくすと笑う。


「あの、どうされたんでしょうか」

「ああ、貴殿は別に悪くないぞ。田豊様も単に予算の消化に困ったからこっちに丸投げしにきただけだろうからな。

 やれやれ、さ。人使いが荒いのは、あのお気楽な殿御だけかと思っていたがな。どうやらお家芸らしい。

 ……さて、明日から忙しくなるな」

「は、はあ……」


 まったく理解が追い付いていないな、と赤楽は内心苦笑する。


「貴殿にも、相当働いてもらうことになると思うぞ?」

「は!承知しました!」


 しゃちほこばる楽進に茶を淹れるように指示し、未決済の案件に必要な経費を算出していく。


「まあ、金がなくて何もできないよりは金に埋もれて苦しむ方がましだろうさ」


 くすり、と笑みを漏らす。だが、仕事に追われて張紘が仕事に拘束されるのは本意ではないのだ。これで赤楽は意外と内助の人である。

 想い人がぐったりとした様子で帰還するまで、赤楽は無心に眼前の書類を片付けていくのだった。


◆◆◆


 白髪の老人――ただ者でないのが傍目にも分かる――が建物から出る。その気迫は裂帛にして軒昂。

 ……何かいいことでもあったのだろうか、非常に満足そうな顔をしている。それ見送る青年は逆に憔悴した様子である。

 老人を見送って建物に入ろうとした青年に声をかける。


「あの~すみません~、ちょっとお尋ねしたいのですが~」


 声をかけたのは蜂蜜色の髪を長く伸ばした少女。その双眸は眠たげに半分閉じられており、その真意を窺うことができない。

 のんびりとした声音は警戒心を解くような、それでいてさりげない――陽だまりのような――それはささくれだった張紘に染み渡る。


「ん?おいらになんか用か?」

「ええ~。紀霊、という方にお会いしたいのですが~」

「んー、誰かの紹介とかか?」

「いえ~、そういった類のものは全く持ち合わせてませんね~」


 ふむ、と軽く考え込み張紘がこちらを見やる。その値踏みするような視線に彼女は特に反応を示さない。ただ、その視線をぼんやりと受け止める。あくまで、眠たげに。

 そして彼女の名は……。


「ああ、いけませんね~。申し遅れました~。

程立と申します~」

「ふむ、程立さんか。おいらは張紘だ。んでお求めの紀霊はさ。申し訳ないが紹介はできないな。

 いや、ちょっと……出かけてるからなんだけどな」

「お待ちいたしますが~」


 即座の応答に張紘は戸惑う。中々に腹が据わっている。だが今日明日という話ではないから、その覚悟も無意味になってしまうのをどこか申訳なく思う。


「いや、ちょっとな……。これは内々にしてほしいんだが。あいつ洛陽まで行ってるんだ。だから今日明日に帰ってくることはない」


 張紘が放つ渾身の御断り文句であった。


「あらら~これはご縁がないのかもしれませんね~」

「まあ、残念だけどそういうことだ」

「では、こちらで何かお仕事を頂きたいのです~。 

 少々路銀が乏しくてですね~」


 相変わらずに眠たげな表情。その表情を変えずに程立が言う。

 ふむ、そういうことなら。と張紘が考え込む。


「程立と言ったか。読み書きは?」

「農徳新書をそらんじるくらいには不自由ありませんね~。

 算術も少々修めております~」


 その言葉に張紘は目を丸くする。渡りに船とはこういうことだろうか。


「よし分かった。母流龍九商会で雇おう。仕事内容は……一緒に考えるか」

「了解です~」


 まあいいか、と程立はあっさりと妥協する。

 どっちみち路銀は必要であるし、この張紘という青年は紀霊に近しそうだ。あの白髪の老人は只ならぬ雰囲気を漂わせていた。彼を見送る張紘はきっとこの商会でも上の人物だ。であれば総帥たる紀霊との人脈としては申し分ないだろう。

 まあ、そんな自分の思惑くらいは読まれているだろうがそれも問題ない。


「くふふ、楽しくなってきました~」


 そんな余裕の彼女が阿鼻叫喚の予算編成に巻き込まれるまでは一刻の猶予が残されていた。

 それでも、彼女は自分のペースを崩すことはなかったのだが。


 程立。

 太極を修め、大局を図る彼女が中華の歴史に介入するには幾許かの時と、少しの運と偶然が介する出会いが必要となる。

 そしてそれは歴史という名の大河。そしてその流れを奔流とするのと時を同じくすることになるのである。


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