ヒト、モノ、カネ
「クハハ……」
室に響く笑い声。華雄は意識を浮上させる。
声の主は何進。
この男が声をあげて愉快そうに笑うのは珍しい。寝台から身を起こし、問う。
「どうかされたか」
その声に振り返ることもなく手元の書簡を読み返す何進。
無視された形になるがいつものことである。のだが。
「ああ、そうだ。李儒を迎えに行って来い」
「今から、か?」
まだ日も昇らない未明である。払暁までも一刻はゆうにあるだろう。
「今から、だ」
「用件は、どう?」
手早く身支度をする華雄が問う。何進は薄く笑い。
「眠いなら、寝てればいい、と伝えろ」
ふむ、と頷き華雄は室を出る。無駄なことはしない何進のことだ。よほどの用件なのだろうと納得する。
そして。
「ク、クハハ!そうか、そう来るか!
流石にその手は読めねえよ!」
独りとなった室。
何進は声を上げて笑う。手元の書簡は袁家……紀霊からのものである。そこには、売りに出されている地位を全て袁家が買い取る旨が記されてあった。
そしてその根回しを頼む、とも。
「ああ、してやろうさ。根回しというやつを、……な。
俺なりに、だがね……」
愉悦に身を委ねて再び哄笑する。これが通れば朝廷内の勢力図は一変するのは間違いない。
それにしても。
「恐るべきは袁家の資金力、か」
愉悦を味わいながらも手を組んだ相手の強大さを再認識する。ただ名家というだけではないのだ。資金を潤沢に持っている。そのことの重大さを真に理解しているのは自分くらいであろう。欲と俗にまみれたそれ。それこそが金の本質。
そして資金とは使ってこそ、なのだ。その使いどころ、会心の一手である。
「まったく、こうでなくては面白くない……」
李儒が室を訪れるまでの間、何進は私案とされた袁家の推挙する人材の配置に目を通すのだった。
そしてその顔に浮かぶ笑みは深まる一方であった。
◆◆◆
「で、何用かしら」
未明……いや、深夜といっていい時間帯に呼び出された李儒は控え目に言って不機嫌であった。
無理もないことである。たたき起こされて、「眠いなら、寝てればいい」である。だが、声の主が何進である。
彼がそのような伝言を寄越すということはそれだけのことなのだろう。果たして李儒は何進の思うままにここにいるのだ。だから目線で問う。
一体何事なのか、と。
「フン」
鼻を一つ鳴らして何進が書簡を放り投げる。
それを受け取り――若干慌てて――目を通す李儒の表情が固まり、顔色は青ざめて。
「これは……!」
狼狽。
その様子に何進は呵々大笑する。
「クハ、ハ!
どうだ、怖かろうよ。だがな、それはお前の目算の甘さよ。
お前が敵に回した袁家。それくらいのことを仕掛けてくるぞ。
さあ、どうするね。
お前の思惑など吹っ飛んでしまうかもなあ!」
嘲笑を浴びた李儒の秀麗な顔は歪み、ぎり、と濁音が漏れる。
歪んだ笑みで問うその精神力に何進は内心で李儒の評価を一段高める。
「これは、貰っても?」
いっそ冷酷と言っていいくらいの口調で何進は応える。
「駄目に決まってるだろう。
目は通したな?
ならば貴様の飼い主に注進するのだな。
急げよ?今日の朝議で俺はこれを通すからな」
その声に李儒は忌々し気に舌打ちを洩らし。呻く。
「くっ!」
室を去る李儒に対し、最後まで何進はニヤニヤと下品な笑みを浮かべたままだった。
――そして。売官という制度はその日のうちに廃止されることになったのである。
◆◆◆
華奢な体躯、抱えた書類の多さ。それを気にした風もなく少女は走る。走る。走る。
身に纏うのは猫を模したフード。ずり落ちるそれを気にもせずに少女は走る。
――大した速度ではないのだが、表情を見るに全速力なのだろう。
「か、華琳様!」
愛する主君の名を呼ぶ。
ぜぇぜぇと荒く息をつく。いつもの、整った声ではない。そこに曹操は口元に笑みを浮かべるのだ。
「あら、桂花。
貴女がそんなに慌てるのは珍しいわね。どうしたのかしら」
「は、い。しつ、れいしました。
こ、れを!」
必死で言葉を紡ぐと手に持った書簡を差し出す。曹操はそれを受け取り、目を通す。
見る見るうちに険しくなる表情に、傍らに控えていた夏候惇が声をかける。
「ど、どうされました、華琳様!
凶報ですか!」
――しばしの沈黙の後、口を開く。
「いえ、どちらかと言えば吉報でしょうね。
売官が廃止されることになったみたいよ」
「売官……ですか?」
きょとんとした夏候惇に夏侯淵が苦笑する。
「姉者。要は、だ。地位を得るのに、功績ではなく金銭をもって購うという制度のことだ」
妹たる夏侯淵の言葉に夏侯淵は眉を顰める。
「なんだそれは!けしからん!
ん?それが無くなるというのはいいことではないのか?」
いっそ晴れ晴れとしたその声に荀彧は吐き捨てる。
「だから華琳様が吉報って言ったじゃない、アンタ脳みそ腐ってんの?」
「なにおう!華琳様の麗しいお顔が憂いに満ちているからだ!」
いつものようにいがみ合う二人に曹操が声をかける。
「はい、そこまでよ二人とも。
そうね、総論としては歓迎すべきことね。
売官だなんて論外な制度が無くなるのは大変喜ばしいわ」
曹操の言葉に含まれている、ごく薄い苦いもの。その正体は。
「は、では華琳様のお顔がすぐれないのは……」
「袁家がね、売りに出されている地位をすべて買うと内々に打診があったそうよ」
その非常識さ。だがその有効さに荀彧は言葉を喪う。去来するのは無念。
場を導くその、とんでもない案。それを自らが立案できなかったこと。立案しても所属する曹家では不可能なこと。そして、それが主君の飛躍を封殺する可能性があること。
「な!」
「それでは……朝廷の勢力図が大きく変わりますね」
嘆息する夏侯淵。その言の軽さに荀彧は怒りの純度を高める。それどころではないのだ。
「そうね、だから十常侍は慌てて売官を廃止したのよ
当然の判断ね」
「しかし、地位をすべて買い占めるとなれば袁家による朝廷への専横と見る輩も出たのでは?」
たまらず荀彧は言葉を挟む。常ならば彼女は拝聴するだけなのだ。それでも、黙ってはいられないのだ。
「馬鹿ねアンタ。そんなのどうとでもなるわよ。
もともと売官ってね、歳入の不足を補うためのものよ。
漢朝のために財を投げ打って貢献するとでも言えばいいわよ。
代々三公を排出した袁家への期待はただでさえ大きいのよ?
士大夫層はね、宦官も嫌いだけど肉屋上がりの何進。それはもっと嫌いだもの。
いくらでも名分は立つし、周囲もそれを認めるわよ」
「むう、そんなものか」
「そうよ。でも三公だけならともかく、全部買占めとかいう発想は尋常じゃないとは思うけども」
頭を振る荀彧に曹操が声をかける。
「多分麗羽でしょうね。
あの子のことだから、商家の品物を店ごと買い上げるような感覚のはずよ」
その言葉に荀彧の顔が引きつる。
漢朝の要職と衣服や菓子とを同列視するなどありえないことだ。
その、腹心たる荀彧の表情を見ながら曹操は笑みを深める。
「でもね、本当に袁家が恐ろしいのはその発想をする麗羽でも、資金力でもないのよ」
「と、言われますと?」
「人、よ」
瞑目しながら曹操は呟く。
「袁家の財を成したのも人、声望を高めている治世を行っているのも人。
そして一番恐ろしいのはね。
官位を買い上げるのはいいとしましょう。そこはね。
そう。真に恐ろしいのは、ね。その膨大な地位にあてがうことのできる人の当てがあるということ。
更にはそれだけの人を朝廷に送り込んでも尚、袁家を回すことができるだけの人がいるということよ」
その場の部下たちは。あ、という表情をする。
「た、たとえどれだけ層が厚くても我ら、けして袁家に負けるものではありません!」
「ありがとうね、春蘭。もちろん貴女達の能力に疑問はないわ。
でもね、数というのはそれだけで力を持つものよ」
「匹夫がどれだけ集おうと、打ち砕いてみせます!」
「そうね、貴女はそれでいいわ」
そう、一朝一夕に人材など育つことはないのだ。
それでも、太守になることを考えると人材の質と量はどれだけあっても困らないだろう。
育てるのが間に合わないならば、だ。
「奪う、のもいいかもしれないわね……」
酷薄な笑みを浮かべる曹操をうっとりと見つめる部下たち。
雌伏を終え、陳留の太守として飛躍する直前の日のことであった。
◆◆◆
「め、い、りーん。
何を難しい顔してるのー?
皺、消えなくなるわよー?」
暢気な声で孫策が軍師兼部下兼情人の周瑜に声をかける。
「雪蓮か。いやなに、穏からの書状を読んでいたのだがね。
なんとも興味深いことが起こっているようだ」
くすり、と玲瓏たる笑みを漏らす周瑜に孫策は口を尖らせる。
「なによー、もったいぶらず教えてよー」
その稚気。そこに可愛いなと思う自分は手遅れなのだろうと思いながら周瑜は応えるのだ。
「自分で読み解こうという気はないのかな?
雪蓮は孫家の当主なのだからな」
きっぱりと切り捨てるその声に孫策は笑みを深める。甘えるのだ。
「んー、冥琳に聞いた方が早いしー」
抱きつき、押し倒し、甘えるのだ。
そして応える周瑜。
それでも、辛うじて対話の恰好を整える。整えた。整っていたと思う。
……全裸に近いのだが、それはいいとしよう。
「はあ、仕方ないな。
結論から言えば、漢朝から売官という制度が消えることになったようだ」
「へー、そうなんだ。
なんで?」
くちゅり。
「袁家が官位を買占めようとしたら慌てて取り下げたらしい」
「なにそれー。
ばっかじゃないの?
店に並べといて、いざお買い上げの時にやっぱやめって?
信じらんなーい!」
けらけらと笑う孫策につられ、苦笑する周瑜。そして水音は深く。
「まー、うちには関係ないしねー。
どうでもいいんじゃない?」
「ん。……ん。
そ。……それがそうでもない」
「へ?なんでー?」
水音は深まり。高まる。
「朝廷に出仕する人材の中に私や穏。蓮華様、果ては亞莎の名もあったらしい」
「何よそれー!
どういうことよー!
もう!」
ぶーぶー言う孫策に周瑜が苦笑しながら答える。
熱を逃しながら。
「おそらく穏が推挙したんだろうな。
無位無官の我らから朝廷に出仕した経験者が出るのは名誉なことだ。
もし推挙されたら断る理由はないな」
「そうかもしれないけどー」
「まあ、実現はしなかったからよしとしようじゃないか」
「なーんか釈然としないなあ」
「そう言うな。どっちに転んでも我らに損はなかったさ」
苦笑しながらどうどう、と宥める。心を。身体を。魂を。
「でもでもねー、結局使わなかったお金、どうすんのかな」
「穏曰く、軍備に回すそうだ」
その言に。むむ、と唸る孫策である。そこに周瑜はむしろ頬を緩める。
だから、孫策が漏らす冗談に乗るのだ。
「あー、やっぱりねー。いいなー、分けてくんないかなー」
「何を馬鹿なことを……」
「でもさー、ちょーっと最近手薄なのよねー。
賊もそうだけど豪族だって仕掛けてくるしさー」
「まあ、確かに。
思春や亞莎には申し訳ないくらいだな」
「そうなのよねー。
寡兵を承知で送り出すのはもう、やりたくないのよねー」
むう、と唸る周瑜。
袁家からの援助で物資では一息付けているのだが、圧倒的に人の絶対数が足りないのが孫家の現状であった。
「結局さー、力で奪ったもん勝ちなのよねー。
今袁家に喧嘩売られたら漢朝でもやばいんじゃないの?」
「めったなことを言うな!
……だがまあ、一理あるのも確かだ」
「でしょー?
結局さ、力を持ってるのが一番強いのよねー。
袁家ってさ、お金が余ってるー!とか、匈奴がー!とか言いながらちゃっかり軍備を増強してるのよねー」
ふむ、と頷く周瑜。
「穏がようやくお手付きになったんでしょ?
蓮華にも頑張ってほしいとこよねー」
「雪蓮、何を言ってるんだ?」
周瑜は少し鋭い口調で孫策を諫める。とはいえ、この程度で収まる孫策ではないと知ってはいるのだが。
「あれー、冥琳もそのつもりで送り込んだんじゃないのー?」
「いや、確かに穏には紀霊を籠絡しろとは言ったがな、それはあくまで……」
にひひ、と笑む孫策は小悪魔めいていて、周瑜は黙り込むのだ。いつものように。
「単に籠絡するだけじゃもったいないわよー。
子供ができたら色々引っ張ってこれるわよ絶対」
待て、と言いたいのだが。それが言えないのだ。
「そ、それはそうかもしれないが……」
「血は水よりも濃しってね!
うん、孫家に紀霊の血を入れちゃおう!
袁家の上層部で狙えそうな男子って紀霊くらいだしさ!」
妥当ではある。だが、不穏当でもある。それでも孫策の覇気に周瑜は頷くのだ。
「ま、まあそうだな」
「いっそ私たちが孕んでもいいかもねえ。どうせ大した男いないしさ!
一度子種貰いに南皮に行こうよ!
お礼かたがた、ってことでさ!」
盛り上がる孫策の言葉を検討する周瑜。そうだな、それは悪くない。と。
「ふむ、悪くないな。
袁家とのつながりを強固にするという意味では最上かもしれない」
「でしょでしょー?
書類仕事にも飽きたし、南皮に行こうよー」
「やれやれ、それが本音か。
まあ、雪蓮にしては頑張ったと方かもしれないしな。
検討しよう」
「やったー!
冥琳大好きー!愛してるー!」
「こら、まだ昼間だというのに!」
抱きつく孫策を引きはがしながら周瑜は思う。
袁家とのつながりが、援助が紀霊の胸先三寸ならば、確かにそれは最上だろうと。
孫家の、江南を託された身。なのである。
ふと、背中を追うしかできなかったかつての主君を思い出し、こみあげるものを押し殺す周瑜であった。
「めいりん、かーわいい」
感傷を読み取ったのか、治まったはずの水音は深く、熱く。
嬌声を彩るのであった。