碧眼児
「穏と二人でゆっくりとするのも久しぶりな気がするわね」
しみじみと思う。孫権の腹心たる陸遜と私的に語り合う機会も最近はなかったのだ。
場の気安さに軽く伸びをして一日の疲れをほぐす。
最近は、孫権も。陸遜ほどではないけれども書庫に出入りしているのだ。
もちろん袁家の施策をそのまま持ち込むことはできない。それでも、一つ一つの施策から袁家の方針や思惑を読み取るのは楽しかったりする。
……多くは陸遜に解説してもらっているのだけれども。
陸遜曰く、推測にすぎない、とのことだが。今の自分に陸遜以上に深く推察することなどできないだろう。
「そうですね~。
と、蓮華様~あちらをご覧ください~」
軽く杯を傾ける陸遜。
その指す方向を見ると……。
「祭!それに紀霊……」
愕然とする。
紀霊にしなだれかかる黄蓋。どさくさに紛れその身体をべたべたと触る紀霊。
正直見ていて気持ちのいいものではない。
いくら袁家の重鎮だといっても、彼女があそこまでする必要なんてないはずだ。だらしなく鼻の下を伸ばす紀霊になんだかむかむかする。
見方を改めようと、できるだけ好意的に解釈するようにしているのだけれども流石にこれは無理だ。これはない。
「お静かに~」
声を上げようとしたのを陸遜が制止する。
アレをみて何とも思わないのだろうか。
その、陸遜がなぜかあの男に懸想しているのはなんとなしに知っている。
だからこそ、彼女が平然と、だ。あの痴態を見ているのに納得がいかない。
「穏、これはいったいどういうこと?」
孫権の問いに答えることなく席を立つ。
「ちょっと、行ってきますね~」
その歩みはとても自然で、隙がなくて。
孫権は声をかけることができなかった。
◆◆◆
呆然としていた自分に気付く。陸遜があの男の横に座るのを見守ることしかできなかった。
いったいなにがどうなってるんだろう。
「権殿?」
「あ……」
黄蓋が近づいてきたのにも気づかなかった。
そうだ、彼女にも聞かなければ!
「落ち着きなされ」
静かに、しかし圧倒的な気迫でもって自分を黙らせる。
その気迫は周囲にはまき散らされることなく、自分にだけ向けられることを理解する。
「うん、取り乱してごめんなさいね」
にこり、と笑うとさっきまで陸遜がいた席に腰掛ける。
「ここからは女のいくさよ。
その姿、きっちりと見届けてやってくだされ」
孫権はその言葉の重みに気づかないほど馬鹿ではない。
だから、交わす言葉を聞き逃してはならない、と。
◆◆◆
「な、なんだか思ったより露骨に迫るのね」
陸遜の物言いは正直、あからさまというか、露骨だった。あんな風に言われてなびく男っているのかしら、と孫権は戸惑う。
「ふむ、そうじゃのう。正面突破でぶつかってみよ、とは言ったのじゃが……」
陸遜の物言いに黄蓋も苦笑している。
ということはあの物言いは仕込みではないのだろう、と孫権は推察する。
そんな抱け、抱かないのやり取りがいつの間にか一変していた。
「犬は餌で飼える。
人は金で飼える。
虎を飼う事は何人にも出来んだろうさ」
そんな言葉に背筋が寒くなる。
あの男は、そんな目で孫家を見ていたのか、と。
「知ってますか~?
二郎さんが江南に救いの手をのべた理由。
大徳をもってそれを為した。
或いは祭様の色香に迷った。
どちらか、らしいですよ?」
知らなかった。
いや、知ろうともしていなかったのだろう。それは気づかないと、思いを馳せないといけないところだった。
私はいったい何を見ていたんだろう。
何を見なかったんだろう、と。
そして、気づく。
孫家の、江南の命運がいかにあの男の手に握られているかを。
黄蓋が、陸遜がどれだけの覚悟であの男に媚びていたのかを。
自分の軽率な行いが、態度がどれだけ孫家の存亡を危うくしていたかを。
「今の袁家が本気になったら孫家なんて鎧袖一触にもなりません~。
そして、たぶん二郎さんは私の想定することなど軽く超えて孫家を殲滅されるでしょうね~。
正直、そうなると打つ手がないのですよね~」
目の前が真っ暗になる。陸遜が、彼女がそこまで言うのだ。
戦場では周瑜すら凌ぐこともある彼女が、だ。
「ですから、私に手を出していただきたいのです~」
「んで、結局俺は助平心で魯粛や虞翻や顧雍を死地に派遣する阿呆だと思われるわけか」
あの軽率な振る舞いも擬態だったのだろうか。それすら分からないことを認識する。
「祭、至らない主でごめんなさいね」
「ふむ、そこまで卑下することはないと思いますぞ?
わしとて穏ほど危機感は持っておらんかった。
なるほど、冥琳が惚れこむわけじゃ」
身を挺して孫家に尽くしてくれる彼女に、彼女らに報いるにはどうしたらいいだろう。
遠い背中に追いつくにはどうしたらいいのだろう。
ううん、まずは。
覚悟を決めよう。
私は孫家を背負うのだ。
彼女の双眸の碧眼。そこに迷いも惑いもなく。静謐なるまま。だが、その変化に黄蓋は目を細めるのであった。
◆◆◆
「あ、あの、それ、どうされたのですか?」
「あら、似合わないかしら」
「いえ、そんなことはないですけれども……」
楽進は言葉を失う。
驚愕、だった。
孫権の見事な髪。腰まで垂らされたそれは。自分のそれ――枝毛だらけで潤いもない――とは違うのだ。
正直羨ましく思ったことも一度や二度ではない。それを……。
「正直驚きました。
見事な御髪でしたのに」
そう、腰まで届いていた髪は今や肩口まで。
「ふふ、ありがとう。
ちょっとした心境の変化よ」
「はあ……」
これ以上立ち入ってはいけないだろうな、と楽進は沈黙を選ぶ。だが、よく見ると髪だけではない。
その身に溢れる覇気が段違いであった。
――人は何かをきっかけに「化ける」ことがあるという。紀霊からの聞きかじりであるが。
「やほー。おはよー。
あれ、孫権髪切った?失恋?」
声の主は紀霊。僅かに着崩した衣装がこの上なく凛々しい、と楽進は思う。――いろいろと手遅れである。
「あら、貴方が気づくなんて意外ね」
「いや、そりゃ俺の目は節穴だよ?でも流石にそこまで髪形変わったら気づくって」
楽進は内心安堵の息を洩らす。
これまでの二人の関係はお世辞にもいいものではなかったから。まあ、孫権が一方的に紀霊を嫌っていたのであるが。
楽進的には板挟みのような心境であったのだ。だから、二人が仲良さげに談笑するのは大歓迎である。
――大歓迎なのである。
護衛として、数歩距離を置きながら楽進は雑念を振り払うのであった。




