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凡人と孫家二の姫 その二

「ねえ、これは本当にあの男のやったことなの?」


 孫権は目を通した資料を手にそう問いかける。


「ええ、間違いないと思いますよぉ?」


 孫権がこの地で信じられるたった二人の臣。その片割れたる陸遜がそう言うのだ。

 だが、これがとてもあの軽薄な男の成し遂げた足跡とは思えない。


「こんなの、こんなの信じられるもんですか!」


 孫権の癇癪――よくあることである――に陸遜は無言かつ笑顔。慣れたものである。

 孫家の血筋は炎。その中で孫権のそれは、その母と姉に比べたら極めて理性的と言える程度のものなのだから。


「……ごめんなさいね。資料をまとめてくれた穏に言う台詞じゃなかったわね」


 軽く頭を振り、謝罪の言葉を口にする孫権。その在り様が孫家にとってどれだけ重要であることか。次代は孫権に、とおおやけに当代当主たる孫策自身が口にするのは故あることなのである。


「いいえぇ、手間はいいのです。それにぃ、かけた手間は活きると思いますしぃ」


 にこり、と責めない陸遜に孫権は内心恥じ入るのみである。その、自らを省みるという貴重な性格がこの上なく評価されているのだが、本人がそれに気付く日が来るのであろうか。それは陸遜にも分からぬことである。

 ……孫権にとって、連日の歌舞楽曲に辟易しての暇つぶしが半分だったのだ。接待を受けることそれ自体が自分の役目だと知ってはいたのだが、それにも限界がある。

 接待を受けるにつれ知る袁家の繁栄。それの根幹を知りたいというのは孫権にとって極々自然なことだった。

 そして陸遜に集めてもらった資料、特に紀霊の人物を理解するためのそれは端的に言ってすごいものであった。――ある意味偏った資料でもあったのだが。


 農政から民政、商会の立ち上げからの街道整備に始まる公共投資に軍制改革、南皮の要塞化計画等……。軍制改革については陸遜も手を貸した、らしいのだが。


「ねえ、穏。これほんとに一人の、紀霊という人物が手掛けたのかしら」


 思わず問うてしまう。その問いに陸遜は我が意を得たり、と笑みを深くする。


「そうですねえ。じ……紀霊様にお聞きしたんですけどぉ、その事業の立ち上げについては間違いないみたいですよ?

 手元を離れた事業が多いとはおっしゃってましたけどぉ」


 むしろ、である。多岐に渡る提言、そして着眼点は驚くべきことだ。袁家の隆盛の一因は紀霊にある。渋々ながらも――それを認めないわけにはいかないだろう。

 それは、孫権にとって……とてもとても不愉快なことだったのだけれども。


「ねえ、穏。

 私が紀霊ほどの見識を持っていれば、孫家ももう少し……。

 いいえ、そうね。もっと豊かだったのかしら」


 視線を下に落として、いささか自嘲気味に呟く孫権の言を陸遜はにこやかに否定する。


「それはありません。

 紀霊さんの施策は持てる者がその財力を背景に実施したものですから。

 孫家の財力ではとてもとても」


 残酷だけれども、正確な言葉。こんなことを言ってくれる臣がいるというのはきっと得難いものだろう。そう、こんなにも自分は恵まれているのだと孫権は自分を鼓舞する。


「そうね、ありがとう。

 穏が南皮までついて来てくれてよかったわ」

「うーん、ありがたいお言葉ですねぇ。

 ついでにご提言してもよろしいですかぁ?」

「なあに?ほかならぬ穏の提案ですもの。私に否やはないわ」


 これは孫権の心からの言である。


「南皮は洛陽に匹敵するほど発展しているということを知られました。

 ならば、ここ南皮を視察するべきかと。

 私もいろいろと……色々と見分を深めたいですしぃ」


 にこやかな陸遜の言は至極妥当なものである。


「うん、そうね。ずっと建物内にいても気づまりするもの。

 それに、袁家の施政の成果を見るのは江南にとっても益があるはずだわ」


 その言に陸遜はにこにこと賛同する。そして孫権は思うのだ。頑張ろう、と。孫家次代の主、と言われているが、まだまだ自分は未熟この上ない。

 だから、頑張らなければ、と。


◆◆◆


「どうして貴方がいるのよ……」


 思わず漏れたその言葉に対面した紀霊は渋面を見せる。


「んだよ文句あんのかよ。

 たまたま俺も今日は町の視察が公務だからだっての。だったら俺が引率したら護衛も兼ねれて一石二鳥じゃん?」


 その率直な言に孫権は失言を悔いる。


「いえ、文句というわけではないのよ。でも引率はともかく護衛なんて必要ないし……」


 ……本当は魯粛か楽進にお願いしたかったのだ。でもそんなことが言えようはずもない。


「まあまあ、民政に精通していて、識見があって都合が付く方というとなかなかいらっしゃいませんしぃ……」

「んだよそれ、俺が暇人みたいじゃねえかよ」

「あらやですぅ、そんなつもりはないんですよぉ?」


 わざとらしく紀霊にしなだれかかる陸遜。あれは自分の失言が招いたもの。ではあるのだが、やにさがる紀霊の表情にいらっとしてしまう。


「いやいや、いいってことよ。いやあ、頼りにされてるってことだしな!照れるぜ」


 本当に……なんでこんな男に陸遜は懸想しているのだろうと孫権は思うのだ。

 だから、見てられないとばかりに会話を打ち切る。


「そろそろ行きましょうか。

 穏、手配ありがとうね」

「はい。

 いってらっしゃいませぇ」


 にこりとした陸遜の視線が、何でか生暖かった。

 まあ、孫権としては楽進についてきてほしかったのだろうが、実際についてきたら苛々しただろうなあという陸遜の推察。その是非については闇の中である。


◆◆◆


 さて、美少女と街中をデートだぜ!という自己暗示が解けつつある。明らかに俺、嫌われてるよね?空気がギスギスしてて、楽しくないぞ!どうせ市中の視察という散歩するなら美少女と行った方がいい!あわよくば仲良くなれれば、とか思ってたんだけど……。

 俺、結構気を使っているんだけどなあ……。ああ、穏と二人ならこう、なんだ。キャッキャウフフとじゃれ合いながらあわよくばあの豊穣の象徴たる胸部に挑みかかかることもできたろうに……。

 などと思ってたらひとまずの目的地に着いたようである。


「あ、若。久しぶりっすねー」


 そう、元紀家軍の奴がやってる商店に来たわけである。


「おうよ、商売は順調か?借金増えてないか?」

「おや、若が俺らの心配するとか……。

 いやあ、急に雨が降ると思ってたら納得ですな!」

「うっせえよ、も少し俺をねぎらえよ、敬えよ」

「はいはい、ああ、なるほど。こりゃ失礼しやした。

 どこの令嬢をだまくらかして連れ出したか知りませんがね。ええ恰好したいなら事前に言ってもらわないと」

「あのなあ、そんなんじゃねえっつの」

「またまたぁ。いつか背中から刺されますぜ?」


 ええい、減らず口が……って昔からこんなんだったわ。


「もういいって。で、最近どうよ?」

「ええ、静かなもんすよ。おかげさまで女房子供ともども食うには困ってませんや」

「そか、いつもすまんな」


 差し出された書付を懐にしまって歩き出す。ついでに貰った魚の干物。軽く炙ったそれを齧りながら軽く目を通す。


「ねえ、さっきのお店で何を受け取ったの」

「このいやしんぼめ。目ざといな。ほら、食えよ」


 気を利かせてか孫権の分もくれたのだろう。少し小ぶりな干物を口に突っ込んでやる。


「はぐ……あら美味しい。もぐ。

 じゃなくて!なんか貰ってたでしょう」


 むむむ。誤魔化されはしないか。流石に。流石は孫権。さすそん!いや、この場合はさすけん、だろうか


「目ざといねえ。いや、単なる仕入れの相場の書付だぞ」


 それに付随して市況とか色々メモってあるそれは現場の情報。とても大切なものである。


「どうしてそんなものをわざわざ貴方が貰うのかしら。一介の商売人から」

「んー。別にこれが情報源の全てってわけじゃねえよ。

 ただまあ、自分の足で情報を集めるのも必要かな、と」

「相当お暇なようでうらやましいことね。

 そんなの、部下に頼めばいいことでしょう」

「そりゃそうだ。が、部下にまかせっきりというわけにもいかんわな」


 なんか突っかかってくるなあこの子。


「あら、貴方の配下は信頼できないということかしら?」


 んー。まあ、割とそうでもある。俺だって市況報告とか、結構適当に当たり障りないこと書いてたからなあ。とも言えず


「あのなあ、水ですら留まると腐るんだぜ?いわんや生身の人間をや、ということだな。 

 上善は水の如し、というがね。腐った水をありがたがるわけにゃあいかんわな」


 管理職が現場を知ってるという事実。それは現場の怠惰さを割と駆逐するのである。いやマジで。

 そして今度はだんまりな孫権である。それでも絵になるくらいの美少女っぷりが見事なのである。

 しかしこれが俺の部下ならお尻ぺんぺんものな態度である。お尻ぺんぺんか……そういうのもあるのか!

あるのか!


◆◆◆


 さて、飯だ。飯なのである。日に三回しかない、人間の根源欲求を満たす一大イベントである。

 イライラしてても美味しいもの食べてうんこしたらなおるよ!なおるよ!

 大事なのは切り替え、切り替え!これはデート!いやさ接待!感じ悪いお得意様への接待!よし!覚悟完了!


「どこへ向かってるの?」


 おんや、声から刺々しさがなくなったぞ。

 そっかー、イライラしてたのはきっとお腹が減ってたからなんだな。


「んー、馴染みの店ー」

「へえ……」


 少し怪訝そうにしながらもおとなしく付いてくる孫権。まあ、どうせ高級料理店とかを想像してるんだろなあ。


 ところがどっこい、である。


「へい、らっしゃい!あ、若!お久しぶりっす!」

「おう、元気そうで何よりだ。

 ん、繁盛してそうじゃんか」

「若のおかげっすよ。

 隊のみんなも結構来てくれてますしね」


 そう、これまた元紀家軍の兵卒である。戦闘で足を負傷し、切り落とさざるを得なかった。

 退役後にこの店を開いたのだ。出すのは戦場料理に毛が生えたようなものだが、良心的な価格でそこそこ……結構繁盛している。

 うん、その日を暮らしていくに困らないくらいの儲けしか考えない。その方が結果繁盛するという池波理論である。まさかマジで繁盛するとはなあ。詳しくは剣客商売を参照すること。

 潰れそうになったらメニュー開発とか色々テコ入れする準備もしてたのに、正直拍子抜けである。


「あ、若ー、ちーっす!」

「おうよ、お疲れちゃーん」


 現役紀家軍の奴らである。

 まあ、安くて量があるこの店は兵隊さんにうってつけ。荒っぽくても治安を担う奴らが集うおかげでここら辺は相当平和だったりするのである。なお。


「なんすかー、若ー、そんな美人さん連れちゃってー。

 どういうことっすかー」

「ねーねー、俺らと一緒に飲まないー?」


 こいつらはまあ。こんなもんである。このノリが紀家軍の伝統である。うむ。


「お前らもう出来上がってんのかよ…。

 あー、この子はあれだ。

 江南の孫家。そこのお姫さんだ。

 お前らが気軽に口をきける方じゃねーぞ」


 釘を刺したと思ったのだが。


「えー、お姫さんなの?すげー!お姫ちん!」

「姫さん、まあ、座りなよー。ほら、お酒どうぞー」

「ってお前ら人の話を聞けよ!むしろ聞いた上でそれかよ!」


 いやまあ、薄々こうなるかなーとは思ってたけんども。何せ紀家軍はアットホームでフレンドリーな職場だからな!


◆◆◆


 さぞかし名店なのだろう。わざわざ外で食べるというのだから。と、孫権は思っていたのだ。だが予想に反し、紀霊が歩く道はいつまでたっても猥雑で、けして高級さなんてなくて。それでも、活気にあふれていた。


 そして入ったのは、どこにでもありそうな、ありふれた店だった。店主らしい男性と紀霊が言葉を交わす。馴染みの店というのは本当らしい。


「姫さん、まあ、座りなよー。ほら、お酒どうぞー」


 物思いに耽っていた私にそんな声がかけられてちょっとびっくりしてしまう。

 後は、怒涛。


「ほら、姫さん、この串焼きが旨いっすよ!」

「おめえ、そんなのよりこの煮込みの方がお口に合うに決まってんだろ!」

「ほら、ここの蜂蜜酒はなかなか他の店では飲めないっすよ」

「いやいや、肉に合わせるならこっちの干した果物が!」


 囲まれて本当に怒涛。孫権は流石に少し戸惑ってしまう。

 それでも、薦められたお料理を食べたり、お酒を飲んだりするたびに皆が喜んでくれるのがうれしくて。

 ちら、と紀霊を窺うと、あっちはあっちで楽しそうなのだが……。


「そっかー、借金返し終わったかー。めでたい!

 よーし、今日は全部俺のおごり!飲め!食え!歌え!」

「若のお大尽が出たぞー!飲めー!食えー!若が歌ってる間に飲んで食えー」


 うん、とんでもなく馬鹿騒ぎだ。清貧という美徳とは無縁のその光景に孫権は苦笑する。それでも、部下を鼓舞するという意味では見習うべきものだろうと思っていたのだが。


「飲んでるー?」


 てっきり自分なぞほったらかしで騒ぐものかと思っていたのだが。横に座りあれやこれやと話題を提供してくるのが意外である。


「ええ、楽しませてもらってるわ」

「そりゃよかった」

「でも、意外だったわ」


 その言葉に、特に緊張もしないこの男はきっと本当に、心底この場を楽しんでいるのだろう。


「なにが?」

「貴方が私のことを、姫だなんて紹介したじゃない」


 その、孫権としては結構色々な思いを乗せた言葉。その思いに紀霊は気づかない。


「実際そうだし」

「それで気後れするどころか、どんどん絡んでくるのね。

 孫家だったら皆遠巻きに見てるだけよ」


 ふーんとばかりに興味なさげ。それが孫権にとって……いっそ心地よいと感じるのはいかなる心境の変化であろうか。


「そんなもんかねえ。紀家軍うちの連中がもし麗羽様とか美羽様と飲む機会に恵まれたら……。

 そりゃもう、我も我もと言葉を交わそうとえらいことになるんだろうけどな……」


 けらけらと笑いながら料理に手を伸ばし、酒を呷る。そこに間違っても凄みであるとか知性の煌き的なものを感じることはできなかった。

 だがそれが、その表情を浮かべる彼が何を成し遂げてきたかを思う。自分が彼の立場であったとしたら、と。

 だから、口にしたそれは彼女の本音。

 

「ねえ」

「んー?」


 お酒のせいだろうか。思ったことをそのまま口に出してしまうのは、などと思いながら。


「私、貴方のことをもっと知りたいわ」


 表情を凍らせる紀霊の反応が面白くて。陸遜のようにしなだれかかってみる。固くなるその態度がちょっと、可笑しい。

 うん、悪くない、と孫権は思う。

 孫家の次代を担う者として、紀霊と親しく接するのは悪くない。むしろ称賛されることであろう。


 これが、孫家二の姫と紀家の麒麟児。二人が本格的に向き合うその馴れ初めである。

 そしてこの二人の出会いが、関係が。中華の大地が紡ぐ歴史という潮流に、大きく変動をもたらすことになるのである。


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