男子会らしきもの:酒席にて
「また、とんでもねえことを考えたもんだな……」
掠れたその声。それはうめき声に限りなく近い。そしてそれを発した張紘は内心頭を抱える思いであった。
いや、それは必然であったのかもしれない。紀霊が帰還して最初にしたのが最も信頼する彼ら二人――張紘と沮授である――との会合であったのだから。しかも場には酒食があるのだ。
日が高いうちからの宴会は最高だよね、という紀霊の言を額面どおりに受け取らないほどには彼らは聡明であった。むしろ紀霊という人物との付き合いが深かった。
まあ、それでも公的には報告できない裏事情であるとか洛陽の趨勢とかを語るのであろう。その認識はある意味正しかった。内容の重大さを除けば、であるが。
「なんだそりゃ。聞いてないぞ」
張紘はそう言って頭を抱えながらも、内心苦笑する。いつだってこいつは唐突に、とんでもないことを実行してきたのだから、と。
張紘が反駁し、沮授が黙したそれは袁家の大戦略を左右するもの。本来であれば文武の要である田豊と麹義が図るべきものである。それを独断で何進大将軍と擦り合わせたとか、まともな神経の持ち主であれば卒倒していたであろう。
「なるほど。幽州を公孫に託し、袁術様は荊州へ移る。ですか。
なかなかに大変そうですね?」
ちっとも大変そうじゃない風に呟く沮授の鉄面皮具合に、張紘はいっそ感嘆する。まあ、沮授が大変そうとかいう言葉で済ませるのだ。本来ならば独断専行などという言葉が生易しいような、ある意味越権行為。それが紀霊には許されているのだろう。
いや、むしろそれを期待されているのかもしれない。きっとそうなのだろうと張紘は自身を納得させる。
「んー、まあ当分先のことだかんな。
ぼちぼち準備しとけばいいだろ」
呑気な紀霊の言いように、つい言葉が鋭くなる。
「なんでそんなに他人事なんだよ。
領地替えだぞ?これは大変なことなんだぞ?」
今まで築き上げた地盤、そのほか諸々を無に帰する所業である。常ならば穏やかな人格者という評の張紘の思わぬ剣幕に、紀霊はどこか困った顔でぼりぼり、と頭を掻く。
「で、太守の枠を二つでしたか。
一つは公孫賛殿として、もう一つはどうするのです?」
助け舟のつもりであろうか?考え込むそぶりを見せて沮授が問いかける。いや、沮授は苦しむ紀霊をクスクス笑って見守る感じのはず。つまり本当に気になっているのであろう。
……そう。要求した太守の枠二つ。その一つは公孫賛だろうと張紘も内心同意する。流石にいきなり州牧とはいかない。実務的にも太守という地位を経験させるのは当然のこと。抜擢というのは実務面において、相当に困難を伴うからこそ中々なされないのである。
「袁術様についてはどうせ実務担当は袁家の官僚団から引き抜くんだろう?
袁術様は太守で実務経験を積む……って感じでもないだろうし」
年齢的にも、実務を担えるわけがない。そうなれば先に州牧に就いて適当に箔をつける方がいいであろう。だからこそ、疑問が募るのだが。
そんな二人の親友の様子に頷き、紀霊は重々しく腹案を告げる。
「孫家に長沙を治めさせる」
さしもの沮授すら言葉を失う。
「な……!」
孫家は制御の効かない危険な武力集団。それが彼らの共通認識。そのような無頼集団相手に、実際魯粛や虞翻、顧雍はよくやっているのだ。
だが、いつ暴発するか分からない存在だ。それに太守の座を預けるなど、正気の沙汰ではない。
「太守の座を以て、虎を鎖につなぐ。治世の苦労というものを味わってもらいたいな、ってね。
そして……州牧の座から虎を飼い馴らすのさ」
いっそ淡々とした紀霊の言に張紘は違和感を覚える。
「孫家の恐るべきはその戦闘能力だ。
さらに厄介なのはその心胆。彼奴らは漢朝にこれっぽっちも重きを置いていない。
これは魯粛や虞翻からの報告にあった通りだ。極論すれば彼奴らはとびきり強力な野盗の頭目。
それが孫家だ」
「なるほど、責任ある立場を与え、自覚を促しますか。
しかし、そう上手くいきますかね?」
沮授の問いかけに張紘はうなずく、もっともだ、と。得た地位をただ孫家の隆盛のために使うのではないかという懸念は妥当なものだろう。
「そのために荊州に乗り込むのさ。
沮授は無理だろうが、できれば張紘には付き合ってもらいたい。
失敗したらまあ、潰すしかないだろう、さ」
ぞくり、と背筋が凍る。いったい何があって紀霊はこんなにも凄みが増したのたろうか、と。
「張紘、そん時は手間をかける」
「構わねえ」
反射的に答える。仮想敵としての孫家。その殲滅方法はすでに整っている。
それはいい。いいのだが……。
「二郎、一ついいか?」
張紘は紀霊に問う。問いかける。
「洛陽で、何があった」
そう、問いかける。
「うん、そうだな。お前らには言ってもいいな。
あれだ。本物の化け物がいた」
その言葉を吐く紀霊の顔は笑みという形にありながら引き攣っている。
「大概袁家も化け物の巣窟だが、とびきりの奴がいた。
あれと遣り合うにはなりふり構ってたらアカン。
ああ、俺ごときが片手間にどうこうできる相手じゃなかった」
沈黙が部屋に降りる。はたして紀霊がそこまで言う相手とはいったい何者なのか。
いや、両者ともに予想はついている。
「何進大将軍はそこまでの傑物でしたか」
沮授が問いかける。常と変わらぬ笑み。それにいつもの余裕がないと感じるのは自らの心境ゆえであろうか。
「ああ。
あれはいかん。負けないまでも……勝てる絵図を描けんわ」
◆◆◆
俺ら一服中である。はあ、お茶が美味しい。お酒はもっと美味しい。酌み交わすのがこいつらだからなおのこと、だ。
「しかし二郎、大将軍に勝てないけど負けもないってのはどういうことだ?」
張紘が問いかけてくる。まあ、肉屋の倅云々等、ロクな世評は伝わってねえしな。実際触れてみるとあれはほんと政治的化け物だと思うのだよ。
「そうだな、負けないためにはどうしたらいいと思う?」
「ん?なんだそりゃ……。うん?あ、なるほど」
さすが張紘。叙述トリック――そんなたいそうなものではない――に気づいたか。
「そう、戦わなければいい。これなら負けようがない」
訝しげな顔の沮授にうひゃひゃと笑いながら解説を続ける。
「まあ、ぶっちゃけた話。権力闘争で大将軍とやりあっても勝てるはずがねえよ」
本人が化け物クラスってのもあるがそれだけじゃあない。
「まず、何皇后を通じて弁太子を握っている。外戚として権勢がゆるぎない」
そう言って懐からあるものを取り出す。何進にダメもとで頼んだアレだ。それを目にして、流石の沮授も顔色を変える。
ちなみに張紘はそれを一瞥した後、無言で酒を呷っている。かなりのハイペースで。
やったぜ。
「これは、勅でしょう……!しかも白紙の……」
はい、沮授君、大正解であります。
「そうだ。こんなものを用意できるほど何進は漢朝を掌握しているのさ。
つまり、何進大将軍様のあらゆる行動は正当化できるっつうことだ」
流石の沮授すら表情が凍っている。
うん、俺も正直びっくりしたからなあ。だってこれ、何進を討て的な勅に加工できるんだぜ?そしてそれがどうした状態の何進ってことなんだぜ?これはいけません……。
さらに、だ。
「それに、大将軍として軍権……禁軍を掌握しているんだよなあ。
さらに、涼州の雄。馬家とも繋がっている。馬家当主たる馬騰殿とは義兄弟の契りを結んだそうな……。
内外の武力を握った外戚と対立するとか、ないわー」
張紘が頭を抱える。ふはは、俺が味わった衝撃をおすそ分けだ。おかわりもいいぞ!……って冗談はさておき、あんな化け物が外戚として権威を握り、武力も持ってるのだ。
正直……手を結べたのは僥倖だったぜ。袁家の隆盛が粛清対象になる可能性もあったからな。
井の中の十常侍はそこに気が付いてないのか、未だに何進とは徹底的に対立しているみたいだが。それも何進の政治力の凄み、かな。
まあ、勝算はともかく既得権益を守ろうとするのは自然なことだわな。勝ち目があるかどうかは置いといて。
そもそも、宦官が権力を握れたのは皇帝陛下の信頼が厚いからだ。そこのラインを外戚に握られた時点で詰んでる。現状権力を握っている全能感があるが故に気づけないのかもしれないがな。
「ま、そんなわけで宮中での権力闘争には関わらないのが一番だな」
「君子、危うきに近寄らずというわけですね」
沮授がくすり、と笑いながら言う。立ち直りはえーよ、このイケメンめ。
「だが、それだといずれ袁家も目を付けられねえか?」
「張紘の懸念はもっともだ。
だから宮中には更なる化け物をもって充てる」
麗羽様や美羽様をあんな伏魔殿に置いとけないしな。あんなとこいたら心が病むよ。よくないよくない。
などという本音は多分こいつらには筒抜けだろうから一々解説はしない。照れくさいし。
「ふむ、そんなに都合よく有能で上昇志向があって宮中に伝手があって大将軍と張り合う覇気のある人物などいるのでしょうか?」
沮授よ。お前分かって言ってるだろう……。
「いるともさ。曹操という化け物がな」
この時代最高のチートキャラである。ただし……胸部装甲を除く。
――化け物をもって化け物を制す。袁家は双方と繋がって地方で国防に専念するのだ。荒れそうになったら介入すればよかろうよ。キャスティングボードを握るという美味しい立場でいこう。
まあ、それだけじゃないが、とりあえずはそれで十分だ。
「二郎、ほんとお前ってやつは……」
張紘のぼやきに沮授の爽やかさと胡散臭さが同居する笑み。そこに俺の適当な放言を併せれば、だ。これぞ俺たちのいつもの在り方、なのさ。いやあ、酒が進みますねえ……。