表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
62/350

凡人と大将軍

「ほう。そなたが袁家の使いかえ」

「は、左様にございます」


 跪く俺に嫣然とした声がかけられる。皇太子たる弁皇子のご生母にして後宮の支配者たる何皇后その方である。


「よい、面を上げよ」

「は」


 顔をあげ、ご尊顔を拝む。うん、流石絶世の美女と言って差し支えないであろう。黒髪は艶やかに、唇の朱は薔薇の鮮やかさを連想させる。瞳に宿る星は輝き、俺を射抜く。


 にこりと、勿体なくも微笑みをいただく。濃密な花の香りが俺を包み、くらくらと眩暈がするほど。

 いかんいかんと気合いを入れなおして瞳を見やる。どこか爬虫類を思わせるその視線は捕食者。圧倒的な階梯の違い。格の違いに自然と頭が下がる。なるほど、漢朝を奥から差配するに納得というものである。

 ああ、この方のためならば皆、死も恐れはしないだろう。身命を賭すだろうよ。誰だってそうする。俺だってそうする。そう、するよ。

脳裏に色んな人たちが浮かんでは消えていく。え、これ走馬灯状態?呼吸が……できない?

四肢が痺れ、石のように強張っているのを自覚する。何かが俺を侵食していくような気色悪さすら遠く感じてしまう。目の前の一切から現実味が喪われていく。頭が働かない。

 脳裏に浮かぶのは、縋るのは。

 困った顔の陳蘭。苦笑する沮授と張紘。にこりと笑う斗詩に快活な笑みの猪々子。くすりと笑う七乃、高笑いの麗羽様。そして。


「じろ……」


 手を伸ばす美羽様を抱きしめる。それはきっと幻想。それでもかけがえのない絆。俺が生きてきた証。


 ぶちり、と舌の先を噛み切る。熱い痛みとぬるり、とした塩味がじくり、と広がる。くらり、としながらも必死に食らいつく。意識を、取り戻す。取り返す。

 何皇后の視線がおかしげに揺れる。


「ほほ、頼もしいことじゃの。

 兄上の申された通りの快男児じゃ。

 わらわと弁をよろしく頼むぞ?」


 軽く微笑むとその場から去っていく。その歩みはどこか大蛇を思わせていて、戦慄を覚える。


 何だあれは。俺は全身が冷や汗でずぶ濡れであることに気が付く。だが、激しく脈動する心臓は治まる気配がない。


「は……ァっ!」


 辛うじて息を吐き出す。いや、死ぬかと思った。俺は何を見た。何と遭った。

 いや。何皇后だ。それはわかってる。だがあれはいったいなんなんだ。


 そんな俺に嘲笑が浴びせかけられる。


「どうした。立てないのかね?」


 何進の声だ。くそったれ。足よ、動け!

 渾身の力を込めて立ち上がる。生まれたての小鹿みたいに覚束ないが、立ち上がる。立ち上がった。


「ほう、大したもんだな」

「お見苦しいところを」

「ふん、気にするな。アレと向き合ってそこまで踏ん張れるお前さんは大したもんだよ」


 くらり、と眩暈がする。


「あれは最高傑作だ。

 幼いころから歌舞楽曲、教養、房中術を完璧に仕込んだ」


 どこか謡うようにつぶやく何進。


「妹君、なのでしょう?」


 その声に苦笑する。


「ああ、そういうことになってるな。 

 そういう意味では何十人といた妹の中の一人だな」


 つまりは、そういうことか。こわや、こわや……。


「なぜそれを俺に?」

「ああ、お前は俺と同類っぽいからな」


 にやり、と笑う何進。


「お前さんは銭の力って奴を理解しているようだからな」


 こりゃまた唐突だな。そりゃまあ、お金が万能のツールたる資本主義の番犬ではありましたよ?

 俺の沈黙をどう捉えたのか、何進は言葉を続ける。


「銭を嫌う奴はいる。銭に狂う奴もいる。だが、銭を使いこなす奴はほとんどいない。

 更に、相応の地位にある奴という条件を付けるとしよう。

 その怖さも、力も理解し、溺れず、狂わずに銭を制する。

 おそらく俺を除けばこの中華にお前さんぐらいだろうさ」

「それは……過分な評価恐れ入りますよ」


 本当に、恐れ入る。経済ヤクザが権力の中枢――なんたって大将軍という破格の地位――にいるのはやばいぞ……。

 財力、暴力、権力。それらを一手に握る何進という人物の危険性。俺が洛陽に来てよかった。こいつの凄味は直接会わなければ分からなかったろう。


「そんなに警戒するなよ。これからは味方同士なんだからな」

「そういえばそうでしたね」


 こいつは敵に回したくないなあ。というか、手を結べるのは僥倖だ。

 とはいえ、不安もある。


「皇后陛下が宦官に取り込まれるというのが一番怖いのですが」

「ああ、そのために蔡邑と王允を付けてる。

 抜かりはねえさ」


 ……王允も女性なのかよ。今更だけどな!内心頭を抱える俺に何進が声をかける。


「そう言えば、会わせたい人物がいるんだった。

 いいかね?」

「断る理由は特にないですけど」


 正直今日はもう帰りたいけど……断るという選択肢は俺にはないのだ。


◆◆◆


「ほう、貴殿が袁家の誇る怨将軍。紀霊殿か。

 噂はかねがね耳にしている」


 つくづく格の違いというのを感じる一日である。俺が引き合わされたのは堂々たる武人だった。

 馬騰。涼州を根拠とする馬家の当主にして漢朝の忠臣である。かの名将馬援の子孫でもある。


「いえ、馬騰殿の勇名こそ響き渡っております」


 何せ涼州にて匈奴の侵攻を一手に引き受けてる傑物だからな。その名声と実績は袁家に勝るとも劣らない。特にその騎兵軍団は漢朝随一との評である。


「はは、正面きってそう言われるとこそばゆいものだな。

 だが、私も君のような清々しい若人を見るのは嬉しいものなのだよ」


 ちらり、と何進を見ると思わせぶりな笑みを浮かべてやがる。俺は改めてこの何進という人物の辣腕に舌を巻いた。


 国家の役割とは何か。


 その最低限は治安と国防である。夜警国家というやつだな。

 民を理不尽な暴力から守るのが国家の最低限の役割だということだ。そして、何進は国家の盾たる馬家と結び、禁軍を制している。ここに袁家が加わるわけだ。

 対外的な脅威が北方のみであることを考えると、何進は漢朝の守護者としての役割を十全に果たしている。ならば、俺としては精々仲良くするしかないのであるよ。特に野心とかないしね。


「しかし、袁家が味方となれば心強い。

 獅子身中の虫を除くべく、この馬騰、粉骨砕身の覚悟であるとも!」


 ばしばしと背中を叩いてくる馬騰さん。うむ、痛いっす。とも言えず。


「北方の護り手である馬家。その当主である馬騰殿と知己を得られたのは幸いなことですよ」


 何進について更に考察を進める。そういや、黄巾の乱、結局何進の指揮のもと綺羅星のごとき将帥が集い、滅したのだったか。そう。大将軍という責務を果たしきったのだったか。


「無論……袁家も漢朝のために力をふるう所存です」

「うむ。このような機会がなければ接することもなかったろうな。

 いや、君のような若武者が涼州にもいればな。

 どうだね。娘が年頃なのだが、一度考えてみてくれたまえ」


 馬騰さんの娘とかもしかして。


「名を超、真名を翠と言う。一度会ってみてくれ。

 じゃじゃ馬だが気性は真っ直ぐだ。気に入ってくれると嬉しいな」

「は、はあ」


 やっぱ錦馬超かよ。いや、正直ご勘弁願いたいのですが。


「おいおい、まずは漢朝を立て直すのが先だぜ、馬騰よ。親愛なる兄弟よ」

「うむ、そうだったな。これは先走ってしまったか。

 はは、ご容赦願いたいものだ」


 そういや聞いたことがある。何進と馬騰は義兄弟であったのであったな。そんなことを思いながら何進のニヤニヤ顔を無視する。これを借りとは思わんからな。


 しかし、張紘も沮授もいないというのはこれほどに辛いものか。いやあ、この会談の着地点とか含めて助言くれる方を大募集なのですよ。軍師大募集なのですよ。

 俺って、こういう駆け引きとかそこまで得意じゃないので。そこまで頭回るほうじゃないので。

 混乱する俺に何進はニヤリ、と笑いかける。


「まあ、飯でも食ってけや。一席設けるからよ」

「フム、そうだな。大いに語ろうではないか!」


 この消耗した状態で接待とかマジきついんですけど。でもまあ、断るという選択肢がないというのが現実でございますよ。くそ!戦ってやるとも現実と!


 悪いようにはしねえよとか言う何進に、正直ごめんなさいと言って逃亡したくなった。踏ん張ったけどさ。踏ん張ったからさ。誰か誉めてよ、ほんと。


 つらたんです。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ