凡人と飛燕の邂逅
今日も今日とてお仕事である。書類的なサムシングとの戦いなのである。
まあ、ぶっちゃけ前世のコンプライアンスやら法律やら規制とかに縛られた上での書類仕事に比べたら楽勝なのではあるが。
別に俺が優秀なわけじゃあない。単なる経験の蓄積ってやつだ。俺より頭のいい連中なんてごろごろしてるからなあ。いや、マジで。恐るべし袁家の官僚軍団。いや、楽をさせていただいてますよ。あっちこっちに書類を転送したり、付箋貼って予算通せとか適当かますのがメインのお仕事です。
そんな感じで鼻歌交じりにルーチンワークをしていた俺に来客が告げられる。予定は入ってないけど、急な来客も稀によくあること。
まあ、気分転換にはなるか。美羽様の後援の係累からの口ぞえならしゃあないしね。
などと、軽く考えていたんだがね。来客の名を聞いた途端。血が、冷えた。対する相手が通り一遍の挨拶を終える前に口を開く。
「おう、黒山賊が俺に何の用だ」
下手なことを言いやがったら切り捨てる。文字通りな。後がどうなろうと知ったこっちゃねえのさ。これに関しては誰にも文句は言わせねえよ。つーかそいつも潰すし。
そんな俺の恫喝に対して、動揺を顔に出すこともなく。相対する張燕はにんまりとした笑みを浮かべた。
「流石だねえ。アタシのことまで把握してるとは思わなかったさね」
「口上はいい。さっさと用件を言ってから俺に殺されろ」
「おやおや、物騒だねえ。この場でアタシを殺したら立場がまずくなるんじゃないのかい?」
無言で三尖刀に手を伸ばす。まあ、取りあえず殺すとするかな。よし、そうしよう。
「あー、取りあえず話を聞いておくれでないかい?」
「は、戯言もそれまでにするんだな。言い残すことがあったとしても聞くつもりもないし」
死出の旅路に六文銭を恵んでやるつもりもない。のだが。
「……物騒だねえ」
あくまで表情を崩さずに張燕が言う。
そう、張燕。いずれ飛燕将軍という異名を取るであろう名将である。史実において後漢王朝はこいつが率いる黒山賊を討伐することができなかった。袁家も討伐を繰り返すが、殲滅の前に官渡の戦いが起こってしまう。それ以後は確か曹操に従ったはずだ。
メジャーじゃあないが、英傑の一人と言っていいだろう。よし、クールになれ俺。KOOLじゃなくCOOLに。
軽く頭を振り、改めて向き合う。
「で、わざわざ俺に何の用だ」
俺が黒山賊を目の敵にしているのは周知の事実だ。いきなり殺されても文句は言えないだろう。よしんば俺を返り討ちにしたらまあ、袁家が全力で黒山賊を討つだろうさ。
それくらいの影響力はあると自負している。
俺の問いに、張燕は僅かに逡巡する。
「いやなに、手打ちをしたくってねえ」
そんなことを囀った。
「あ?喧嘩を売ってきたのはそっちだろうが」
袁家において、黒山賊への対応は俺に一任されている。というか任せてもらった。色々斟酌してくれたのか、仕事を丸投げされたのかは判断が難しいとこだが。
「いや、袁家と敵対するというのはアタシらの総意じゃないさね。
身内からも討伐の手勢を出してはいたんだが。連中、中々捕まらなくてね」
「は。まあ、口では何とでも言えるな」
俺の言葉に張燕は姿勢を正す。
「改めて詫びる。あれはアタシらの不始末であった。
今さらとは思うが、ご寛恕いただきたい」
深々と頭を下げる張燕。正直その首を落としたいなあ、と思うよ。
「アタシらとしても、袁家の怒りはもっともなことと認識している。
謝って、はいそうですかということでもないことも認識している。
だが、袁家と事を構えるだけの力はアタシらにはない。
なんとかならないだろうか」
美貌――キツめのそれは実はど真ん中ストライクである――に懇願の表情が浮かぶ。
だが、なあ。
「遅いよ。既に黒山賊討伐のために軍備は増強されてる。
今さら止まるわけねえだろ」
お前らはもう、死んでいるも同然。そして絶対に許さないのだ。他でもない俺が。
「そこをなんとか、とお願いに来てるわけなんだよ。
むやみに衝突しても、そちらにも損害も出るだろう?」
少ない手札で、それでもこちらに勝負をかけてくるのはまあ、見上げたものである。
「そりゃ、さっさとアタシらを討伐して兵士を減らしたいというのも分かるんだけどさ。
なんとかならないもんかね」
ん。その意気やよし。なのだが、ね。
「アタシらにできることなら何でもするからさ」
ふむ、よっぽど切羽詰ってるのか。まあ、そりゃあそうだな。今の袁家と正面切って殴りあうとかありえんわな。
ふと思いついた案を頭の中で検討する。うん、悪くない、か。
「あー、とりあえず、袁家は軍備をこのまま増強する」
俺の言葉に流石の張燕。その顔が引き攣る。だが、続く俺の言葉を耳にして思案する。
「だからお前らにはそれに見合った勢力を維持してもらう」
その言葉に黙ってうなずく張燕。そして紡ぐ言葉に俺は満足する。
「あくまで袁家と黒山賊は不倶戴天。そういうことでいいのかい?」
ああ、流石だな。こいつは敵に回すと厄介だ。だからこそ、である。そう、仮想敵として軍備増強のダシとなってもらう。
「そういうことだ。お前らは敵だ」
「そしたら、アタシらは何をもって袁家に赤心を示せばいい?」
本当にこいつは傑物だ。戦後を考えてだろう。その場しのぎではなく、きっちりとした従属関係を申し出ている。
「表面立ってあれこれできないな。とりあえず現頭目の張牛角は隠居。張燕よ。お前が頭を張れ。
それをもって黒山賊が袁家に恭順した証とする」
「承った」
即答である。トップの交代とか難しいはずなんだがな。
まあいい、従わなかったら潰すだけだし。
「黒山賊はあんたに忠誠を誓おう。なんなら……寝所で確かめてみるかい?」
……俺はどんだけ女好きと思われてるんだろうか。いや、敢えてそういう風説を流布させたんだけど、ちょっと思う所はあるなあこれ。
見え見えのハニートラップは流石にお断り、なのである。だから定期的に活動方針とかの報告を自らすることを飲ませると、溜め息を一つこっそり漏らす。
猫科の猛獣を思わせるいい笑顔を浮かべて室を辞する張燕を見送る。見送る俺は正直忸怩たる思いである。
だが、それでも。それでも、張燕を私怨で斬ることはできなかった。そのために色々と整えていたのだが、いざその時になるとできなかった。
そんなこと、できるはずがないのだ。袁家という巨大な組織。そのトップ近くの俺が公私混同なんてできるものかよ。
だからまあ、ちょっと絡み酒になっても許してほしいものである。ごめんね。
※絡み酒の被害者についてはご想像にお任せいたします。
……いつもすまないねえ、とだけ。
◆◆◆
張燕はこの上なく上機嫌であった。
「く、くく。いよいよアタシの時代かねえ」
ふと呟く。聞くものとておらぬ馬上である。腹の底から沸きあがる愉悦に張燕は身を委ねていた。
……正直今回の役割は貧乏くじもいいところであった。厄介払い、或いは間接的な粛清であろうか。袁家への使者という役割が決まった時の憂鬱さすら今は心地よい思い出である。
実際黒山賊は存亡の危機に揺れていた。隆盛を極める袁家。それが本腰を入れて黒山賊の殲滅に動き始めたのである。
そもそも袁家は巨体である故に動き出すには時間がかかるのだ。それゆえの時間的猶予を有効に活かすことができなかった。動くことなどなかろうという推測。希望的観測。
それが大勢を占めていたのである。人は信じたいことしか信じないということであろうか。
混乱が生じたのは袁家の軍備強化が表面化されてからである。一万もの正規兵の増強。しかも標的は黒山賊と公表された。更に重ねて行われた募兵に訓練。そして北方の防備を担っていた精鋭の召集。
はねっかえりが袁家領内の村落から略奪することはこれまでままあった。だがそれで黒山賊が本格的に討伐を受けることはなかった。
それだけの武力を蓄えてきたからである。今回はそれが裏目に出たのだ。袁家が本腰を入れるだけの勢力として認識されてしまったのである。
頭目の張牛角を筆頭に、黒山賊の上層部は大混乱に陥った。当然である。袁家領内へと侵攻したのはあくまで黒山賊の中でもはねっかえり。
中央の意向を無視することが存在意義という奴らだった。人数も少なく、袁家の領内の被害も少ない。まさか、まさか本腰を入れてこようとは。
当初の袁家による公布が怨将軍の戦果を誇るものであったことが希望的観測に説得力を与えたのもある。だが、それすら黒山賊を殲滅するための策であったのだろう。
それが判明しても責任を取るものがいるはずもなく。ただただ、会議は踊るばかりであった。
……張燕が袁家への交渉へと派遣されたのは厄介払いという意味合いも大きい。実戦部隊を掌握する張燕は黒山賊の派閥争いで台風の目となりかねなかったのである。
若輩故に危険視をされていないが、いつ粛清されてもおかしくない。それが張燕の立ち位置であった。故に袁家への使者として派遣されたのだ。
張燕が交渉の窓口として紀霊を選択したのは賭けであった。怨将軍として知られる紀霊。
黒山賊を目の敵にしているというのは有名な話である。更なる兵力の充実も紀霊の主導という話だ。
だが、黒山賊への対応を一手に担っているという情報を掴むと、接触せざるをえなかった。このあたりの情報を掴むことができたのも張燕の優秀さ故であろう。
張燕にとっては正直、分の悪い賭けであった。何より、自分が黒山賊の幹部であるということを伝えた瞬間が一番危険だ、と判断した。
だが、そこさえ乗り切ればなんとかなる。その思いで面会にこぎつけたのではあるが。
まさか自分の名前が知られているとは思っていなかった。想定していた筋書きが崩れ、幾度も死を覚悟した。
だが、結局張燕は賭けに勝利したのである。見事……生存のみならず、袁家の後ろ盾すら確保したのだ。
帰路を急ぐ張燕がわが世の春よとばかりに浮かれていても仕方のないことであろう。その帰路において、自分を切り捨てようとしてくれた幹部をどうしてくれようか。それを思うだけで暗い愉悦に酔うことが出来るというものである。
◆◆◆
紀霊がその報を耳にしたのは張燕との面会より一月後であった。
張燕が黒山賊の首領へとなったこと。そしてその際に黒山賊幹部――頭目であった張牛角を含む――の粛清があったこと。
紀霊は虎に翼を与えたことを知り、人知れず懊悩することになる。そしてこれより袁家と黒山賊の確執、そして損害はその規模を拡大させていくことになるのである。




