凡人と、焦がれる女
さて、俺の目の前には陸遜がいるわけなんだが。なんだろう、どうして朝から頬が上気してんの?目がとろんとしてんの?呼吸が荒いの?
これは、あれだな……。
「風邪か?根を詰めて作業してくれたみたいだからなあ。今日は帰って安静にしてくれや」
「いいえー、体調はー、万全なんですー」
にこり、と微笑みながらつい、と歩を進める陸遜に思わず半歩後ろに退いてしまう。
「本日はぁー、貴重なお時間を頂きましてありがとうございますー」
「お、おうともさ。んで、孫子だっけか。持って来たぞ」
以前孫家から受け取ったものである。なるほど、配下にも見せないほどの厳重な扱いであったのか。
「ああー、これこそ孫家の至宝、孫子様の書かれた書なのですねー」
「つって俺も孫家から貰ったに過ぎないけどな」
「いえいえー、孫家の臣といえども目にする機会はないと言っていいほどに貴重な至宝。それを目にする機会を下さってありがとうございますぅ」
うっとりとした顔の陸遜。いや、何かクスリでもやってんのかと思うくらいには恍惚としてらっしゃるのだよ、これが。まあ、喜んで貰えるならいいということにしよう。
そして震える豊穣の象徴。ありがてぇ、ありがてぇ……。
「そんなもんかね。書物なんてその叡智を拡散してなんぼのもんだろうに」
「秘すからこそ、その貴重さが増すということですぅ。ご存知でしょうけどもぉ」
まあ、ここいらは多分俺の感覚の方が異端なんだろね。
「それと、農徳新書の最新版の閲覧許可証な。これ持ってけば好きなだけ読めるぞ。写しもご自由に、ってな」
「ああー、素晴らしいですー。ありがとうございますー」
さて、ここで農徳新書についてちょっと語ろう。実はあれ、既に俺の手を離れているのだ。最初は俺のあやふやな記憶の書付でしかなかったんだがねえ。
今や何十冊にもなる書となっているのだ。これは、農業の指導書ではあるんだが、それは既に袁家の農政の結晶と言ってもいい。つまり、毎年の農政の施策とその結果の膨大なデータ集となっているのだよ。
毎年の天候、災害などを加味しながら、最も効率のよい農法を検討している。もはや毎年編纂されるそれは俺にも内容がよく分からん。未だに編纂者に名前が出ているのが恥ずかしいくらいだっつうの。
……本来ならば機密に類することなんだろうが、比較的安価で諸侯の求めに応じて提供している。食料増産こそが平和の礎だと信じての俺のわがままだ。
黙認してくれている田豊様やねーちゃんに感謝、なのだ。
「あぁ、たまりませんー」
何やら嬌声を上げながら陸遜が頁をめくっている。いやいやいや。……何で本を読むと色っぽくなるの?喘ぐの?
わけわからんよ!いや、マジで!
そして四半刻もしたら……。頬を上気させ、潤んだ瞳で俺を見つめる陸遜。……めっちゃエロいですやん。
「駄目なんですぅ。書を、名著を紐解くと、身体が火照ってしまうんですぅ……」
なん……、だと……?
「大丈夫です……一度達してしまえば、治まりますからぁ……」
むわり、と牝の香気が俺を包む。フェロモンってレベルじゃねーぞ。
「ねえ、いつもわたしのこの、おっぱい……見てましたよね……」
「お、おうともよ……」
「触って、みたく……ないですか……?」
自らの手でその、処女雪が積もったヒマラヤ山脈を思わせる魅惑の胸を揺らし、陸遜が問いかける。
たゆん、と胸が揺れる。形を変える。震える。その、雪崩的な破壊力にごくり、と生唾を飲んでしまう。
「触り、たくないですか……?」
じり、と近づく陸遜。俺の肩に手をかけ、しなだれかかってくる。いっそう、濃密さを増した香気が俺を包み込む。
「好きにして……いいのですよ……?」
その悪魔を思わせる囁きの蠱惑さよ。その誘惑に俺は、堕ち……ることはなかった。
陸遜の蠱惑的な瞳の中に剣呑な光を感じた瞬間、俺はす、と冷め切ったのだ。苦笑しながら陸遜を押しやる。
「あー、分かった分かった。中座するから、落ち着いたら呼んでくれ」
いや、そりゃね?俺はおっぱいとか大好きよ?それがこんな美人のおっぱいなら言うことないよ?
でもさー、今は勤務時間なのですよ。
小市民と笑わば笑え。でもまあ、こんな明るい中、しかも勤務時間内になかなかそういう気分にならんっちゅうの。
それに、だ。壁に耳あり障子に目あり。もしもねーちゃんの耳にでも入ったら……。そう思うだけで息子がきゅってなるっちゅうの。
ぽんぽんと陸遜の頭を叩いてから席を立つ。あ、フォローもしとこう。
「あー、別に陸遜が魅力的じゃないとかじゃないからな?
そんな、その体質につけこむのが嫌だってだけだし。
まあ、今度ゆっくりとその胸を堪能させてくれや。嫌じゃなかったらな」
……我ながらフォローになってるのか分からない台詞を残して部屋を去る。
しかしまあ、危なかったなあ。そう、心から思う。
昨晩、七乃に搾り取られてなかったら危なかったかもしらん。今度七乃に美味い飯でも奢ろう。
そんなことを思いながら俺は厠を目指すのだった。
◆◆◆
陸遜は歓喜に震えていた。際限なく火照る身体と冴え渡る思考。知らず、笑みが零れる。
やはりか、と確信する。擬態であったか、と。
推論が証明され、扉が閉まった瞬間には絶頂すら覚えたものだ。
あは、と笑みが零れる。
誘惑を跳ね除けられた体の陸遜であったが、彼女は全く落ち込んでいなかった。
……容色には自信がある。
江南にいた時にはよく言い寄られたものだし、襲われたことも両手の指では足りない。……前者は上手くかわし、後者は武を持って叩きのめしたものだ。
相手がそれこそ……紀霊のように魅力的な男なら口説かれたろうし、身を委ねたかもしれない。
だが、ことごとく陸遜の要求水準を満たさない男ばかりだったのである。浅い男ばかりだったのである。
陸遜は今日のこの機会のためにその能力の全てを振り絞った。およそ一月余り。それが与えられた仕事に対する期間であった。
不眠不休で励んだ。自分は無名の士でしかない。ならば、求められる以上の結果をもたらさないとわが身に価値など生まれないだろう。焦がれる紀霊の信頼を勝ち取ることなどできないだろう。個人的な時間など貰えないだろう。最後の三日三晩など、一睡もしていなかった。
そうして得たこの機会に陸遜は勝負に出た。そして見事に負けてしまったのである。
だが、収穫は思いのほか大きかった。
そう、紀霊のあの軽薄な態度は擬態であると陸遜は断じた。つまり、風評から得ていた、江南を援助するのは色香云々というのは否定されたというわけである。
であれば、何らかの思惑があるはずである。だから、それを読み取らねばならない。
くすり、と陸遜は妖艶な笑みを深める。手にした書が想定以上に傑作だったような悦び。絶頂の余韻、そして底知れなさ。
紀霊に対する思いは恋着とも執着とも違って尚、深まっていくのであった。
◆◆◆
「穏!大丈夫?!」
ばたり、と開け放たれた扉の向うには、仕える姫君がいた。浸っていた余韻を断ち切られ、僅かに苛立ちを覚えながら視線を向ける。多少の憤懣を含んでしまったのは未熟さゆえであるのだろう。
孫権は、一瞬怯んだような表情をしながらもこちらを気遣い、重ねて問うてくる。
「大丈夫?変なことされてない?」
……むしろこちらから仕掛けたと知ったらこのお姫様はどう反応するだろうか。そんなことを思いながら陸遜は、問題ないと答えるのだ。
「なら良かったわ。さ、行きましょう、ね?」
冷め切った思考で孫権を見やる。そう、孫家次代を背負うお姫様を。この方はまだ、何も分かってないのだなと、密かに嘆息する。
元来、陸遜が随員として周瑜に強く推されたのは、その身を紀霊に捧げるためでもあった。孫家への援助と言いながら、実質江南全体を視野に収めたその内容。孫家の権威は袁家からの援助による物質的なものが非常に大きい。
であるならば、都合が悪くなれば孫家を捨てて他の豪族を援助することも十分に考えられる。孫家を援助する対象として選んだ理由が分からなければ、それを繋ぎ止める策も打ちようがない。
黄蓋と魯粛の証言からは、いよいよ紀霊個人の独断で孫家に肩入れしているということしか分からなかった。であれば、まずは世評で言われている処の色仕掛けから接触するしかあるまい。
それが周瑜と陸遜の導き出した結論であった。
黄蓋は確かに紀霊に抱かれてもいいくらいの意識はあったろう。が、危うい。彼女はあくまでその本質は武人。気質は苛烈。娼婦の真似事など一時はできても、長続きするわけもない。
孫権は論外である。孫策よりは理性的であろうが、孫家の気性はあくまで炎。温室育ちなせいか、潔癖な面もある。
実際、紀霊にあれほど反発を覚えるとは。未だぷりぷりと怒りを示すその姿に思わず嘆息する。
だがそれでも、孫策よりは扱いやすいのだ。そう思うと師でもある上司。周瑜の苦労が思われる。
ともかく、紀霊にその身を差し出すことで誼を確かなものにするというのが陸遜の役割であったのだ。このような汚れ仕事ができるのは孫家の臣では自分か周瑜くらいであろう。
思いのほか薄い陣容に嘆息が漏れそうになる。せめて。
せめて呂蒙がもう少し思慮を深めてくれれば。それが周瑜と陸遜の共通した思いであった。
そして、この身体を差し出すはずだった紀霊。彼のその思惑が、陸遜にはまだ見えない。
それを推察するためにも、理解するためにも。
やはりこの身は紀霊に抱かれなくてはならないだろう。
くす、と妖艶な笑みを浮かべる陸遜。
そしてその表情に孫権が気づくことはなかったのである。
信じて送り出した本好き系軍師が農徳新書にド嵌まりして痴女な服装で男を誘惑する話




