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真面目な二人

 端的に言って、孫権は不機嫌だった。もちろんそれを態度に出したりはしない。この身は江南の平和を担保する人質だと孫権は理解している。袁家の、いや。あの男の機嫌一つで江南は焦土と化してしまうだろうことを理解している。……納得できるかどうかは別問題であるのだが。

 そして、農耕馬どころかわが子すら生計のために犠牲にせねばならなかった民の惨状を思い出す。それを考えると南皮は別世界と言っていいだろう。市場には物があふれ、民の顔には笑顔がある。子供は一日中遊び、婦女子は装身具や化粧に気をつかう。男達は夕暮れには酒を酌み交わし、笑いあうのだ。


 訳もなく悲しくなって、眠れぬ夜を幾度も過ごした。


 どうして。どうしてこんなに違うのかと思った。姉さまだって、冥琳だって寝る間を惜しんで頑張ってたのに、と。

 皆、頑張っていた。頑張っていたのだ。もちろん自分だって。それなのに、それなのに……。


 いや、だからこそ自分がここにいるのだ、と前を向く。心が折れても立ち上がる。

 間違いなく彼女は孫家の血筋。瞳に炎を宿して上を向く。袁家からの援助が途絶えぬよう、縁を結ぶ。そのために自分がいるのだと決意も新たに。

 ……だが、ここ数日の孫権は機嫌が悪かった。


◆◆◆


 これもあの男のせいだとばかりに孫権は不機嫌さを隠しもしない。黄蓋と陸遜は紀霊に呼ばれて何やら押し付けられたようだ。それに引き換え、自分は放置されている。

 歌舞楽曲を鑑賞する毎日。

 こんなことをするために自分はここにいるんじゃないとばかりに焦燥の炎が身を焼く。

 自然、目の前に居る護衛と言う名の監視役への視線も険しくなってしまう。厳しい表情で身動き一つしない女性。身体にはいくつも傷があり、歴戦であることを思わせる。

 この女も恐らく紀霊の手の者なのだろう。

 ふと、思いついて問うてみる。あの軟弱な男は部下、特に女子からはどう思われているのだろうか。


「ねえ、楽進、と言ったわね」

「は、自分は確かに楽進と申します」


 想像以上に生真面目なようだな、と孫権は微笑ましく思う。


「貴女から見て、紀霊という男はどんな人物なのかしら」

「は。は……?」


 少々困惑した様子を見せる楽進。まさかこの娘もお手付きとかだったら救われないなと孫権は内心苦笑する。


「とても、立派な方だと思います。

 私はつい最近お目にかかりました。正直なところ、私ごときがあれこれ言っていいとは思えません。

 しかし、個人的には恩義もありますし、悪い噂は余り聞きません」


 妥当なところであろう。流石に雇い主の悪口なんて言えないだろうからして。


「そう。よければどんな噂なのか教えてもらえるかしら?

 そういうことが、耳に入ってこないのよ」

「し、しかし私が知っていることとはいえ、軽々しく風評をお伝えしては……」


 本当に真面目なのだな、と孫権は楽進の評価を高める。そして。手の内にこんな駒があるという紀霊の懐の深さを垣間見た、と思う。


「貴女の耳にした噂で構わないわよ。流石にそれだけで彼を判断したりしないもの。

 それに、彼とはうまくやっていかないといけないのよ、私って。

 江南の民のためにも、ね?」


 そう言って悪戯っぽく笑いかける。困惑しながら、あれこれ思案顔な楽進に孫権は幾ばくかの罪悪感を覚える。


「あ、あの方は……」


 幾分か緊張した顔で語る楽進の言葉、表情を孫権は注意深く観察する。そう、まずは敵を知らないといけない。

 かの、孫子の末裔たる身が恥とならないよう。あの男に楔を打ち込むべく、情報を集めるのだ。

 孫家のために。江南のために。自分のできることをするのだ。


「それで、聞かせてもらえるかしら」


 まだ口ごもる楽進に重ねて問う。彼女の口から聞けたのは、通り一辺倒の風聞だった。

 曰く、農徳新書を幼くして編纂した麒麟児であった。

 曰く、武にも秀でており、一人で賊を百人殲滅した袁家の誇る怨将軍。

 曰く、広く財をなしながら民にそれを還元する仁徳の人である。


 ……どこの英雄か聖人だそれは、と改めて思う。全てが嘘ではないだろうが、相当に誇張をされているはずだ。だって。

 あの男の姿絵を思い浮かべる。思わず失笑が漏れたものだ。似ても似つかないではないか。


 なるほど、為政者が自らを美化するのは有効なのであろう。そういった民草の風聞というのは馬鹿にできないものだ。孫権とてそれくらいは理解している。だが、あの男のそれはやり過ぎのきらいがあるように思われる。そこまで考えて、至る。

 ……なるほど、自分はあの男が嫌いなのだ。気に食わないのだ、と。


 言葉を選びながら、慎重に、それでも誠実に語る楽進。一通りの説明を聞いて孫権は問いかける。


「それで、貴女は彼のことをどう思うのかしら」

「え?わ、私ですか?

 しかし、まだ知り合って間もないので……」


 僅かに顔を赤らめながら、楽進は口ごもる。


「それなら、彼と出合った時とかの印象とか出来事を教えてくれない?

 ちょっと興味あるもの」

「は、はあ。それならば……」


 なんでも、強面の男に絡まれていたところを助けてくれた上に、仕事まで紹介してくれたそうだ。

 ん?


「え、結局その強面の男って、彼の部下だったのよね?」

「は、はい、そのようでした」


 ……それって自作自演って言わないだろうか。こんな誠実な子をそんな小芝居までして手の内に納めたのかあの男は。

 不愉快だな、と思う。

 また、楽進が心からあの男に感謝しているのが不愉快さを助長する。だが、孫権の口から何を言うわけにもいかない。

 楽進は更に語る。


「武人としても私の及ぶところではありませんし。その、正直気にかけて頂いてるのが何故か分からないくらいです」


 また顔を赤らめながらそんなことを言う。

 ん?もしや。


「あ、あの、楽進。言いづらかったらいいんだけどね。

 その、もしかして、彼の、彼と、その、手を……」


 手を出されたのか。自分は何を聞こうとしているんだろう。自己嫌悪を覚えながらも聞いてしまった。


「あ、は、はい。お相手をして、頂きました」


顔を赤らめながら、そんなことを言う楽進。なんてことだ。なんてことだ。この純朴そうな子がもうあの男の毒牙にかかってしまったというのか。


「も、もしかして、無理やり、とか?」

「いえ、とんでもありません。私からお願いいたしました」


 恐らく、そうせざるをえないように仕向けたのだろう。見え透いている。


「その、正直、全く相手にならなくって、最初は何もできずに気を失ってしまったのです」


 語られる内容に孫権は言葉を失う。


「何度かお相手をするうちに、少しはお相手できるようになったのですけれども……。

 いえ。精進、あるのみです」


 孫権は知らず、天を仰ぐ。そして、思う。

 最低だ、あの男。

 そんな男を相手取って江南に、孫家に益をもたらさないといけない。そんなわが身を呪ってしまったとしても、誰も彼女を責められないはずだ。

 そして不意に、黄蓋と陸遜が心配になる。あの二人は大丈夫だろうか……。

 だが自分に何ができるだろう。何をするべきだろう。孫権は必死に頭を働かせるのだった。


◆◆◆


 楽進は孫権にあれこれ語りながらあの日のことを思い出していた。楽進達の、楽進の運命を変えたあの日を。


「お待ちください!」


 陳蘭に手も足も出なかった楽進は、暫くして彼らを追いかけた。やはり、納得できない。違う、悔しいのだ。せっかくの機会に持てる力を出せなかったわが身が口惜しいのだ。

 追いつき、その旨を精一杯伝える。自分は、もっとできるはずなのだ、と。その訴えに紀霊は苦笑して楽進を誘う。いいさ、と。

 鍛錬場で向き合う。紀霊と、立ち会う。……審判として立つ陳蘭が声を放つ。


「はじめ!」


 その声と同時に向かい合っていた姿が掻き消える。速い!

 辛うじて視線を下にやると、予想通り――その速度は予想以上――楽進の足を取りにくる姿が目に入る。

 あ、と思うまもなく引き倒されそうになる。背中から着地し、一瞬意識が飛びそうになる。が、一度経験した技だ。辛うじて身を捻り逃げようとする。

 刹那、拘束が解かれる。だが再度、拘束される。首に巻きつく大蛇を想起。そして楽進は意識を飛ばされていた。


 意識を取り戻した楽進は、更に幾度か挑んだがあっさりと組み伏せられた。それなりに鍛錬は積み重ねてきていたはずだが、相手にならなかった。ここまで絶望的な差を感じるのは初めてだった。

 この方なら、或いは。そう思い、問いかけてしまう。何度も手合わせを頂いただけでもあり得ないのに、更に図々しく甘えてしまう。


「紀霊殿の武に感服いたしました」

「あー、ま、初見の相手ならまあね、多少はね。実際負けることはないかな。だから今日使った技は内緒ってことで」


 なんでも彼が繰り出したのは、黄帝が記したという武術の指南書。「五輪の書」に記載されていた秘技であるという。

 神農が記したそれを「農徳新書」として世に出したのに対し、「五輪の書」を公開するつもりはないとのことである。


「……そのような秘中の秘を私などに……。ありがとうございます」

「いやいや、身体能力は楽進の方が上だからな。もっと強くなれるって」

「ありがとうございます。もっと強く、ですか……」


 そう言う楽進を不思議そうに紀霊は見る。そうだろう。埒もないことを楽進は言おうとしている。


「秘中の秘を見せていただいた以上、私も奥の手を見せたいと思います」


 そう言って、庭に向かう。気を練り上げる。丹田に集中し、全身にくまなく行き渡らせ、叫ぶ。これこそが楽進の奥の手。


「猛虎蹴撃!」


 ばきり、と鈍い音を立てて木が折れる。しばし、言葉を失っていた紀霊が口を開く。


「生身とは思えんな。もしかして、気。というやつか」

「は、お流石です。気を全身に纏わせ、強化しております」

「ふむ……もしかして、纏わせるだけでなく、放ったりできたりするか?」

「!……お察しの通り、です!」


 正直驚愕した。気を使えないであろう方が気弾まで推察されるとは、と。なるほど、一流の技は全てに通ずるという奴だろうか。もしや、この方なれば……。

 そんな思いが楽進を襲う。

 誰にも言ったことのない迷いを口に出させる。


「――正直分からないのです。武を鍛えても、気の鍛錬をしても、結局は破壊のわざです。

 結局、武の行き着くところはそんなものなのでしょうか。所詮人殺しの業なのでしょうか……」


 これは于禁や、李典にも語ったことのない懊悩だ。鍛えるほどに湧き上がる疑問。


「武を、鍛えてきました。ですが、その終着はどこにあるのでしょう。

 所詮、人殺しの業にしかすぎないのでしょうか。

 世のために武を振るいたくても、暴力にすぎないと言われたこともあります。

 この世に、平和を、安寧をもたらすことなどできないのでしょうか……」


 いつしか楽進は双眸から流れる涙を自覚した。殺されたから、殺す。そんな終わりのない円環のことわりからは逃れられないのだろうか。


「教えてください。武を求めるということは、怨讐を、背負うということなのでしょうか……」


 しばしの沈黙の後、力強い言葉が楽進を叩く。貫く。


「俺は人を殺さない。その怨念を殺す!」

「怨念を。殺す……」


 楽進には思いもよらない言葉であった。そんなこと、考えたこともなかった。

 みずからの拳で、そんなことができるのだろうか……。

 

「心にて、悪しき空間を絶つ!すなわち、断空拳!」

「断空拳……」


 自分の心が、意思が。怨念を、悪を絶つことができるというのか……。憎しみの、悲しみの連鎖を止めることができるというのか……。楽進の双眸からとめどなく熱いものが溢れる。

 そんな、そんなことができるのか、と。


「それこそが活人拳の奥義であり、真髄である…」

「活人……拳」


 人を殺すのではなく、活かすための拳。そう呟く紀霊はその背中は頼もしく。そして楽進に問うていたのだ。

 ついて来られるか、ならば黙って俺についてこい。そんなことをその背が語っていた。

 我知らず、応える。それは魂の叫び。


「ま、またご指導ください!

 私のことは凪、とお呼びください!」

「二郎で、いいとも」

「ありがとうございます!」


 楽進は踵を返し、駆け出す。心は羽根のように軽く、揺蕩たゆたう。

 そしてこの出会い、絆。それを楽進は終生忘れることはなかった。

凪は魔性の女。ギュインギュインと厨二回路を回す。まさにジョインジョインナギィ……。


分かる人だけ分かればいいというネタをちりばめております。

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