凡人に、焦がれる女
陸遜は若いながらも将来を嘱望される智謀の士である。のほほんとした人柄がその才気を隠しているが、その智謀は切れ味鋭く、思慮は深い。
彼女が袁家へ派遣される人員――人質となることについては彼女本人の意思もあったのだが、周瑜の強い推挙があった。だが、これには反対意見も根強かった。陸遜という人物はまだこの頃それほど声望は高くない。
よしんば周瑜をよく補佐しているとは思われても、それだけである。そのような若輩者を派遣すれば、袁家を軽んじているということになりはしないか。ここは周瑜が赴くべきであろう。
一時はその意見が大勢を占めたのである。孫家は江南で首魁的な地位にあると言っても、あくまで地方豪族のとりまとめでしかない。だから彼らの意見――孫家の頭脳たる周瑜を遠ざけてしまおうという魂胆――を無視することはできない。
それを救ったのは魯粛の一言だった。
「紀霊さんって、きつい女の人、あんまり好きじゃないんだよねー」
この一言で陸遜の派遣が決定づけられたのである。ちなみに発言の内容は完全に虚偽である。紀霊の好みはキツめの美人であるのだから周瑜はど真ん中ストライクなのである。
それはともかく、魯粛は周瑜と語ったものである。
「魯粛殿、お口添え感謝する」
「だってさー、周瑜さんがここを離れたら孫策さんを抑える人がいなくなっちゃうじゃん。
あの人を抑えられるのって、黄蓋さんか周瑜さんくらいでしょ?
二人ともいなくなったら何がどうなるか分かったもんじゃないよー」
「ふふ。……反論できんのが情けないところだな」
「それに実務面でも相当困ったことになるしねー。
まあ、豪族の皆さんとしてはその隙に乗じたいんだろうけどねえ」
「慧眼恐れ入るよ。いや、重ね重ねお恥ずかしい限りだ」
「いやいやいやいやいや。私としてはよく、これだけの逆風。それで江南を押さえきっているというのが驚きなんだけどね。実際さ」
打ち解けた口調、おどけた仕草。和やかな空気の中、互いに視線一つ、口調一つで牽制し合う。江南出身の両者は対照的であった。片や孫家の頭脳、片や袁紹家の利権の代表者。
この場に紀霊がいたら背丈であるとか肌の色であるとか胸部装甲についてツッコミを入れたであろうなあなどと魯粛は緊迫する空気の中で思う。
余裕があるのは別に優劣が故ではない。単に前提条件が違い過ぎるのだ。いわば金銀飛車角落ちを相手に強いているようなもの。
それでも真っ直ぐに立ち向かう周瑜の精神力。それを魯粛は内心賞賛する。だからといって手加減をすることはないのだが。
そして陸遜は二人の会話に割り込むことはできなかった。まだ、まだ足りない。まだこの二人のいる高みに自分は至っていない。だがいずれは。その思いは強い。そして袁家へ赴くことは自分にとって転機となる。そう確信していた。
……孫家は危機を乗り越え、江南での地歩を固めている。一般的にはそう認識されている。一面ではそれは正しい。が、実のところ危ういというのが周瑜と陸遜の共通認識。
かつて江南は深刻な食糧難に襲われていた。未曾有の飢餓、である。未来のための種籾すらその日の飢えをしのぐために費やされるのは常。それすら僥倖。まさに地獄絵図。文字通り骨肉相食む、人というモノの浅ましさ、生き汚さよ。
そこで起死回生の一手として黄蓋が袁家を頼ったのである。
孫堅というカリスマを失った直後でもあり、非常にリスクの高い一手であった。結果として袁家からの援助を引き出すことに成功はしたのだ。それは、いい。願ってもないことだった。
だがそのことが周瑜や陸遜の頭を悩ませることになったのである。幾度となく周瑜と陸遜は語り合ったものである。
「分からん。こちらから助けを請うておいて、なんだが。袁家がここまで手厚く援助してくれる理由が……皆目見当もつかない」
「そうですねぇ。孫家への援助というよりは江南全体への援助です。
それも、破格の」
「北はいい。公孫賛殿は袁紹殿の旧友だ。また、匈奴への備えということもある。
だが、江南へ袁家が投資する意義が分からない」
「張紘さんや魯粛さん、虞翻さんに顧雍さんは確かに江南出身ですが、公私混同をする方々でもありませんしぃ」
「うむ……」
どうせほっといても孫家が勢力を伸ばすのだから、恩を売って取り込んでしまえ。などという紀霊の雑な思惑を読める者がいたらそれは間違いなく人外か狂人の類であろう。
孫家の今の地位は袁家の後ろ盾あってのことである。であれば、その地位を奪うには袁家の、極端な話紀霊の歓心を買えばいい。そう、豪族達が思うのも自然なことであった。
そしてそれを周瑜と陸遜は正確に読んでいた。
読んでは、いたのだが。
「……打つ手、なし、か」
「江南の復興で手が一杯ですしぃ。
そちらの手を抜くと本末転倒ですからぁ」
「うむ、それこそ統治機能なし。と孫家を見限られてしまうことになりかねん」
答えなど出るはずもなく、二人して溜め息を盛大に漏らすのが常であった。
であるから、袁家への派遣が決まってからの陸遜は勤勉であった。呂蒙への事務の引継ぎをこなしつつ、情報を収集する。
「彼を知り、己を知らば百戦危うからず」
孫子の一節である。だから余りにも彼の情報が少ない。何を意図して孫家を助けるのか、その判断材料がない。だから、知らねばならない。その心根を、その根底を。
「うーん、正直私にもよくわかんないんだよねー。
でも、袁家では紀霊さんの道楽ってことになってるよー。
なにせ、うちの商会そのものが紀霊さんの道楽扱いだからねえ。
まあ、おかげで好き勝手できるのだけども、ね」
陸遜の問いにそう言って笑む魯粛。そしてこれだけの規模の商会が道楽扱いというのに陸遜は目眩を覚える。実際には、商というのは賤業として見下されているという面も大きいのではあるが、そこまでは流石に思い至らない。
ただ、袁家領内では江南への援助は大きく二つの見方があるようである。黄蓋が訴えた江南の窮状に胸を打たれたという見方。
もう一つは、単に黄蓋の色香に迷って紀霊がほいほいと手を差し伸べたというものである。前者は英雄譚を好む庶人に、後者は多少なりとも紀霊を知る士大夫にそれなりの説得力を持って受け入れられている。
それでも。袁家領内の大多数にとっては、江南がどうなろうと知ったことではないというのが実際のところなのであろう。陸遜はそう結論づける。きっと、紀霊が勝手に自分の財産と人手を使って何かしている。それくらいの認識なのであろう。
そして陸遜は紀霊の情報を集め続ける。逸話から風聞、果ては商会に出される命令書まで入手し、その書式から、筆跡から少しでも彼を理解しようとする。
そして袁家内部の情勢を知れば知るほど、彼の独断で江南への援助が行われているというのが明らかになる。
で、あるならば。
彼を理解し、その思考を辿ることで答えが出るだろう。
彼を理解し、その嗜好を探ることで彼の歓心を買えるだろう。
それは、もはや恋着と言ってもいいくらいの執着であった。
「くふ、ぅ……」
既に日課となった思索に耽る。目の前には可能な限り集めた紀霊の資料、紀霊の出した指示、書類。幾度となく読んだそれらに目を通す。風説から、指示の傾向から、筆跡から。
ありとあらゆる資料を手に取りながら、紐を解く。紀霊という男の紐を解く。
未知の書物を読むような、難解な暗号を解読するような、そんな興奮が陸遜を包む。既にその身は火照り、江南に珍しい白い肌は紅に染まっている。
知らず、白魚のような指がくちゅり、と水音をたてる。
視線は宙を彷徨い、意識が遠くなっていく。雑念が飛んでいく。
高ぶる身体とは対照的に、思考はいよいよ冷め切っていく。火のように燃え盛る身体、氷のように冴え渡る思索。炎と氷を併せ持つ。それが陸遜という希代の軍師の真髄であった。
悦楽に翻弄されればされるほどに、思考は研ぎ澄まされていく。やがて辿り着く恍惚を繰り返すほどに、思考すら超越した解が脳裏に弾けて消える。頂を越えるほどに、それに手が届きそうになる。忘我の果てに掴んだそれは、目覚めと共に去るのが常であった。
それでも、日ごと、夜ごとにつかめそうな気がしている。陸遜はその稀有なる脳髄の全てを振り絞り、紀霊という名の書物を読み解こうとしていたのである。本末と主客は転倒し、その中で陸遜は陶酔する。
周瑜が後継者と認めるほどの天賦の才。異なる世界では三国に冠する英雄に死をもたらすほどの智謀の冴え。その全身全霊を持って、彼女は、紀霊に恋焦がれるようになっていたのである。
◆◆◆
「いらっしゃっせー」
そしてその出会いは突然で、あっけなかった。南皮の城門を潜り、昼食を終えたあたりで一人の男が声をかけてきたのである。瞬時に警戒する孫権。のんびりと視線をやる陸遜。そして、歴戦の武人たる黄蓋は。
「なんじゃ、おぬし自ら出迎えか。
もう少し勿体ぶらんとありがたみがなくなるぞ」
「いや、歓迎してる証と思ってくれよ。しかし相変わらずけしからんおっぱいだな。
目の毒、目の毒」
そう言ってやにさがる男は傍目にもだらしなかった。しかし、陸遜はそれどころではない。これまで恋焦がれていた男が突然現れたのである。
そう、その口調。そして発言内容でその言の葉の主を認識し、燃え盛る。
だから。目で、耳で、可能な限り紀霊の情報を受信する。蓄える。味わう。
紀霊の視線が自分に突き刺さる。遠慮のない視線が自分の身体を嘗め回す。陸遜は歓喜に打ち震えながら、男の思考を、嗜好を探る。
足りない。視覚と聴覚では足りない。触覚で、嗅覚で、味覚で。
五感の全てをもってこの男を味わいつくしたい。味わわなければ。
どろどろとした欲望が陸遜の身体を灼く。嗚呼、つまり。
自分は、この男に抱かれなければならない。一つにならねばならない。男女が分かり合うにはそれが一番手っ取り早い。
まだ、まだ駄目だ。冴え渡る頭はあくまで冷静に判断する。自分は所詮無名の士である。
この男に認められるのが先だ。容色と肉体についてはいささかの自信がある。が、それだけではこの男は心を開かないであろう。色仕掛けなど慣れきっていると知っている。
いかにしてこの男に自分を刻み付けるか。火照った身体を持て余しつつ、あくまで陸遜の思考は澄み切っていた。




