凡人と顔家の姫
「困ります!」
「俺は一向に困らんよ。だからそこをどけよ」
「いえ、困りますから!」
「それじゃ待たせてもらうとするかな」
さて、斗詩である。猪々子があれこれ言ってたくらいだからな。大口叩いた手前、フォローをせんといかんだろう。
思い立ったが吉日とばかりに俺は顔家を訪問していた。こう、こっそりと忍び込んでやろうかとも思ったのだが流石に自重した。
時既に夜半。それをしたらまるで夜這いになっちまうからして。世間体を考えて裏口からの侵入を試みたのだが、使用人に留め置きされている俺なのである。
うむ、不審人物全開である。やはりこっそりと忍び込んだ方がよかったか?
まあ、どっちにしろ一歩間違えれば醜聞となりかねないのではあるがね。どうせ俺が何やかやとやっちまうのは今に始まったことではないし、顔家の家人もわきまえているだろうから漏れることはないだろう。きっと、多分。いやさ、メイビー。
何故に訪問がこの時刻かというと、一応斗詩の素行聞き取りをそれとなくやってたからだ。
どうやら、斗詩が元気がないというのは本当らしい。精力的に仕事はこなしているものの、表情が冴えない、憂いを帯びているなど証言多数だった。やっぱり何か抱え込んでるんだろうな。いや、体調不良であるという線もなきにしもあらずではあるのだが。
「やだ、二郎さん……ほんとにいらっしゃったのですか」
常よりもカジュアルで……いけませんよそんなに太腿とか二の腕露出するような普段着。まあ、俺にとっては目の保養ではあるのだけんども。けしからん。実にけしからん。こうして改めて見ると、だ。斗詩のスタイルは端的に言って。
……立派に育ったなあ。などと思う俺なのである。
「おう、いい酒手に入ったからさ、一緒に飲もうかなって、さ」
「え?えと、ええと。その、……はい」
こくりと頷く斗詩に安心する。いや、これで嫌ですとか言われたら俺は間抜けの塊であるからして。あと、つらたんですよ。
「ここじゃ、なんなのでこちらにどうぞ……」
通されたのは、斗詩の私室であった。というか、寝室であった。いや、それは流石にまずくね?
「いやいやいや、ここは流石にまずいだろうよ」
「こんな時刻に女の子を訪ねておいてそれはないなあ、って思うんですけど」
にこり、と小悪魔的な笑みを斗詩が浮かべる。いや、そんな表情見たことなかったんですけど。こ、これがギャップ萌えという奴か?いやいやいやいや。
「だって二郎さん、深酒になったらそこらで寝ちゃうじゃないですか。だったら最初からそのつもりの方が楽しく呑めるでしょ?」
くすくす、と笑む斗詩は心底楽しそうで、来た甲斐があったというものである。
うむ。手酌酒も悪くないけど、美少女のお酌が格別美味なのは確定的に明らか。数少ない世界の真理の一つなのである。
◆◆◆
「はぁ……」
溜め息を一つ吐いて、寝台に横たわる。全身を覆う疲労感に徒労感。それでも、眠れない。しょうがないから仕事に逃避している。没頭するあまり、気がつくと向こう一週間はなにもしなくてもよくなった。
でも、何かしていないと、落ち着かない。私室に居たって、やることがあるわけでもない。阿蘇阿蘇の最新号を買ったはいいけど、内容なんて一つも頭に入ってこない。
張勲との邂逅、会談。それが顔良に及ぼした影響は大きい。動けないのだ。そして誰に相談することもできない。できるはずもない。
そして、もはや自分がどうしたいのかすら分からなくなってしまっている。
「はあ……」
のそり、と起き上がり、引き出しから紙の束を取り出す。
「二郎さん……」
彼の絵姿である。大切に、慎重に扱っているのである。だが幾度も手に取っているからだろう。紙が傷んできている、色も褪せてきている。それでも、彼女の拠り所はこれしかない。ないのだ。
なんなんだろう。自分は何をしているんだろう。何をするべきなんだろう。わからない。わからない。
不意に張勲の顔が浮かぶ。
「ずるい……な」
こんなにも、自分は紀霊が好きなのに。あんなにも小さい時から慕っていたのに。あの人は横から現れてあっさりと彼の横でにこにこ笑っている。
そんなのって、ない。
自分の方が彼のことをたくさん知ってる。たくさん想ってる。絶対に。
ずきり、と胸が痛む。
そんな時だった。家人から、来客が告げられたのは。正直、今は誰にも会いたくない。そんな気分だったのだが。
来客の名前を聞いた顔良は飛び起きて身づくろいを始める。これは夢じゃないのだろうかと疑いを胸に抱きながらも、可及的速やかに。
「おう、いい酒手に入ったからさ、一緒に飲もうぜ」
爽やかで、なおかつ武将に必須な野性味を残した笑みに顔良は心が蕩けそうになるのを堪える。いや、その心根は既に蕩けきっていたのかもしれないが。
だが、それどころではない。駄目だ。髪はぼさぼさだし、最近よく眠れてないからお肌だって万全じゃないのだ。
ひょっとしたら目の下に隈だってできてるかもしれない。最低限のお化粧くらいしてくればよかったと今更ながら後悔しきりな顔良である。
手酌で杯を進めようとしたのを制止して酌をする。ちら、と見ると嬉しそうな笑みを浮かべてくれる。じわり、と幸福感が胸を満たす。
それまでの、ちりちりとした痛みを覆ってなお甘く。更に、広がる。満たされる。満たされていく。
そして、至る。如何にこの思いが強くて深いかを理解する。だって。一緒にいてくれるだけで、こんなにも嬉しい。
とりとめのない話、どうでもいい話。彼が紡ぐ言の葉が、どうしようもなく、愛しい。自分を見てくれるのが、嬉しい。
だから、なんとなく来訪の意図も察せられる。その、至った結論が嬉しく、少しさびしい。だからこれはお酒のせいなのだ。そう、思うことにする。
「なーんか、悩んでるんだろ?ほれ、俺に言ってごらん?」
その言葉に甘えることにする。だっていつだって、そうだったのだ。袁紹や文醜ばかりが彼に遊んでもらって。でも、もっと構ってほしいなんて言えなくて。ただ見つめることしかできなくても。
彼はいつだって私を見てくれていた。ためらう自分を輪の中に引きずり込んでくれたのだ。
そう、いつだって彼は、自分を見てくれていたのだ。――何か、心が軽くなった気がする。一体自分は何を悩んでいたんだろう、と。
「ふふ、ありがとうございます。
お言葉に甘えちゃいますね」
「おうよ。ない頭搾ってやろうじゃないの」
そんな、なんでもないやり取りが、本当に嬉しい。だから甘えよう。彼を困らせてやろう。……めんどくさいと思われないくらいの範囲で。
「えっと、張勲さんからお話を頂いたんです。
何かしら、思うところがあるらしくて。
でも、私はそれに納得はできないんです。
なのに、張勲さんの描く絵図は私も、その、いいなあ、なんて思っちゃうんです」
言いながらも支離滅裂だな、と内心苦笑する。それでも一生懸命に聞いてくれているのが、本当に嬉しい。
「あの、やり方とかはどうかな、と思うんです。
でも、反対する理由もなくって。
私はどうしたらいいのかなって」
相当ぼかしている……というか、ぼかし過ぎて何を言っているのか分からないだろう。大体口にしている自分だって何が言いたいか分からなくなってきているのだ。
「んー、そうだなあ。正直、よくわかんねえけどさ。
多分、七乃は斗詩に協力してほしいって思ってるんじゃねえかな」
「え?」
それは思いもよらない言葉だった。
言葉を選びながら、だろう。慎重に、それでも誠実に顔良に向かい合ってくれている。それが嬉しい。
「七乃もなあ。素直にこうしたいから助けて、って言えない女だからなあ。
正直、斗詩の影響力が大きいからそういう話を持っていったんじゃねえかな」
「私の、影響力、ですか」
「おう、基本的にあいつは自分の計画とか思惑は漏らさないしな。
それをあえて斗詩に言ったってことは、斗詩の動き次第ではぶっ壊れると思ったんじゃねえかな」
それは思ってもみなかったことである。だが、そう思うと色々納得がいく。つまり、張勲が打ち込んだ楔はたったの一つ。
本当に困ることはその一つ。後はどうなってもよかったのだろう。
つまり、自分の抜け駆けを恐れていたのだ。そしてそれを見事に封殺してのけたのだ。
うん、お見事としか言えないな、と素直に思える。へな、と身体から力が抜ける。
「お、おい?斗詩?」
慌てたように自分を気遣ってくれるのが、嬉しい。その気持ちが溢れる。零れる。漏れる。涙が、嗚咽が。そして、思いが決壊する。
「よしよし。斗詩は泣き虫だなあ。
ちっちゃい頃から変わらないなあ」
そう言って背中を撫でてくれる。優しく抱きしめてくれる。その温もりに、匂いに包まれて安心する。
でも、自分はもうちっちゃい女の子じゃない。そんな思いを込めて、ぎゅ、としがみつく。
「ん?斗詩?」
きゅ、と抱きしめてくれるその優しさに甘えてしまおう。
「私は、今でもちっちゃい斗詩のままですか?
引っ込み思案な女の子のままですか?
そうなのかもしれません。
私の想いはあの頃から変わっていません。
ずっと。ずっとお慕いしてました。お慕いしてます」
言った。言ってしまった。……一生胸に秘めていこうと思っていたのに。秘めていこうと思っていたのに。
「え、あ。え?えと。本気、……か?」
「はい。――ご迷惑ですか?」
「や、そんなことはない。ないんだ。ないんだけど。まずいだろ色々」
心底慌てた様子でそんなことを言うのだ、この男は。だからすんなりと胸に落ちる。絡新婦の意図が判った気がする。
なるほど、糸の繰手なわけである。正直、掌の上だという自覚はある。だが、それでも、と思う。
それでも、自分はこの思いを諦めたくないのだ。だから、振り絞る。勇気を。甘える。彼に。
「内緒にすれば、いいんですよ」
「ちょ、斗詩……。それって」
表情を引きつらせる男にしなだれかかってやる。拒まれないのが、嬉しい。伝わる温もりが、熱くて、嬉しい。
「いやです。二郎さん以外の男の方に抱かれるなんて。
そりゃ、将来的には婿を取らないといけないかもしれません。
でも、せめて。せめて初めてくらいは二郎さんがいいです。二郎さんじゃないと嫌です」
「と、斗詩……」
「はしたない、と自分でも思います。それでも、それでも私、二郎さんじゃないと、やです」
もう、強がりはここまでである。言うべきことは言ってしまった。後は裁きを待つだけ。だから、がくがくと身体が震えて、一気に不安になるのも仕方ないこと。仕方ないこと。仕方ないのだ。
返答が聞きたい、でも聞きたくない。ぎゅ、と目を閉じて赤子のように身を縮みこませる。
そんな身体が、ぎゅ、と力強く、熱く抱きしめられる。ちっちゃい頃から包んでくれていた腕だ。その力強さに、溺れた。荒々しく蹂躙されても、怖くなかった。むしろ、嬉しかった。
もう、戻れない。そんな背徳感に酔う余裕すら、あった。