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江南の風

「いや、感慨深いものがあるのう」


 呟きながら黄蓋は嘆息する。ここは長沙の町。言わずと知れた孫家の根拠地である。つい最近までは水害の爪痕が色濃く残されていたものだ。田畑が荒れ、食料がなくなり民が流れる。

 流れた民は食料を求め北に流れ、或いは賊となる。だが、それもまだ動くことのできる余裕がある者のみ。飢えて死ぬ者も相当数出ていた。……それ以上は言うまい。

 まさしく悪循環、地獄絵図とはこのことであったのだが。それがどうだ。


「んー、皆が頑張ったからじゃないのかな?」


 腰まで垂れる黒髪をふぁさっとかきあげて、さらっと言う少女は魯粛。袁家――より正確に言えば、紀霊により派遣された人物である。母流龍九商会の責任者、支店長だとかなんとか言っていたか。見た目は幼女、頭脳はとびっきり!という自己紹介についてはどうかと思うが、その能力については疑問を挟む余地はない俊英である。


「なに、袁家の援助のおかげというのは理解しておるよ。

 孫家は忘恩の徒ではない。きっちり恩は返すとも」

「いいのいいの、そんなに構えてなくても、さ。

 黄蓋さんが義理堅いのは分かってるよー。

 それにこっちも儲けさせてもらってるしねー」


 そういって笑うさまは無邪気なもの。だが、魯粛の影響力は日々増していっている。当初は袁家からのお目付け役として胡散臭い目で見る者が多かったのは確かだ。しかし、彼女らが運んできた大量の食料、資金。

 何より彼女らの誠心と勤勉さが認められ、すっかり孫家に受け入れられている。元々実力主義な孫家においては自然な流れではあるのだが。


「まったく、頭が下がる思いじゃ。

 策殿もお主らのように勤勉ならのう」

「あははー、確かにねー。

 でもあれはあれで組織の長としては一つの形だと思うなー。

 組織の長がばたばたと駆けずり回るとさ、下っ端は何事かって思うしね」


 それにしても惜しい、と黄蓋は内心幾度目かの歯噛みをする。

 この識見、人格だ。折角江南出身なのだから孫家に仕官してくれていれば、どれだけ力になっていたかと思う。だが、それは思うだけ無駄なことでもある。先立つものが無ければいかに有能な士がいても活かせない。実際、袁家からの援助があと一月遅ければどうなっていたことか。


「でもまあ、江南に来れてよかったよー。

 私の実家もこっちだったからねえ。

 張紘に呼ばれて商会の仕事を始めてさ、そりゃ楽しかったんだけど。

 窮状は気になってたからさー」


 感傷、いや、未練か。そんなことを黄蓋は思う。もし、孫家にもう少しの余力があったならば、というのは。


「だからまあ、こっちに派遣してくれた紀霊さんには感謝、だねー」


 どこか遠い目で魯粛は呟く。

 そしてその言葉でまずは満足しておこうと黄蓋は思う。今の状況は本当に僥倖であるのだからして。


◆◆◆


「た、確かにありがたいが、本当にこれだけの物資を提供していただけるのか……?」


 周瑜が魯粛に問いかける。手にした目録をすさまじい速度で確認する。これで四度目か、とどこか他人事と思いながら魯粛はその形相に色々と察する。


「そだよー、とりあえず急場を凌ぐためにはそれくらいは必要でしょ?

 第二陣の内容は実態を見て、かな」

「これだけの物をすぐに用意し、運べるとは。

 隆盛は聞きしに勝るものだな」


 流石の周瑜も嘆息する。実際孫家の家計は火の車である。むしろよく回っていると思うくらいのもの。武辺者と自称する黄蓋ですらそう思うのである。実務を取り仕切る周瑜の気苦労はいかほどのものか。


「あくまでこれは母流龍九商会から、だからね。そこは押さえておいてね。

 それとこれは別に提供するわけじゃないからね?

 きっちり利子付けて返してもらうからねー」

「それは……返済まで百年はかかりそうだな……」


 深く、深く嘆息する周瑜である。その懊悩を目にして黄蓋は、美人が台無しじゃのう、などとお気楽な感想を抱くのだが。

 そんな周瑜に魯粛が笑いかける。


「だいじょぶだいじょぶだってー。

 一応、こっちの試算では十年くらいを目処に完済できる見込みだよー」

「そんな馬鹿な。民からどれだけ搾取するというのだ!」

「そーんなに凄まないでよー。きちんと事業計画書と返済計画書があるからー。

 まあ、あくまで試算だからもっと短くなる可能性もあるよー」


 魯粛の差し出した書類に目を通す周瑜。眉間のしわが濃くなり、薄くなり、また、それまでよりも深くなる。そして表情は険しいまま。


「つくづく袁家というのはとんでもないな」

「どもどもー、お褒めに預かり光栄だね」


 なんとも対照的な表情ではある。一方は渋面、一方は笑顔。


「しかしこれでは随分そちらの手出しも多いのでは?」

「先行投資ってやつだね。だからいいの。

 母流龍九商会うちの理念は、売り手よし・買い手よし・世間よしの三方よしだからねー」

「ふむ……」


 唸る周瑜に追い打ちが来る。


「それにね、別に孫家に対して含むところもないからさ。

 あんまり負債で縛って暴発される方が厄介だしね」


 さらりと言いよるわ、と黄蓋は苦笑する。一瞬険しくなる周瑜の表情に、まだまだ未熟じゃの、と苦笑する。まあ、それもまた経験というものだ。


 当然、魯粛も周瑜の表情には気が付いている。放っておいても収まるとこには収まるのだろうが……。


「どうせこちらに選択の余地などないんじゃ。

 あちらの条件丸呑みの方がよかろう」

「駄目駄目ー。

 こういうのは最初が肝心なんだからきっちりと条件を確認してもらわないと。

 でないと信頼関係なんて築けやしないよー」


 魯粛の注意をひきつける。それが数秒であっても周瑜ならば立て直すだろう。


「なるほどのう。まあ、確認作業はわしには向いておらん、冥琳任せたぞ。

 わしはそういう内向きのことはよく分からんのでな」


 そう言って席を立つ。これでまた十数秒くらいは稼げるか?と思い周瑜に視線を流すと、申し訳なさそうに目礼を返してくる。

 よし、これで大丈夫だとばかりに黄蓋はその場を去る。今は亡き孫堅の墓参りにでも往くか、と。墓参りには酒が必須だなあなどと思いながら。


◆◆◆


「すまなかったな。少々こちらの対応が良くなかった。

 この内容で大筋に異存はない。

 これからよろしく頼む」

「こちらこそよろしくー。

 ちなみに一つだけ聞きたいんだけど」


 視線を合わせていた魯粛の目線が下がっていき、一点を凝視する。所謂ガン見、である。何を聞かれるのかと身構える周瑜であるのだが。


「黄蓋さんもそうなんだけどさ。どうして孫家の人には巨乳が多いの?

 江南出身者として解せないんだけど」


 声色の真剣さと発言内容の乖離に周瑜は口元を綻ばせる。


「なに、孫家では魯粛殿の持つそれは希少価値があるものさ。

 むしろ誇っていいと思うぞ?」

「うわー。持てる者からの上から目線だよそれ」

「なに、肩こりの種というだけのものさ。持てるからこその悩みというのもあるのさ」


 ちらり、と視線を交わし、苦笑しあう。


「世の中、ままならないものだよねー」


 魯粛の言葉に周瑜は心底から頷くのであった。


◆◆◆


「魯粛殿はどう思われる?」


 議事を進行していた周瑜の言葉に場がシン、と静まりかえる。議題は長沙の復興都市計画と周囲の豪族への対応等の基本方針である。意欲的な政策が並ぶが、それもこれも独力では到底果たせぬものばかり。つまりはスポンサーの代弁者たる魯粛の権限の大きさたるや、である。

 探るような、窺うような、睨むような。様々な視線を受けながら魯粛は小揺るぎもしない。ここ江南で、或いは南皮で。彼女の潜った修羅場は数知れない。


「大筋で問題ないと思うよー」


 魯粛の声に、場の空気が僅かに弛緩する。無論、魯粛が言えばすべての案を没にすることも可能である。孫家の首魁。その首の挿げ替えすら可能であろう。いや、そんなことはしないのだが。伝家の宝刀は抜かないことに意味があるのだ。

 実際、孫家と無駄に対立しても意味はないしねー。と魯粛は内心苦笑する。というか、方針は基本融和友好が既定路線。

 紀霊曰く「戦闘民族」たる孫家と良好な関係を築くのが魯粛のメイン任務である。もちろん、江南の復興も重要ではある。だが、それはあくまでも手段であって目的ではない。

 そんな紀霊の言に魯粛は内心思う所がないではないのだが。江南出身者としては。

 だが、いざ孫家の首に鈴をつけようとして痛感する。孫家は控え目に言って化物揃いだ。包み隠さずに紀霊に主要人物の評を伝えている。

 曰く、孫策は本能と勘で勝っちゃう戦争の天才。

 曰く、周瑜は王佐の才と言っていいほど万能の天才。

 曰く、黄蓋は歴戦の名将で弓術の達人。

 曰く、甘寧は江賊出身にて水軍の達人。

 曰く、周泰は諜報の専門家で超一流の密偵。


 未来はないと去った江南にこのような勢力があったとは、と内心で苦笑したものだ。もし、自分が江南にずっといたら馳せ参じてたであろうと思うほどに、だ。

 とはいえ、今の自分は母流龍九商会江南支店の支店長。ここは間違いなく鉄火場。血が流れない戦場。だからこそ分かる。孫家と敵対しても百害あって一利なし。孫家の潜在力を遠い南皮にて見抜く紀霊の慧眼こそ評価されるべきであろう。


「一つだけお願いがあるんだけど」


 その声に再び緊張が走る。この場合お願いとは命令に等しい。それがいかなるものか。


「求人するから、そのお手伝いだけお願いするねー。

 物資の搬入と管理で手一杯なんだよー」

「求人、とは募兵ということか?」


 いくらか――かなり硬い声で甘寧が問いかける。やだなあ、目が怖いよと魯粛は肩を竦める。


「違うってば。母流龍九商会では街道と港湾施設の整備を最優先で取り組むからさ。

 その人夫を集める手伝いをしてほしいんだ」

「道と港を作る?いや、構わんが、商会とは商売をするのではないのか?」


 訝しげな甘寧。まあ、そうだよねえ、と魯粛はここからが本番と気を引き締める。


「うん、商売というのは元々古代商の国の人が物を生産地から消費地へと運んだことにちなんでるんだ。

 つまり物流は商売の基本ってことだね。そしてその物流を円滑にするためには施設が必要なんだ。

 荒地を馬車は進めないし、船は崖には停泊できないからね。

 先行投資ってやつだよ」


 もちろんそれだけではない。雇用を創出することで困窮している民の糊口を凌がせるのだ。更に、雇用された人に食事を配給、或いは販売するための人員も必要だ。お食事処的なものを自然発生させるには手元の食糧を何らかの形で市中に流さなければならないのだが。これを考えるのはまあ、顧雍や虞翻という頼りになる人材の役割だからして。近日中になんとかなるのは確定的に明らかである。

 でも、そこまで説明する必要はないしするつもりもない。分かる人だけ分かればいいのだ。あまり民政にまで口出しするつもりもない。

 さて、と視線を回したら周瑜と目が合った。ニヤリ、とニコリの中間くらいの実に魅力的な笑みを浮かべてくる。その笑みは虚勢か、それとも。


「まー、考えるだけ無駄だね。あんなのとやり合えとか。紀霊さんってあれで結構人使い荒いよねー」


 そう呟く魯粛の口元は、楽しげな笑みを浮かべていた。

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