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凡人の肖像

「アーニーキー!」


 文醜は声と共に紀霊の執務室に飛び込む。


「おー、どうした猪々子?」


 サボりか?と紀霊が目で問うてくるのを認めて抗議する。


「あー、ひっでーなー。違うって、今日はちゃんとお仕事だって!」

「なん……だと……!」


 それを聞いた紀霊が目を見開くのを文醜は満足げに頷く。そして大成功!とばかりに胸を張る。なお、胸部装甲の厚みについては親友である顔良には遠く及ばないのは衆知の事実である。

 まあ、本人は全く気にしていないのだが。


「だってさー、ほら、アニキって袁術様の守役になったろー?

 するとあれだ。麗羽様とハバツが違うからテキタイカンケイになりやすいんだろ?

 でも、上同士がキンミツな関係なら問題ないって麹義さんが言ってた。

 つまり、アニキと仲良くするのはアタイのお仕事ってことだ!」

「大体合ってるけど、猪々子お前よく分かってないだろ。んで大義名分作っただけで仕事からの逃避に来てんじゃねえかよ」


 こつり、と文醜の頭を小突く。ぞんざいな扱い。それが嬉しい。うひひ、と笑ってじゃれつく。構ってオーラ全開だな、などと苦笑する紀霊の様子に文醜は持参した爆弾を投下する。


「アニキー、これ、見た?」


 そう言って文醜は懐から一枚の紙を取り出す。


「お、おう……。つーか俺が描かせたから、なあ……」


 なんとも微妙な顔つきでぼそぼそと呟く紀霊の顔を見て文醜は満足そうに大笑する。

 そして文醜が取り出したのは、人気沸騰中の姿絵だ。


「最初は誰だよこれって笑っちゃったよ」

「うるせーよ。その方が売れるんだよ。お陰で面会希望者が増えたよ。

 そんで、俺をみると『あぁ……』って微妙な顔しやがんだよ」


 ぶすっとした顔でぼやく紀霊を見て文醜は更に呵呵大笑。


 見る目のない奴らだなあ、と文醜は思う。彼女が思うに、紀霊の魅力は別に顔の良さじゃないのである。いや、別に不細工ってわけではないのだ。

 内心フォローしつつ、思う。紀霊の魅力とは……全体の雰囲気であろうか。最近特にぐぐっと格好良くなったし、どこがどう、とは説明しにくいなあと煩悶する。まあ、ちょっと気に食わないのは、だ。ちっちゃい頃から恰好いいなあ、と思っていた男が急に持ち上げられていて、なんだかもやもやするのである。自分の方が先に目をつけていたのだぞ、と。

 なお、袁紹と顔良は同着だからいいか、と思っている。


「見る目がないよなー、アニキはちゃんと格好いいのにさー」


 あれこれと複雑ながら、概ね憤懣というベクトルに収斂される感情を隠そうともしない文醜の物言いに紀霊は苦笑し、くしゃ、と文醜の頭を撫でまわす。その手つきが嬉しくて、自然に頬が緩んでしまう。


「ま、そう言ってくれるのは猪々子くらいだよ。さあ、この饅頭をお食べ」

「おー、ありがとー」


 貰った饅頭にかぶりつきながら、文醜は思う。やっぱりアニキは最高だな、と。

 そして、だ。散々、馬鹿にしたけど、アニキの姿絵、全部持ってるって言ったらば、どんな顔するだろうかと。


◆◆◆


「ふぅ……」


 顔良は軽く伸びをして、溜め息を漏らす。ようやく今日のお仕事の目処が立ったのだ。他の幼馴染よりも、かなり早い段階で家を継いでからは彼女の予想以上に多忙であった。

 量はそれほどでもない。だが、自分の決断で家が動くというのは大変なことだ。

 本当なら、文ちゃんに誘われるままに二郎さんのとこに遊びに行きたかったんだけどな、とため息をもう一つ。ううん、と伸びを一つ。そして。

 そ、と引き出しから綴じられた紙の束を取り出す。色鮮やかな絵姿。どれもこれも紀霊を描写したものである。文醜がわざわざ、親友である彼女のために店に並んで買ってきてくれたものだ。


「文ちゃんは『こんなのアニキじゃねーよな』とか言って大笑いしてたけどね……。うん、文ちゃんとは違う意味で私もそう思う。だって……二郎さんはもっと格好いいもの」


 それでも、仕事の合間に取り出しては眺めてしまう。この気持ちに気づいたのはいつからだろう。いつから懸想していたのだろう。


「ふぅ……」


 ちっちゃい頃は、憧れのお兄さんだった。でも、文醜みたいにお兄さん的な呼びかけをするのは嫌だった。

 でも、お兄ちゃん、って呼んでみたかった。

 でも、お兄ちゃんと呼んだら、彼との関係が兄と妹になってしまう気がしてしまって。


「お兄ちゃん、かぁ……」


 顔良は、思う。ちっちゃい頃は陳蘭と紀霊はきっと結婚するのだと思っていた。その陳蘭も顔良達の面倒を見てくれたお姉ちゃん的な存在である。二人のやり取りはとっても自然で、割って入る余地なんてなかったのだ。二人が男女の仲になったと知っても、ああ、そうかと納得したものだ。

 むしろ遅かったと言ってもいいんじゃないかな?と顔良は思うのだ。傍から見ても、陳蘭の紀霊への想いは明らかで。真っ直ぐで。応援していたのだ。

 だから、良かった、と心から祝える。でも、それは無理な話でもあると理解している。紀霊に限らず、顔良や文醜。勿論袁紹もだが、その婚姻というのには政略的な意味合いが大きい。

 紀霊のお嫁さんになるというのは顔良の幼い夢でもあった。でも、顔良や袁紹はある意味、陳蘭よりも駄目なのだ。袁家の武を司る四家、その均衡が崩れてしまう。紀家が勢力を突出させてしまう。それを袁家は許さないだろう。それは自明の理であるのだ。そう、そうやって顔良は蓋をするのだ。


「うぅん」


 どうも、仕事を再開する気にならないな、と顔良は思索を続ける。現実逃避とも言うが。そしてその議題は対匈奴戦。或いは匈奴戦役と言われる過去の激戦である。

 武家四家中三家の当主が戦死するという袁家最大の戦い。そして間違いなく紀家前当主は大戦の英雄だった。少数の精鋭で匈奴の本陣を叩き、ハーンを討ち取り生還。功績から行っても袁家軍の頂点に立ってもおかしくはなかった。いや、それこそが既定路線であったのだ。

 だが、四家の均衡が崩れることを防ぐために彼は一線から退いたのだ。それでも、実務から遠ざかるのではなく、現場主義を貫いた。袁家領内を自ら巡回し、治安の回復に努めたのだ。

 地味で、成果も中々目に見えない。だが、実務をするとその重要さが分かる。分かるのだ。戦後の袁家の復興は紀家当主とその配下が治安の維持に心血を注いだからだ、と。

 今は昼行灯なんて言われることもあるけど、実務をしたことがある人は皆分かっている。紀家当主は、実際たいした人物なのだ。


「はぁ……」


 思考がぶれたな、と思う。でも、確かなことがある。顔家当主になる自分と、紀家当主となる彼が結ばれることはないのだ。決して、ないのだ。

 でも、だ。この、胸を焼き尽くしそうな想いは、どこに行ってしまうんだろう。

 どうなってしまうのだろう。


 そして、自分はどうしたいのだろうか、と自問する顔良であった。



◆◆◆


「どもですー。失礼しますよっと」


 聞きなれた、どこか能天気な声とともに扉が開かれる。袁紹はその声に仕事の手を止め、席を立って出迎える。次期袁家当主が確実とされる袁紹がそこまで礼を尽くす相手はそう多くはない。


「あーら、二郎さん、どうしたんですの?」


 紀家の御曹司たる紀霊その人である。袁紹との関係はすこぶる良好であったのだが、最近は周囲のいらぬ気遣い、勘ぐりがある。それによって彼との関係が微妙になりつつあったのだ。それを察知したのだろうか、彼からの訪問は意外であった。


「いや、いい茶葉が手に入ったのでお裾分けに、ね。

 それに最近麗羽様の顔を見てなかったですし」


 袁術の守り役とされ、彼は袁紹派閥からは袁術派と見なされていた。これまでの蜜月と言っていい関係が仇となり、可愛さ余ってなんとやら。袁紹の取り巻きからは仇敵のように扱うような言も出ていたのである。

 ぱん、と柏手を一つ。袁紹は取り巻き達に声をかける。それは、紀霊が政敵ではないという何よりの主張。色々とこじれる前に両者の仲は変わらずということを喧伝するには中々の妙手である。


「あら、殊勝な心がけですわね。

 では、小休止としましょうか、みなさん、二郎さんがお茶を差し入れてくださいましたわ」


 適度な休憩は仕事の能率を上げる。そんな言い訳めいた言葉を鹿爪らしく語ってくれたのも懐かしく感じる。何より、自分に会いに来てくれたということが純粋に嬉しかった。


「では、二郎さん、こちらへ。お茶菓子はこちらが用意いたしますわ」


 浮き立つ心を抑えつつ、青年を案内する。袁紹のその反応に、紀霊に鋭い目線を向けてた官僚が表情を消す。なるほど、袁紹と紀霊。二人の関係は絶えたわけではないのかと。

 それを知ってか知らずか。袁紹の足取りは、浮き立つようであった。


「あら、やはり二郎さんがお持ちになる茶葉は絶品ですわね」

「まあ、伝手がありますからねえ」

「母流龍九商会ですわね。ふふ、色々。本当に色々とされてるようで」


 にんまり、と笑いかける袁紹。紀霊は引きつった笑みで応える。


「あー、ええと。まさか」


 取り出した、それ――紀霊を美化した姿絵――を見て。案の定、紀霊は頭を抱える。

 その様がおかしくて、笑いが漏れる。ひとしきり笑った後に、表情を改める。これはきちんと言っておかないといけないことなのだ。袁家を担う者として。姉として。そして――。


「二郎さん。美羽さんを、よろしくお願いしますね」

「はい、任されましたとも 」


 即答に袁紹は安心する。この人がいれば、妹も間違った方向にはいかないだろう。そんな安心感がある。

 そしてふと、思う。この人がいなかったら自分はどうなっていたのだろう。


 今だから分かる。幼い日々は、間違いなくこの青年によって守られていたのだと。

 幼い頃から、周囲は自分を利用しようとする大人たちばかりだった。田豊の屋敷に度々遊びに行ったのは間違いなくこの青年に会うためだった。だって彼はけして自分を道具扱いしなかったから。

 遊んでもらった。色々教えてもらった。自然、田豊に師事することになった。実際、気難しい老人だった。きっかけがなかったならば自分から近づくことはなかったろう。むしろ、遠ざけていたのではないだろうか。

 田豊という後ろ盾の大きさに気づいたのも最近だ。あの青年は間違いなく自分の世界を広げてくれた。目を開けてくれた。彼と出会わなければ、自分は、猪々子と斗詩しか信じることができず、手足たる官僚を疑い、迷走を繰り返したのではないだろうか。


 そして袁術は自分以上に悪意の坩堝るつぼで育っていくのだ。何せ、守り役の片一方はあの張家の跡取り。それでも、この青年がいれば、いてくれたら、きっと大丈夫。大丈夫だ。いつだって、青年は憧れのヒーローなのだから。


「まあ、なんにせよ俺がいますから。美羽様についてはお任せくださいな」

「二郎さんがそうまでおっしゃいますもの。何も心配することはありませんわね」


 おーほっほと笑う袁紹を見て、取り巻きたちは確信する。紀家の当主と袁紹の繋がりは消えてはいないのだと。

 一挙手一投足に意味合いが出る。それが彼等の生きる世界である。



◆◆◆


「やれやれ。二郎め、好き勝手言いやがって」


 苦笑交じりのその声に沮授は深く頷く。全く、困ったものだ、と。

 ……まあ、声の主である張紘にしても紀霊に呼ばれたらば否やはないのであるが。

 思えば長い付き合いになったものだ、と沮授は思う。師である田豊が高く評価をしたということで、子供心に嫉妬したこともあるのだ。今でも初対面の時のことは思い出す。


「お前が沮授か?ものっそい頭いいんだってな!俺のことは二郎と呼んでくれ!」


 初対面での真名の押し付けである。これには師である田豊も苦笑いであった。流石の沮授も面食らってしまい、頷くことしかできなかった。

 色々と話すにつれ、かなわないな、と思うようになった。自分が目の前の課題に精一杯だったというのに、彼の目線は遥か彼方を見据えていたのだ。


 ほんと、かないませんよ、と今では言える。苦笑交じりにでは、あるのだが。


 彼は、まるで生き急ぐが如くに走り続けるのだ。紀家の農場で色々試すという話を聞いた時は耳を疑った。更に彼の計画書の骨子を見たときには目を疑った。


 計画→実行→検討→当初計画の修正。いわゆるPDCAサイクルであるが、その概念は当然存在すらしていない。継続的に続けられる進歩を前提とするそれは、非常に画期的なものであり、沮授や張紘はその発想に愕然としたものである。

 現在袁家が抱えるプロジェクトの多くはこの概念が練り込まれており、かつてない勢いで領内は発展を続けている。それまでの停滞が嘘のように、である。それを、飛躍をもたらした青年といつしか、友と言っていい関係になり、今では親友だと自負している。

 彼の歩みに負けないように沮授とて精進する日々なのだが、紀霊の歩みは更に先を行くように思える。今日も、驚くべき報を持ってきた。


「というわけで、張家から情報を引っ張ってこれるようになった」

「いや、結論から言われてもわかんねえぞ」


 呆れたように紀霊を小突く張紘は紀霊が拾ってきた――彼ほどの人材には相応しくないが、そう言うしかない――傑物である。

 商、という賤業に手を染めながらその気質は誠実にして篤実。人として信頼でき、その知性は打てば響くどころの話ではない。一体全体どうやったら張紘のような人材を拾ってこれるのやら、である。


「とはいえ、その情報の裏は確認しないといけませんね。

 偽報に踊ることになったら目も当てられません」

「まー、そうなんだよなあ。だがまあ、欺瞞工作含め情報源が増えるのはいいと思わね?」

「それはまあ、そうなんですが」

「仕掛けてくるとしたら、いざと言う時の情報かなあ。

 一応、おいらの情報網で裏は取るようにするさ」


 そもそも、だ。どうやって袁家の暗部たる張家から情報を引き出すことに成功したのやら。沮授も張紘もそこには指摘をしない。今更、である。

 ……打ち合わせは数時間に及び、今後の方針を確認すると、紀霊はまたどこかへと駆け出して行った。それを見送りながら。


「ほんっと、せわしない奴だよなあ」


 苦笑する張紘に沮授は同意する。


「ええ、あれで一日も早く隠居して遊んで暮らしたいなんて言ってるんですからね。

 本当に隠居する気があるのやら。疑わしいものです」

「ちげえねえや」


 ニヤリ、と笑い合う。全く、彼より精力的に動けと言われたら困るくらいだというのに。


ちょっと増量しました

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