燃えて、尽きる
昏い。
暗い執務室に墨をする音が響く。かつては丹精込めて自らしていたそれを、それをすら。
諸葛亮は他人に任せるほど、時というものを惜しんでいた。
傍らで一心不乱に墨をするのは馬良。その顔は眼鏡と覆面で覆われ、表情は見受けられない。
ただ、墨をする。その音が静謐さを強調する。
ごくり。
諸葛亮が口にするそれは火酒。
柑橘を浮かべたそれを煽り、瞬間の活力を得る。
訪れる眠気は陰気。それは火酒の陽気により振り払われる。
煌々として、諸葛亮はその命を燃やしているのだ。
◆◆◆
日輪の蔭りを見上げ、諸葛亮は再び手元の書類に目を落とす。
目は落ちくぼみ、頬はこけ、唇は潤いを失っている。幾日眠っていないか、それを考える寸暇すらが惜しい。
東へ。ひたすら東へ。どうせ民が主君を追うのだ。転進したところで道程は隠しようもない。であれば少しでも速度の稼げる舗装路赤い街道――皮肉なことにその街道を整えたのは紀霊である――をひたすらに。
頭痛が激しい。それは幸いである。意識が覚醒するから。食欲がない。それは幸いである。目の前の書類に専念できるから。
そうして、諸葛亮は数日のうちに蜀軍とそれに付き従う民の目指す道筋を選定し、必要な物資を算定し供給計画を策定してのけた。伏竜の面目躍如であった。
「朱里ちゃん、大丈夫?」
劉備の問いに諸葛亮は応える。
「ええ、大丈夫です。私は正常に機能していますから……」
既に限界を超えてなお諸葛亮は最適解を弾き出そうとする。それを北郷一刀は抱きしめる。
「もういい、休め。朱里……。
休んでくれ……!」
その言葉に諸葛亮は素直に、弱々しく頷く。
「はい。流石の私も少し、すこしだけ。
すこしだけ、たぶん疲れてしまいました」
はわわ……と付け加えて、諸葛亮はよろよろと起き上る。歩こうとしてごろり、と転がってしたたかに頭をぶつける。
なに、どうということもない。内なる頭痛が外からも、もたらされただけだからして。
そう思い立ち上がろうとするも上手く四肢が動かない。なるほど、筋肉が劣化したか、と思う間もなく。
「はわわ……」
北郷一刀は諸葛亮の華奢な身体を抱き上げて宿に向かう。辛うじてとれたその寝台に諸葛亮を寝かせて、苦笑する。
「まあ。少し朱里は頑張り過ぎてたからな。ちょっとここで休んでくれよ」
「はい。一応ご主人様たちの行程表については策定しましたので、それを参照して頂ければと思います。それで、大丈夫ですから。
私も、少し休んだら追いかけますが、先を急いで下さい。ご主人様たちが進まねば道は拓けません」
乾いた声で諸葛亮は言の葉を連ねる。
幾つも湧き出る。いつもの策を、その奔流を止められない。
もっと、もっと高みへと。研ぎ澄まされた思考。動かない肉体。
その齟齬に戸惑いながらも、ひとまずは横になる。
もっと、もっとできるのに、と思いながら。
◆◆◆
「分かった。じゃ、朱里。天の国で待ってるからな」
そう言って北郷一刀は横になった諸葛亮をきゅ、と抱きしめる。その抱擁。その温かさに諸葛亮は熱いものが双眸に込み上げるのを感じる。
ぎゅ、と閉じた瞼から漏れるそれを見せぬために布団にもぐりこむ。眠いのだ、と言わんばかりに。
その様子を見て北郷一刀は苦笑を一つ漏らし、その場を後にする。
その、温かい気配が消えうせてから諸葛亮は嗚咽を漏らす。肺腑から、魂魄を吐き出すように。
そして、急速に四肢が弛緩し、五感が遠ざかるのを感じ、誰とはなしに微笑む。
傍らには馬良のぬくもりがいて。あって。
「わたし、頑張ったよね……」
「ええ、これ以上はないくらいに」
その声に諸葛亮は安堵する。
「きちんと書類は無謬にて運用しました。貴女は一厘の間違いすらされませんでした。
ええ、残された書類にだって、誤字脱字一文字すらないことは確かですとも。
きちんと、間違いなぞ残していませんとも」
慈母の笑み。
毒婦の笑み。
そして満足する。やりとげたと。
それでも至らない。
間違いのない組織。その恐ろしさ。
無謬という状態の不健全さに。
そうして、諸葛亮は満たされ、やりきったという意識。
幸せなままに意識を手放した。
絡新婦に抱きしめられて。
そうして、二度と目覚めることはなかったのである。




