破綻。予感。実感。そして関羽は。
「襄平が落ちた、だと……?」
何かの聞き間違いだろうと関羽は再度問いただす。だが、もたらされる応えは変わらず。
むしろもたらされる情報は悪化の一途。
「馬鹿な!襄平は城塞都市で、鉄壁の守りだ。そして紫苑は歴戦の名将だぞ!それがなんで……!いや、言っても仕方がないな。
朱里を呼べ……いや、こちらから行く。朱里はどこだ!」
関羽は舌打ちをする。既に蜀陣営にて軍師――というか事務全般を取り仕切ることができるのは諸葛亮くらいしかいないような状況になっている。
関羽も幾らかは手伝おうとするが到底及ぶところではない。書式や言い回し、いつの間にか洗練されたそれに、ついていけていないのだ。煩雑すぎるのだ。
即物的な意味でも鳳統、そして陳宮の死というのは蜀陣営にとってこれ以上ない痛手であった。
「朱里、襄平が落ちたそうだ。どうする」
その言葉を発してから関羽はそれを後悔する。問い詰める諸葛亮は頬が痩せこけていて、傍目から見て分かるほどに憔悴している。
この様子、尋常ではない。
「そうですか……」
諸葛亮は関羽の問いに、あっけないほどに平淡な口調で応じる。そこに動揺の欠片もなく、思考の海に沈みこんでいく。
「朱里……?」
問うても応えはない。
見れば、意識を混濁させているような瞬間、煽るのは火酒。それにより辛うじて意識を保っているようなものだ。
流石にこの惨状が、どうしようもないというのは関羽にだって分かるのだ。一言で言えば。
「詰んだ」
という現状。兵站は機能せず。
軍を維持する食糧こそ、付近の義倉や村落から用立てているが、いかんせん。
じり貧というやつである。
◆◆◆
「愛紗、ここにいたのか」
「あ、ご主人様……」
「襄平が落ちたって?」
そう。だから兵を充足することもままならないのだ。
帰る拠点すら失い、彷徨うのが蜀軍の現状である。
「申し訳ありません。雛里ちゃん、恋さん、陳宮さんを喪ってなお目的を達せられておりません」
後一歩。いや、半歩及ばなかったと諸葛亮は歯噛みする。そう、あと半歩あれば。紀霊さえ討てば、と。
「もうさ、いいよ、朱里。そんなに頑張らなくてもいい」
「ご主人様……?」
「桃香の言ってたこと。大事にしよう。みんなが笑って暮らせるように、って。
それはここじゃなくてもいいと思うんだ」
「と、仰いますと……?」
「うん、ここで言う天の国。それか蓬莱。そこに行かないか?
国ってやつはさ、人がいないと成り立たない。国は人がいないと成り立たない。でも、人は必ずしも国を必要としない。
だから、皆が笑って暮らせる世界。それを天の国で実現しないか?」
「……はい。ご主人様の仰る通りです。その通りににいたしましょう。
お任せください。万事滞りなく勤めてみせます……」
満足そうに頷く北郷一刀。そしてその命に従う諸葛亮。そして関羽は何故か双眸から溢れる涙。
「朱里、朱里。それでは身が持たないだろう。少し、休め……」
くすり、と諸葛亮が微笑む。かつてふっくらとしていた頬は痩せこけ、双眸はそれでも鋭く光を放つ。
「いえ、ご主人様がそう決めたのです。それは果たされなければなりません」
どうして、こうなったのだろう。関羽はそう、思う。
皆が笑って暮らせる、そのために頑張ってきたのに。そのために頑張ったのに。
「ばーーっかじゃねえの?」
そんなお気楽な声が脳内に響く。うるさい、黙れとばかりに関羽は内心で吠える。それすら今の蜀軍では禁忌。ぎり、と歯を食いしばる。
「どうしろというのだ。どうしたらよかったというのだ。
何ができる。何をすればいいのだ。どうしたって、もう……」
手遅れではないか。
そして、関羽はその言葉を口にすることができなかったのである。
◆◆◆
「天の国、だって……?」
失意の帰陣。その馬超を待ち受けていたのは思いもよらぬ報せであった。
馬超としては、だ。
彼女――馬超――は負けた。負けたのだ。騎兵を率いて白馬義従に負けたという事実を認めている。それも中華でも屈指の軍師――鳳雛――を随伴して、だ。。
どこか緩いところのある蜀。それを引き締める意味でも一罰百戒。どのような沙汰でも受けようと思っていたのだ。それが、思いもよらぬ展開である。
「ちょっと、待ってくれ。一刀、流石になにがなんだか分からない。
いや、それよりだ。あたしは二郎を討ち取るどころか、雛里をも死なせてしまったんだ。
その沙汰はどうなる」
信賞必罰、武家においては欠かせないものだ。これまでの馬超の言動もそれは全て戦場での勝利があったからこそのものであったのだ。
「雛里については、とても残念だった。本当に悲しい。
でもさ、翠が駄目だったならば、誰であっても駄目だったんじゃないかな。
いや、もっとひどいことになってたかもしれないよな?」
それはそうだ。騎兵の扱いについては今でも中華で一番であるという自覚と自負が馬超にはある。
だが、だが、である。
「それでも、私は負けた。負けたんだ。
いけない。いけないよ、一刀。
私は行けない。いけないよ。
あたしにその資格はないし、やっぱりね。そんなに、捨てられないよ。
父上が身を挺して守ろうとしたもの。それが何だったのか。
それはまだ分からないけど、きっとここにあるんだと思う。
だから、行けない。あたしは、父上は。
父上は自由に生きろって言ってくれた。言ってくれたけど。
だけど、ううん。だからこそ、かな」
行けない。
この、中華から去ることはできない。
「ごめんな。でも。やっぱり、できないよ。あたしは……」
悄然と馬超は呟く。闊達な常とは違って、それでも、いやだとばかりにかぶりを振る。
そんな中、それでも。
くしゃり、と撫でられる感触に馬超は暫し耽溺してしまう。
「翠がそう決めたんだったら、仕方ないさ。寂しいけど、ね。
でも、翠が言う、行く末ってやつ。きっと大変だと俺は思う。
だからさ、だからかな。
いつでも歓迎するよ翠のこと。
逃げる、ってさ。そんなに悪いことじゃないと思うよ。
生きていればこそ、だと俺は思うよ」
「一刀……!」
ごめん、と。否、やっぱり一緒に行く!と。様々な思いが駆け抜ける。
そこでの決め手は思いかけず。
「なんだ。翠はだらしないのだ。鈴々はお兄ちゃんと、もちろん、お姉ちゃんと愛紗。
みんなと一緒にいくのだ」
無垢なる言説。張飛の言葉に馬超は身を引き裂かれるような決断を下す。
「ごめん、一刀。あたしは、やっぱり。
一緒に、いけない」
「いいさ。翠の選択だもの。
誰も咎めはしないよ」
「あ、あ。
一刀……」
そのやり取りに諸葛亮は、ほう、と息を吐く。
これでいい、これでいいのだと。これが最善なのだと。
北郷一刀、そして劉備の両名さえ存命ならば、どうとでもなると。
そして再び書類の山と向かい合う。
如何に主たちを逃すか。そして逆襲するか。それらは諸葛亮の脳髄に既にある。
「足掻いて、みせます。いえ、そうじゃないです。
ええ。やり遂げてみせませす」
北上して匈奴の支配域から東を目指すもよし、真っ直ぐに東進するもよし。
主導権はこちらにあるのだからして。
迫る袁家軍。その進軍速度すら諸葛亮にとっては手の内なのだ。このままでは追いつかれてしまうだろうが、進軍するその道いっぱいに民がいればどうか?
まさかに、民草を蹴散らしはしないだろう。そうなれば暴動だ。まともな進軍なぞできなくなる。
窮地に追い込まれて尚、諸葛亮は三日月模様に口元を歪める。
けして、自らの主には見せられない表情だなあという思いと、それを窘めてくれたであろう友人を思って。偲んで。
そして、彼女が自分を訪ねるのも想定内。どうやら今回は、とことんそりが合わなかったのだが、これまでその関係が破綻しなかったのは率いる主のおかげなのであろう。
そう思いながら喉に液体を流し込む。
揺蕩っていた思考を炎にまとめて、向き合う。
「すまんな、多忙という言葉では足りないくらいほどに忙しいことは理解しているのだが」
だったら来るな、とは思っても言えない。劉備の股肱にして親友。その存在を軽んじることは出来ない。ただ、今は時間が惜しい。そう思っていたのだが。
関羽からもたらされたのは思いもよらぬ提案。
「殿、私が受け持つ」
民草を守る。魔王紀霊の追撃から守る。
その言に諸葛亮はしばし……、目を細めて考え込むのであった。
 




