心攻
「交渉、ねぇ……」
襄平を囲む孫家からの使者が来たとの報に黄忠は首をかしげる。
今更何を交渉するというのか。
むしろ、あの程度の兵力で自分が守る襄平を落とせると思っているのか。だが。
「多少の時間稼ぎにはなるかしら……」
金城鉄壁を地で行く黄忠であるが、消耗が少ないにこしたことはない。物資は十分に蓄えているし、兵卒の充当も問題なく、士気も軒昂この上ない。
「まあ、会うだけ会ってみましょうか」
敵将の気性を知るのも貴重な機会だ。寄せ手である孫家の陣容、見極めてやろうと黄忠は決意する。
◆◆◆
「無血開城こそが私の望みにして全てよ。
降伏しなさいな、黄忠」
挨拶もそこそこに、孫権――なんと当主自ら使者ときた――から放たれた言葉は黄忠の想定外。
そのように高圧的にくるとは全く思っていなかった。
「あら、降伏する理由はこちらにはないわね。襄平が欲しければ力ずくできなさいな?
ただし、貴方達ごときに落とされるほど甘くはないわよ」
その言を受けて、くすくす、と陸遜が笑う。
「何がおかしいのかしら?」
「いえいえ。流石は皇室の流れを汲む劉表殿に長年仕えられたのだな、と思いましてぇ」
「それで?」
口舌の徒と舌戦なぞしてやらない。交渉においても黄忠は金城鉄壁。
つけ入る隙なぞ見せはしない。
はずなのだが。
「でもですね。思うのです。一体全体、どうしてそんなに一生懸命なのかなー、って」
無邪気に――表面上は、である――小首を傾げる陸遜に黄忠は本能的に警戒を二段階上げる。こいつは、危険だ。と。
「そもそも、貴女はどうして幽州に来てしまったのでしたっけ?」
黄忠は沈黙で応える。先ほどまでとは打って変わって、緊迫した空気がちり、ちりと神経を焼く。
「お嬢さんの教育のため、でしたねぇ。ほんと、可愛らしくも聡明なお子様です……」
くすくす、と笑う陸遜に黄忠は激昂する。
だが、それすら予定調和。
否応なく巻き込まれる。巻き込まれた。
そのことに黄忠は動揺を隠せない。
「何を!何を言うのよ!」
「あらー、そんなに取り乱すことはないと思うのですがねー」
くすり、と笑って懐から取り出したのは黄色い髪留め。
ピン、と弾いて回転させる。
「それは。それは!」
見間違えようもない。
愛娘のお気に入りの髪留めである。
「ええ、とっても素直ないいお子さんだと思いますよ?」
その、挑発的な声に黄忠は却って冷静になる。むしろ苦しいのは相手でないか?
その思考を遮り、陸遜は微笑む。
「ああ、確かに貴女の家人たちはしっかりしていたようですね。
ですが、いいえ。だからこそご息女を喜んで預けてくれました」
くすくす、と。
陸遜は心底おかしげに、楽しげに微笑む。
「……何を言うのよ」
そうですね、と陸遜は笑みを深める。
「徐庶さん、でしたっけか。
あの方の知り合い、と言ったら是非もなく引き渡してくれましたよ」
ぎり、と歯を食いしばり黄忠は陸遜を睨みつける。
「この……!
卑怯者!娘は関係ないでしょう!」
「笑止千万、とはこのことですねぇ。
貴女は何を言っているのですか?私たちはこれから殺しあうのでしょう?
だったら何をすれば敵将の心を折れるか、とかは当たり前の布石です」
「……なるほどね」
ハッタリだと断じようとする。
だが、その黄忠に孫権が口を開く。
「言っておくけどね。うちの子は優秀よ?
厳戒態勢にある後宮に馳せ参じて玉体を守護するくらいには穏行も、武も、ね」
そう。周泰は警戒が厳しい禁裏に単身潜り込み、玉体を守護しきったのだからして。
その実績は嘘偽りないものである。
虚実混ぜる陸遜の言を見極めようとしていた黄忠。だからこそ、真実しか話さない孫権の言葉に項垂れる。
「さて、問うわ。正統なる漢朝に降るや否や。
と言っても貴方達には言葉が届かないかもね。
だからもっと卑近な例で問いましょう。
女としての貴女、武将としての貴女、そして母としての貴女。
一体、どの貴女が決断するのかしらね」
くすり、と孫権は笑う。
「母としての貴女、武将としての貴女に言っておくわ。今貴女が抱えている苦しみ。無辜の民を死地に追いやることを理解しているのでしょう?
だって、貴女はとっても理性的だものね」
黙り込む黄忠に優しく孫権は微笑む。
「荊州に帰ってきなさいな。孫家は貴女を将として迎える準備があるわ」
当然、娘に危害だって加えない。
住み慣れた荊州。それとも動乱に巻き込まれ、戦場となった幽州。どちらで娘と共に生を歩むのかしら、と。
「じ、時間を……」
苦しげに口に出したのは時間稼ぎ。或いは逃避の一言。
「いいわよ。明日の払暁まで待ってあげる」
くすくす、と笑う孫権に場が支配されている。
その事実に歯噛みしながらも黄忠は言葉を発することが出来ない。
そして、襄平は日の出を合図に無血開城するのであった。
攻めるは心。そして戦わずにして勝つ。
孫子の兵法の、つまりは真髄であった。




