遭遇
さて、馬岱である。
彼女は自分のことを強運の持ち主だと信じている。いや、確信していると言った方がいいであろうか。
驚異的な速度で進軍できているのは馬家軍でも最精鋭の兵と馬が揃ってのこと。自分の実力だけではないとわきまえている。
そして、本来ならば四方八方に斥候を放ち、発見した敵。それに再集結し、機動力で翻弄するのが定石なのだが。
「わー、これどうしよっかなー」
出くわしてしまった、という表現が正しいであろう。目指す獲物を見つけた幸運に歓喜するしかないな、と馬岱は苦笑する。
何せ、所在をどうやって掴もうかと思っていた存在が目の前に居るのだ。つまりは兵站、補給を担う部隊である。ただし。
張の牙門旗――言うまでもないが張飛のことだ――と無地の黒旗、だ。
「張飛と黒山賊とか、ちょっとこれはないかなー」
こちらは五百。対して、あちらは万を超す大軍である。いくら補給が大事と言ってもこれはないだろう。
そう思いながらも馬岱は冷静に見極める。張飛の指揮下の兵は精々千程度。残りは黒山賊と見繕う。
真正面から挑めば瞬殺されてしまうであろう。果たしてこの絶望的な兵力の差から何かを為し得ることができる将帥がいるのであろうか。
いるのである。
ここにいるぞ、とばかりに馬岱はぺろりと唇を湿らせる。
そして選んだのは舌戦。
真正面から寡兵で相対する。
「ああ、誰かと思えば……。誰だっけ?おっぱいばいんばいーんな人たちに囲まれて埋没してたよねー。
正直可哀想でならなかったなー。これが格差か!って感じ?
まあ、しょうがないよねー。妥当だよねー。
つるぺたで、女らしさなんて欠片もないもんねー」
親しげに、必要以上に馴れ馴れしく張飛に呼びかける。知らない仲ではない。馬家軍と劉備一行はそれなりの期間、行動を共にしていたのだからして。
そう、知らない仲ではない。
大好きな、馬家の当主として盛り立てようと思っていた従姉が籠絡されてしまうほどには関係があったのだ。
だから馬岱は圧倒的な兵力差にも怯まない。むしろ滾る。
それは率いる兵も同じこと。馬岱の一挙手一投足に応じるために集中すれども、そこに怯えなぞない。
静かに昂ぶり、それを漏らさず控える。
「な、うるさいのだ!お兄ちゃんは鈴々を可愛いって言ってくれたのだ!」
「またまたー。強がらなくていいんだよ?
つるぺたなおこちゃまだもんね。背伸びしてもしょうがないけど、戦わなきゃ。現実と!」
にしし、と煽る。
「鈴々は嘘なんてついてないのだ!お兄ちゃんは鈴々を可愛いって言ってくれたのだ!
いくら翠の従妹でも許さないのだ!」
「おお怖い怖い。でもねー。できもしないことを言っちゃうの、子供だなって思うんだー。
いいよ、知らない仲じゃないからね、見逃してあげてもいいよ?その、御大層に守ってる物資を破棄するならね!」
にし、と笑う馬岱に張飛は激昂する。
「ふざけると痛い目を見ることになるのだ!どう見てもそっちのが劣勢なのだ!
目にもの見せてやるのだ!」
「そうだね、やっちまいな。安心おし。ここの物資はきちんとあたしたちが届けてやるさ。
張飛殿はさくっと本懐を遂げればいいさね」
ここまで無言であった張燕がニヤリ、と笑いながら煽る。
「ここまで虚仮にされて退いたらもう、負けたも同然さね。退けないあんたの矜持は分かるよ。だから、思い知らせてやんなよ」
その言に、我が意を得たとばかりに張飛は頷き。
「ええと、吐いた唾を……。
にゃ!とにかく、けちょんけちょんにしてやるのだ!」
弾丸の如く張飛は吶喊する。手には蛇矛を振り上げて。
「わー、逃げろー」
言った時には既に戦場を離脱する勢いである。ただし、挑発しながら。
「こっこまでおいでー」
あっかんべーしながらお尻をぺちぺちと叩いて張飛を挑発する。馬上で。
「ば、かにするなあ!なのだ!」
ギュン!と張飛の駆ける速度が急上昇する。だが、それも馬岱の想定内。
「はは!その大層な矛、重そうだよねー。投げ捨てたらたんぽぽに追いつくんじゃない?
ねえ、将帥としてありながら自分も兵卒も憔悴してるこの状況、どんな気持ち?どんな気持ち?
ほらほら、単騎特攻はいいけどもっと視野を広くしないと愛しのご主人様は失望するんじゃないかなー。むしろもう、失望して貴女のことなんかどうでもいいとか思ってるかもねー」
「にゃー!
おにいちゃんはそんなこと言わないのだ!ぜったい許さないのだ!」
その殺意を馬岱はことごとく躱し、翻弄する。
ただの一度も干戈を交えず、逃げ回り、逃さない。
実に三日という期間、張飛を挑発して嘲笑ったのだ。
そして、張飛は肝心の決戦に参戦叶わなかったのである。
◆◆◆
更に、蜀陣営には衝撃が走る。
帰参し、無事に物資を届けた張燕はにこやかに告げる。
そこは蜀陣営の物資集積場。張燕にしても初めて訪れる重要拠点である。
本来ならばここまでの誘導は張飛単独で当たるはずであった。
「ああ、張飛殿は野盗を追ってったよ。なに、治安維持を意識する。大したもんさね」
ニヤリと張燕は笑い、笑みを深める。
「まあ、火のないところに煙は立たぬ、ってね。ほら、煙がとんでもないことになってるよ」
もくもく、と物資の貯蔵庫から昇る黒雲に出迎えた諸葛亮は瞠目する。その間隙を突かぬ張燕ではない。
「もらった!」
諸葛亮に放たれた横薙ぎの一撃を関羽が辛うじて防ぐ。
「貴様ぁ!」
「ちい!仕留めそこなったか!
だがね!あたしゃね、故あらば、寝返るのさ!」
張燕は懐から包みを取り出し、投擲する。赤黒い粉末が空間を支配して関羽の視界を奪う。
「く、小癪な!」
「はは!そこに突っ込まないとは恐れ入った!
赤霞の術、ってことさね!」
その実体は辛子と胡椒の粉末なのだが、その影響は大きい。その影響下であれば関羽だとしても討ち取れると算段していたのだが。
「まあ、そこまで猪でもないか」
人知れず張燕は苦笑する。だが、重大なのはそこではない。
焼き払われた食糧をはじめとした膨大な物資。これにより蜀陣営は短期決戦を強いられることになるのである。
「さて、ここから先は風まかせ、さね」
追いすがる兵を鼻歌交じりに翻弄し、義理は果たしたとばかりに張燕は笑う。
そして彼女は自分の賭けた男の勝利を確信していたのである。
「なにせ、賭け事は胴元に限るらしいからねぇ」
……彼女は胴元が賭場に介入したときの惨状をこれ以上になく知っていたのだから。




