揺籃
一陣の風が大地を駆け抜ける。
その風に関羽は僅かに柳眉をひそめ、髪を整える。その黒髪は荒野にいながらも、あの曹操をして絶賛させるほどの艶をさらに増しているかのようである。
「どうしたどうした!」
厳しい訓練にへたり込む兵を鼓舞する。その声によろめきながらも兵たちは立ち上がり、槍を手にする。その、死力を尽くしている様に関羽の口が僅かに綻ぶ。
その、満足気な関羽の表情に兵達の士気は否応なく上がっていく。
とは言え、もうそろそろ限界だな、と内心で関羽は断をくだす。
「訓練の方がきっついくらいでちょうどいいのさ。戦場の方が楽だなんてことは稀によくある。
うちのスレた古参兵なんかはさ、実戦の方がいい飯が食えるって笑ってるくらいさ。
所詮死ぬときは何やっても死ぬんだって、な。でも、な」
勝つためじゃない。生き残るため、生き残らせるために兵をしごくのさ、と彼が漏らした言葉は真情に満ちていた、と思う。
そして、自分がやっているのはきっと彼からの受け売りなのだろう。
――もっとも言い放った本人はそんなことを言ったことなぞ忘れているであろうが。
最後の一駆けを命じて関羽は同じく兵の鍛錬に尽力している黄忠、陳宮に連絡を取る。宿営場所、糧食の手配など仕事はいくらでもある。幸い、正規軍を率いていた二人がそこいらについては滞りなく手配をしていてくれている。
「こんなにも、大変なのだな……」
生真面目な関羽のことである。二人のその労苦を少しでも軽減できるように尽力しているのだが、思い知らされるのは自分の未熟ばかりである。
「まあ、愛紗ちゃんは戦場での勇が本職だから……」
「そんなに自分の無能を気に病むのであれば薄物一つで兵達を慰問すればいいと思うのですぞ」
温かい気遣いの一言、容赦ない一言すらもありがたくすら感じる。
そして、ちくり、と痛みが胸を刺す。
私は、なにをやっているんだろう。
そんな思いが湧き上がってしまう。
雑念だ。そう思っても、振り切ることができない。
「俺?いや、天下泰平になったらすぐさま隠居してやんよ。え?蒼天の行く末?
ば――っかじゃねえの?そんなん、俺よりデキる奴が何とでもするだろうさ。
俺の仕事は、そういう奴らが仕事しやすいようにお掃除することさね。
んでもって今はそのお掃除役を探してるとこなんだわ。
あー、どっかに既存の政治勢力とは無縁でなお高潔で見識があって分別があって武に秀でた人材はいないかなー」
酒席の上とは言え。ちら、ちらとこちらを見る彼が大層うっとおしかったのではあるが、その薫陶――であったのかは不明だが――は関羽の中に息づいている。
そして、思う。
「私は。何をやっているのだ……」
だが、それでも。自分が主君と仰いだ劉備。その声で招請された兵卒たち。彼等が生き残れるように、せめて、生き残れるようにと関羽は全力を尽くすのである。
――何か、これではいけないのかもしれない、と思いながら。
◆◆◆
「黄忠殿、どう思われますかな」
しかつめらしく問う陳宮を、かつての黄忠ならば微笑ましく思ったであろう。
若年でありながら主筋に尽くそうというその意気は好ましいものだ。それをきちんと導いてやるのが先達の役割。ではあるのだが。
「そうねえ……。とてもまだまだ実戦には出せるものじゃないわね」
「そうなのですか。弓兵の運用においては黄忠殿の右に出るものはおりませんからな。その言、知見。確かなものでしょう。
そしてお恥ずかしながらねねの運用することになる騎兵についても芳しい報せがないのが現状なのですぞ」
深刻ぶって、と言うのは不当な評価である。彼女は、陳宮こそは。
あの袁家が仕切った反董卓連合と相対して生き残った数少ない董家幹部の一人なのだからして。死線を潜った数では譲らなくとも、深度では。
違う、今考えるべきことはそれではない、と黄忠は頭を振る。
一体、自分は何をやっているのか、と思うのだ。軍務からは身を引いて、愛娘の教育のために北方へきたはずなのだが。
あれよあれよという間に弓兵の指揮を任じられ、こうして訓練に精を出す。漢朝に弓引くことになっている。幾度か劉備に問うたのだが、彼女の言、諸葛亮の言葉を聞くとそれが妥当と思ってしまう。だからこうしている。
かつての学友でもあった徐庶からはしきりに文が届く。彼女らしく、そこに内応の打診なぞはない。ひたすら自分と娘の心配をしてくれている。
もし自分が斃れたならば、娘は彼女に託そう。そう、思えば。軍務にも励めるというものである。
◆◆◆
「馬鹿げているのですぞ」
陳宮は誰にともなく、呟く。だが、それは紛れもなく彼女の本音である。
一体全体、分かっているのか、と言いたい。問い詰めたい。一刻でも二刻でも問い詰めたい。それくらい陳宮は現状に焦りを覚えている。いや、憤りと言ってもいい。
全てが絶望に変換されそうなあの時のようなそれ。そしてその焦燥感は馴染み深いものである。
袁家と、いやさ漢朝に矛を向ける。そして出兵までもが決定されたのだ。減りゆく財貨に兵糧。先を見据えることができるほどにその焦燥は理解できる。
だがその決は正気の沙汰ではない。いや、蜀なぞと自称することからしてなのだから、今更と言えば今更ではあるのだが。
かつて、真正面から自分を含む董家一同は袁家に挑んだ。そう、漢朝と言うよりは袁家に挑んだのである。
あるとき黄忠に問われ、淡々と応えた。
「まあ、それは散々だったのですぞ」
今でも思い出すのだ。あの切迫感、絶望感。じわり、と追いつめられるあの感覚はなんと言えばいいのだろうか。
打つ手、全てを見透かしたような反撃。いや、そうではない。此方が打つ手全てを読まれていたとは思わない。だが、それら全てを圧倒して飲み込む波濤が如き分厚い打ち筋、手数。
諸葛亮、そして鳳統。二人のいずれかを手にすれば天下を取れると、水鏡と言う人物は言ったという。
陳宮は笑う。笑うしかない。かつて自分たちと道を同じくしていた彼女は、その二人に勝るとも劣らなかった。実際、とても至近距離でその人を見ていたのだ。
賈駆という少女の智謀は幾多の戦場において最優。そしてそれを後見する馬騰、皮肉げに哂う韓遂によって研ぎ澄まされ、輝きを日々増していたものだ。
彼女の智、そして覚悟。それを間近で見ていた陳宮は思うのだ。
蜀を自称するやつばらは、まだまだその覚悟、気構えが生ぬるい、と。
「ボクは、月のためにいるの」
その言葉は陳宮の底に響く。今でも。主のために最善を尽くすという在り方。それも彼女から学んだ。
ああ、そうだ。自分は呂布のためにいるのだ。そうなのだ。
うち捨てられていた自分を拾ってくれたのは、あの優しい目をした彼女。だから自分は彼女のために生きている。
彼女のために生きているのだ。
だが、と、思う。
「恋殿……」
彼女を永らえるのは、支えるのは何なのだろう。結局、軍師を自認しても彼女のことをまるきり理解できていないのではないか。
「――情けない」
戦う前から気持ちで負けてどうするとばかりに陳宮は声を張り上げるのだ。
幾度諭しても聞き入れなかった主のために。
そしてその主の言は。
「それでも、一刀は……、ご主人様は恋を呼んでくれたもの。
だから、ご主人様のために今度こそ恋は頑張る……」
厄介者であった彼女らを受け容れてくれるのは、この蜀しかなかった。なかったのである。
そして主が蜀の、北郷一刀のために力を尽くすと決めたのだ。
だったら、彼女に救われた自分は付き従うべきであろう。
なに、彼女がいなければ野犬の餌になっていたのだ。それに勝ち目がないわけでもない。
「恋殿!ねねがきっと、きっと勝ちを掴ませるのですぞ!」
今度こそ、とわが身を奮い立たせる。心を決める。
「え、袁家なぞ何ほどのものか、ですぞ!恋殿の武勇あればどうとでもなるのですぞ!」
弱気を打ち払うための言葉。そして決意。
だからこそ、最善を尽くす。伝聞でも分かるその危機。かつて洛陽で散々に苦しめられた経済制裁が蜀全土に及ぼされているのだ。
その脅威を味わったからこそ分かる。今はまだ大人しいであろうが、その流れは大河の奔流のごとく一切合財を台無しにしてしまうのだ。
「時は味方なぞしてくれないのですぞ……」
その貴重な知見。
「わかりますとも」
いつの間にかいた知己に笑みが浮かぶ。
「馬良殿、貴女くらいなのですぞ。
袁家の脅威を分かってくれるのは」
嬉々として茶の準備をしようとする陳宮。
馬良はこくり、と頷き茶菓子を供する。
常ならば漏らさないような愚痴、弱音。
それら全てを馬良は受け止める。
受容、共感。そして。
「陳宮様のご尽力、もっと評価されていいのに……」
厚い化粧が剥がれるほどに涙する馬良。
「なに、そんなこともないのですぞ。
これしきの逆境、どうということもないのですぞ!」
高らかに、朗らかに笑う陳宮を馬良は優しく笑みで肯定するのであった。