月光に融ける
魯粛からの報告書に目を通す。
経過は順調とのことだ。穀物等の、民の生活を支える食糧が凄い勢いで幽州から運び出されているのが付随した資料で分かる。
それによりじり、じりと価格が上昇しつつあるな。
逆に酒、茶、肉などの奢侈品については下落の一途だ。この勢いは当分止まらんだろうという魯粛の私見も添えられている。どうやら母流龍九商会以外の商人たちもこの流れに乗って来たらしい。
これまでひたすら市場、相場の安定に努めてきた母流龍九商会が率先して市場を荒らすのだから、これに乗らん奴は商才がないと断言できる。
気の利いた豪農もそうだろう。穀物は買い上げ、奢侈品は売りさばく。これだけで濡れ手に粟ってやつだからな。
「まあ、こうして見ると醸造所と蒸留施設を南皮に集中させたのは正解だったなあ」
俺が流し読みにする魯粛の報告書。それを俺の数倍――以上だろうが考えるだけ無駄――の速度で目を通すのは張紘。
俺の義兄弟にして今回の任務の総責任者であったりする。
いやまあ、今回のそれには思う所があるみたいなんだけんども。
「まあ、な。運び込んだ穀物を酒にできる。それをまた幽州に売りさばくって循環だ。
しかし、だが。これで幽州にも蒸留施設があったらいざ物資を絞る段になってあちらで供給されてしまうしなあ」
蒸留酒――火酒と呼称している――の扱い、製造方法については最上級の機密として扱われている。華琳を始め、色々技術供与の要請も多いのだが今のところこの技術をオープンにするつもりはない。
特に華琳には内緒だ。絶対にだ。だって絶対に面倒くさいことになるもん。
「――幽州においては治安も悪化の一途とのことだ。
これも目論見どおりだな?」
こちらを見ようともしないで言う張紘の言葉に尖ったものを感じざるを得ない。いや、そんな奴じゃない。きっとそれは俺の後ろめたさだ。
中華全土の獄に繋がれていた凶悪犯、これから裁きを受ける死刑囚。それらは随時幽州へと放逐されている。更生なぞありえんような輩たち。それを提言したのは風であった。
事前から準備していたかのように、次々と追放される罪人たちをあちらこちらに振り分ける手腕には脱帽である。
閑話休題。
まあ、張紘も清濁併せ飲む器量があるから、色々と思う所があっても理解してくれていると期待している。張紘からして本当に駄目なことにはきっちりと言ってくれるはずさ。きっとね。
「にしても、二郎よ。軍の編成はいいのか?」
その声にひらひらと手を振って応える。
「いいのいいの。俺がいても邪魔なだけだし」
「……そう言われるとおいらの邪魔しに来たのかと思ってしまうんだが」
「そ、そんなことねーし!めっちゃ相談したいこととかあったし!」
ちなみにとっても頼りになる義兄弟の張紘君は北伐の物資の調達あれこれの手配をしています。北伐軍内部で必要とされる物資の概算、内部での差配については華琳が担当なんだが、それを用意するのが張紘ってわけだ。
無論出兵の規模が決まらんことには物資の手配もできんのだが、概ね十万前後になる予定で動いている。
俺としてはそれこそ百万の兵で蹂躙したろうと思っていたんだが。
「一声十万とは恐れ入ったよ。むしろ呆れたよ。なんだそれ。なんだよそれ」
そう。北伐軍が実際に準備を始めたら、幽州で彼奴等は募兵をしたんだよ。それはいい。
劉備が呼びかけたらあれだ。十万の兵が集まるとかどういうことなの……。
んでもってこっちが兵を増やせば増やすほどあっちも増員するってことで少数――ではいないんだけんども――精鋭でもって出兵することになった。戦いは数なんだけどね、仕方ないね。
まあ、あまりに兵数が大きくても扱いきれなくなっても意味ないしな!俺に用兵の才とか多分ないし。
「ま、頼りにしてるよ」
俺の声に、あいよ、と応えて張紘は俺と馬鹿トークしながらもせっせと書きつけていた書類を放り投げてくる。
「まあ、なんだ。おいらは、どんなことがあっても二郎の味方さ。そこは安心しといてくれ」
気軽さを装い、照れくさそうに言い捨てて急ぎ足で室を辞していく。約束でもあるのだろう。
ありがてえなあ。
俺には過ぎた兄弟さ。張紘も、沮授も。
じんわりと温かいものを感じながら振りかえれば既に夜半。満月が東屋を照らし出している。
白湯でも啜って寝るかな、とぼんやりと考える。張紘と馬鹿トークしながらあれこれ摘まんだし、食事はいいや、抜いてしまおう。
なんて考えていたんだが。何だか喧噪がやってくるぞ?俺に面会とかだったら先触れとかが少なくとも俺の意向を確認するもんなんだが……。
「二郎さん、観劇に行きますわよ?」
おーっほっほという笑い声――ただしめっちゃ高貴であり、生半可な楽曲では太刀打ちできないほどの芸術性を備えている――に反応する暇すらなく、俺は声の主たる麗羽様に連行されることになったのである。
観劇は恙なく終わり、併設された酒家を借り切って余韻を楽しみながら茶を啜る。いや、俺が呑むのは火酒だけどね。
なお、劇の内容については割と頭に入らなかった。だって。
「……二郎さん、その。ご迷惑でしたかしら?」
ちら、ちらと俺の様子を気にする麗羽様がいたからね!
「何言ってるんですか。
どのようなことであろうと麗羽様がお呼びとあらば即参上!です。
そんなわけなんで、わざわざのお越しに恐縮至極だったりするわけですよ」
ちなみに演目は春秋戦国時代の仮面の美青年というお話でありました。仮面なのに美形とはこれいかに。
「なら、よろしいんですけど。
その、少しでも二郎さんの気晴らしになれば、と思ったんですけれども」
どこか甘えた風に、気にした風なお言葉がありがたい。
「これは参ったな、お気を使わせちゃいましたか」
確かにまあ、割と荒れてたからなあ、俺。
「いや、まあ、あれです。数で圧殺すれば楽勝と思ってたんですけどね。どうもそうもいかないみたいで」
なにせ、一声で十万の民が兵になるのだ。数で圧殺するのはいい。
だが、この戦いが終わったらば、幽州に民はいなくなり、残るのは焦土だろうよ。まったく腹立たしいことこの上ない!それを狙っての一手だと分かるだけに腹立たしさは倍率ドン!である。
……通商破壊は出来ても、焦土作戦に頷けないのはきっと俺の甘さなんだろうな。
きっと、それが俺の限界なんだろうなあ、と思ってしまう。例えば華琳だったらどうするだろうか。なんて益体もないことを考えてしまう。
いや、聞いたら普通に答えてくれそうではあるのだけれどもね。
「まあ、世の中ままならんことばかり。いつものことですよ」
そうさ。これしきの逆風、大したことない。そう、自分に言い聞かせる。
いつだって時代は優しくないし、やることなすこと裏目に出るのは様式美。それでも、前を向いて、できることをするしかないんだよ。俺みたいな凡人は。
「二郎さん……」
気遣わしげな麗羽様の声がこの上なく癒しである。励みである。湧いてくる、気力が。そりゃもう、もりもりと。
「麗羽様の声に、すっごく励まされてます。
だから俺は頑張れます。頑張ります。そうです。そうなんです」
――麗羽を、よろしくね。
在りし日の袁逢様の声が甦る。そしてまだ幼い麗羽様を守ろうと決めたのだ、俺は。この、三国志にひどく似て、どこか歪なこの世界で。抗おうと。三国志なんてはじめさせないと、誓った。
最初は保身だけだった。でも、今は違う。違うと言い切れる。守りたいものができた。できてしまった。それも、たくさん。
「ねえ、二郎さん?」
くすり、と笑って麗羽様が俺に問いかける。
「わたくし、二郎さんの主として相応しくあるかしら?」
その問い。
それに俺は暫し言葉を失う。
「何言ってるんですか。
麗羽様ほど光輝に満ちて、俺が全身全霊で仕えようとか。
他にはありえないほどのお方ですよ」
いやまあ、俺の勤務態度については弁解せんといかんと思うけどな!公務ぶん投げて放浪とかしてたしな!
いや、あれはあれでね、放浪して大正解だったと思うけど!思うけど!思うよね?
そんなアホなことを考えている俺をどう思ったのか。
「――本当ですの?」
いつになく、真剣なまなざしで麗羽様が俺に問うてくる。
「勿論ですよ。あの日、あの時に誓ったのは本心ですとも。
お疑いあるならば我が胸を麗羽様の剣で貫いてください」
恭しく跪いて懐にあった短剣をそ、と胸に当ててニヤリ、と笑う。
「もう。二郎さんってば。そういうことじゃないってお分かりでしょう?」
ツン、と口を尖らせた麗羽様。やっべ。めっちゃかわいい。
「いやいや、むしろ俺の方がですね。
お見限りにならないかって日夜ヒヤヒヤしてますってば」
自己PRしてくださいと言われたら言葉に詰まってしまう俺である。
兵を率いては星に及ばず、頭脳労働では言うに及ばない。
あれだ、家柄だ!あと財力か。金と人脈が俺のアピールポイント……ってなんだこの漂う駄目駄目臭。
某スペースオペラが舞台ならF男爵ポジだな、と確信する。
うむ。いかんな。どうにも思考がマイナス方向に向かいまくっている。
と。
「ね、二郎さん?」
そ、と俺の側に腰掛けてこてん、と顔をもたれかけてくる。
「わたくし、これで、頑張ってきたのですわよ?」
囁くように俺に問うてくる。
「や、麗羽様はそりゃあ頑張っていましたとも」
田豊師匠の英才教育に泣き言一つ漏らさずに――多少は漏らしたかもしんない――立ち向かっていたし……うん。
なんか表現おかしいけど、立ち向かうというのが一番正しいと思う。
ねーちゃんからも可愛がられていたしな!体育会系的な意味で!
うん、マジ麗羽様すげえわ。俺なら逃げ出すことうけあいである。
「……麗羽様の頑張り。多分俺が一番分かってると思います」
斗詩と猪々子よりも、だ。だって彼女らが御側役になるよりも早く俺は麗羽様にお仕えしていたんだからして。
うんうんと頷く俺をどこか可笑しげに麗羽様は笑う。くす、と。
「覚えていらっしゃるかしら。南皮の城壁の上で炊煙を一緒に見たことを。
民の、竃に立つ煙を。
だから。二郎さんが何を悩んでらっしゃるかも、分かっているつもりですわ」
そですね、と苦笑する。そして漏らしてしまう、愚痴というものを。
「――勝てばよかろう、と思っても。それができません。それが勝敗の最善手かもしれない。幽州の民を根絶やしにする。そうすれば勝てる。でも俺にはできません」
幽州には何度も足を運んだ。そこで、馬鹿をした。笑って、呑んで、吐いて。
周りで囃し立ててた人たちを、酒を酌み交わした人たちを、だ。
単なる数字の羅列として切り捨てることが、できない。
「わたくしは、幽州の民に直接の面識はありませんけど。民は慈しむものでしょう?
取るに足らないと処理されるひとり、ひとりに、精一杯生きている人生があるのでしょう?」
頷く俺に麗羽様はにこり、とほほ笑む。
「だったらそれでよろしいのですわ。二郎さんのことですもの。とっても、とーってもお考えになったはずですもの。
その思いは、決断は正しいとわたくしが保証いたします」
不意に。
ちゅ、と唇を合わせて、耳元で囁く言の葉。
「万が一、それが間違っていても、責を負うのはわたくしですわ」
くすり、と軽く漂わせる。その言の葉。その意味。
「や、それは!」
麗羽様に相談も報告もしなかったのは、俺が全ての責を背負うためなのだ。
そのための征夷大将軍である。
「ねえ、二郎さん。話を戻しますわよ?」
くすくすと笑いながら麗羽様は再びちゅ、と。
「わたくしが、色々頑張ったのは二郎さんのためなのですよ?」
は?
俺が麗羽様の言葉を理解する暇もなく、言の葉は連なっていく。
「お母様がね、おっしゃったの。誰にも文句を言わせるな、って。
だから、わたくしは袁家の模範的な当主として、当主たるべく頑張ったのですわ。
だって、そうしたならば、好いたお方と結ばれることも可能だって言うんですもの」
くすくす、と笑いながらも俺の腰に回された手はぎゅ、と強く掴んで。吐息は熱く、切なく。
「袁家なんてどうでもいい、なんて言いませんわ。でも、わたくしだって思う所はあります。お慕いする方と結ばれたいって、当たり前でしょう?
だから、わたくし、頑張ってきました。
自分で主張するのは、相当、はしたないと自覚してますけれども……」
わたくし、がんばったのです。
そう、全身で訴える麗羽様を抱きしめ、口づける。荒々しく。
「麗羽様……」
「ああ、嬉しい。本当に、嬉しいですわ。二郎さん。ずっと。
ずっとお慕い申しあげてましたわ……。
ええ。幼かった日から、ずっと。ずっと……」
唇を重ね、蹂躙する。
ぼう、とした麗羽様が纏うその薄絹を、そっと剥ぎ取る。
――抵抗は、なかった。
 




