嵐の前の静けさ
「疲れたなぁ……」
ぼそ、と諸葛亮が呟いたその言葉に鳳統は苦笑する。
「そうだよね。ちょっと根を詰め過ぎだよね。お茶でも淹れようか」
応えも聞かずに鳳統は室を去る。それを見送って諸葛亮はほう、と息を吐く。
幽州が蜀として漢王朝の正統を主張してから彼女は、彼女たちは休まる時もない。
物理的に、だ。些かの準備期間があったとはいえ、国の運営なぞ未知の領域。それをこれまでのところ大過なくこなしているのは最大限に賞賛されるべきであろう。
背後の苦笑するような気配。支えてくれている彼女にぼやきという甘えを口にする。応えはないがそれでいい。
手元の書類に目を通し、形のいい眉をひそめる。
「むー、なんでだろう。治安が悪化してるなぁ。襄平は問題ないのに、国境に近いとこほど荒れてきてる……」
「もう、朱里ちゃん。ちょっとは休まないと!」
ぷりぷりと可愛らしく頬を膨らませながら鳳統がそれでも手際よく茶を淹れる。その香りが僅かに諸葛亮の疲労を癒す。
隣の椅子が引かれたので小休憩に入る。彼女の淹れてくれたお茶は癒やしとは対極で、のどごしも刺々しくはあったがこれはこれで味わい深いもので、気に入っているのだ。
「うーん、やっぱり雛里ちゃんが淹れるとすごく香りが立つね!」
「そうでもないよ?単にいい茶葉を使っているだけだもん。私の腕は関係ないよ」
くすくす、きゃいきゃいと、親友でもある中華屈指の頭脳の持ち主たちは雑談に興じる。
それもこれも、これまでの国家運営が――それなりに――順調というのが大きいであろう。
軍政、民政。その二つがほぼ彼女らのか細い肩に圧し掛かっている危うい体制ではあるのだが。
そして軍政は鳳統、民政は諸葛亮と自然な分担が成立している。
無駄な政争なんて彼女らにはない――蜀全体でもあるはずのない――効率的な体制なのだ。
そして、その体制が盤石な理由がある。
「よ、二人ともお疲れさん!」
ふんわりと、仲良しの二人だけの空間。相当に弛緩していた空気だからこそ、その声に二人は引っくり返りそうになる。
「ご、ご主人様……!」
そう、彼女らの執務室への闖入者は、だ。
彼女らが主と仰ぐ男であった。
「二人とも、お疲れさま、だな」
そう言って二人の頭を撫でまわす。これが他の誰かであったら二人とも声を大にして抗議するであろう。子ども扱いするな、と。
だがしかし、北郷一刀のそれは別である。
心からの気遣い、それに二人とも恍惚とする。自分が、自分たちが如何に大事にされているかということを再認識するのである。
「俺には朱里と雛里の手伝いはできそうにないから、せめてもの差し入れ」
笑って包まれていた饅頭を取り出す。
「ちょっと冷めちゃってるけど、それでも。
……いやいや。それはそれで美味しいぞ?」
コンビニの肉まんよりはよほど美味しいしなあ、という呟きなぞ耳に入らないかのように、はぐ、はぐと。そして思ったよりも残されていた熱量。
そして北郷一刀の弾む呼吸にくすり、と笑う。幸福感に包まれる。恐らく冷まさぬように、と駆けてきてくれたのだろう。
「ご主人様、ありがとうございます。とっても美味しかったです」
万感の思いを込めてそう伝える。
「そ、そうか?いや、別にそんな高いモノじゃないし、そこまで喜んでくれるとは思わなかったな」
ま、少しでも二人の応援になったならよかったよ。
そう言おうとした彼に。
「あ、お兄ちゃん、ここにいたのだ!ひどいのだ!今日は鈴々と巡察の予定だったのだ!」
「ご主人様……。恋も……」
「ああ、分かった分かった。じゃな。朱里、雛理。頼りにしてるよ」
「もう、鈴々お腹が減っちゃったのだー」
「恋も……」
「いやちょっと待ってくれ?微妙に値上がりしてるから俺の小遣いで二人の胃袋を満足させられるかには不安がー?」
すでに食事に思いを馳せている二人に引きずられていく
「はわ、わ……?」
その異常。その兆候に気づいたのは流石諸葛亮と言うべきかもしれない。
「――雛里ちゃん!伝票を!違う、そうじゃないね!
桃香様が即位するひと月前からの、食品の相場。できたら価格の推移が見れるものを!
大まかな品目だけでもいいから!」
杞憂であってくれたらそれでいい。
そう、想いながら諸葛亮はもたらされた資料を、人智を超えた速度で確認していくのであった。
◆◆◆
「いやー。高く買って安く売る。こんなに楽な商売ってわたしゃ知らないよー」
にへら、と表情を緩ませてどんどんと手持ちの物資を破格値で売りさばき、得た資金を惜しげもなく投下して物資を買い漁るのは魯粛である。
安く買って高く売るのが商売の基本であるからして、今現在彼女のやっているのは真逆の行いである。
ちなみに高く買うのは米、麦、粟、稗などの安価な食糧。安く売るのは肉、茶、酒、絹織物などの嗜好品である。
「しかしまあ、あの人も突拍子もないこと考えるもんだよねー」
背後に控える黒い影――としか言いようのないその存在に語りかける。確かにその場に在りながら、誰にも注目されぬ穏行。
それを為しながら市街の風景に溶け込むのは張郃である。袁家の中でも特別扱いされる諜報専門の張家の主――最近代替わりしたらしい――は僅かに頬と唇を弛緩させながら応える。
「然り、然りですな。都市一つを干上がらせると言うのであれば過去いくらでもあったろうですが、州ひとつを干上がらせるなぞ、正気の発想ではないですな」
その声に我が意を得たりとばかりに魯粛はきゃらきゃらと笑む。
「でしょでしょー?そこに痺れるし。
むしろ憧れるよねって、ね」
だがしかし、結論から言えば紀霊のその案は現実的ではないと判断されたのである。
何となれば、幽州は中華有数の穀倉地帯。それを干上がらせるなぞ、正気の沙汰ではない。
食糧の備蓄については言うまでもなく、中華を支えんばかりの収穫量の穀物である。
いや、だからこそ穀物の値崩れを防ぐために袁家はこれまで積極的に備蓄を進めていたのではあるが。
故に、それにより蓄えられた物資の総量を鑑みれば、紀霊の発案はこう評される。現実的ではない、と。
「まあ、あの御仁の発想は兎角、突拍子もないことが多いですからな」
淡々とした口調ながら、どこか可笑しげに張郃はそう、評する。
「そうなんだよねー。
でも、方向性としては無視できないって言うかー。ぶっちゃけ私たちには思いつかない路線って言うかー」
どこか不満げに、或いは楽しげに魯粛が呟く。
「――姉も似たようなことを言っていました。その発想は突飛なれど、その着眼点は端倪すべからざる、と」
「げ、あの張勲さんがそこまで評価するんだ。
流石と言うべきか……」
どひゃ、と悲鳴じみた声を上げ。
げんなりとした表情で魯粛は呟く。あの女は敵にしてはいけない存在だと、一目で見破った魯粛の直感こそ賞賛されるべきものだ。
味方にしても特に益無く、敵にすれば厄介きわまりない災厄そのものであろう。
そう、張郃などは思うのだが。
「まあ、私等は役目を粛々と果たしてけばいいしねー。
実際気楽なもんさ、ってね」
その言に張郃は苦笑する。紀霊の参謀たちが採った策は、ある意味紀霊の発案よりも苛烈である。
残酷と言ってもいい。
「最低限の食料は買い上げ、奢侈品は安く売る、か。
結果、一時的に劉備政権の評価は上がるんだろうけどね……」
悪辣なことだ。一度覚えた贅沢を民は絶対に忘れない。そして、だ。
「はなから何も持っていない人は何も守るものなんてないんだよ?
でもね。一度守るもの――それが財貨であれ、愛する家族であれ――を得たらね、今手元の財貨、安寧だけじゃあ物足りなくなるんだよ。
そう。袁家が蓄えた財貨。それはもう蜀のものだよ。それはしょうがない。でもね。それがどんどん目減りしていく……。
それに耐えられる訳がないよ」
魯粛は断言した。かつて富豪と言ってはばかりないほどに財貨を抱えながらも、骨肉相食むほどまで困窮した彼女の言に異論を唱える者はいない。
その言の示す人の本質。その浅ましさ、貪欲さ。……或いは。
「だから、ね。大筋で賛成するよ?
食糧の買い上げ、相場への介入、操作……全部禁じられていたけどね。存分にやるともさ」
昏く、笑う。
これまで、母流龍九商会は相場の安定に尽力していた。
相場、それは高騰も急落も好ましくないのだ。求められるのは安定。相場が安定しているからこそ農民は安心して目の前の農作業に専心できるのだ。
それを崩し、値を吊り上げ、或いは意図的に暴落させようとしていた商人は珍しくなかった。だが、それも母流龍九商会の隆盛により息をひそめる。息の根を絶たれる。
だが、それを。相場の安定を担っていた母流龍九商会が自ら乗り出すとなれば――。
「王手、だね」
けらけら、と魯粛は笑う。まあ、この、ある意味挑発に乗ればよし。
乗らなくても……。
「張紘は十年くらい、って言ったけどね、三年もあれば追い込んでやるよ」
なんとも言えない顔をする張郃に、魯粛はけらけら、と笑う。その笑みは深い。
目の前の男は気づいているだろうか?いや、知っているだろう。
自分たちを操る存在はもっとえげつない手を平気で使う。流石に井戸に毒を投げ、田畑に塩を撒くというのはやめたようだが。
「そりゃ、物騒にもなるよね。中華全土の犯罪者が幽州に送り込まれているんだから」
それが、諸葛亮、鳳統が日々苦しむ治安の悪化であり、魯粛の護衛に張郃という大駒が充てられている理由である。
「これはもうだめかもわからんね-」
嘆息と共に吐かれた言の葉。
その真意を問う人物にはその場にはいなかった。