雷鳴
「大将!うちを北伐軍に推挙してくれへんか!」
ばたん。と扉を開け放って張遼は叫ぶ。曹家の会議、その本番。
息も絶え絶え、と言った様子。如何に彼女がここまで全力で駆けつけたか、というのが分かろうというものである。
「遅かったわね、いえ、ここは早かったと言うべきかもね。いずれにしてもアンタの席はないわ。北伐にて曹家から派するのは華琳様と秋蘭の二人。これは既に決まったことよ。
潔く諦めなさいな」
刺々しい台詞を張遼に投げつけたのは曹操の腹心。軍師たる荀彧である。
本来曹家のこれからを決めるこの会議に張遼の席は用意されてなかった。なぜならば、曹家の騎兵を遠隔地で鍛錬していたからだ。
ぶっちゃけ帰還を果たすとは曹家の誰も思っていなかったからである。それを知ってか知らずか。
張遼は吠える。
「アンタは黙っとき!うちは大将にお願いしとるんや!
なあ、大将。一兵卒でもええんや。それでもええから北伐にうちを参軍さしてくれんやろか。
あの阿呆!あのトンチキ娘に一発いてこましたらな気が済まんのや!
うちは、うちはな。これで馬騰はんの最期を看取ったんや。
ほいで、馬騰はんの今際の際の、あの言葉を!あの阿呆が!そうはならんやろうが!
大将、大将。
頼むわ。うちはあの馬鹿娘をいてこましたらんと、ほんま死んでも死にきれへん」
哀願の態で必死に頼み込む張遼。曹操はくすり、と笑う。
「あら、駄目よ霞。だって貴女。権官なれど……執金吾に任じられたのだからね」
その言葉に張遼は言葉を喪う。
「なん……やて……」
くすくす、と笑みを深めて曹操は言葉を連ねる。
「大出世ね、おめでとう。あの万夫不当の呂布と分けた、【一騎当千】こと趙雲の後釜よ。
まさか、否とは言わないわよね?」
洛陽を乱した董卓の部将であった貴女には拒否権なぞないと、曹操はその笑み一つで示す。
「霞、悔しいのは貴女だけじゃないわよ?春蘭だってお留守番なのだから」
ただし、権官とは言え。太尉として、である。
その待遇、破格である。そして、気づく。
「そんなん……表も裏も、洛陽の軍権は大将のものってことですやんか……」
あっけにとられて放ったその言葉をきっかけにその場の空気が一気に緊張を孕む。
曹操は内心彼女に対する評価を二段階ほど上げる。流石の曹操が虚を突かれたと言ってもいい。
そこに気付くのはおそらく、かの馬騰の薫陶なのであろう。本来の彼女はそのような些事に興味を抱かないほどに天衣無縫であったはずだ。
その天女に、地に足をつけさせた馬騰の手腕、慧眼。いやさ親心に曹操は口を緩ませる。
「そこの馬鹿娘が言った通り、です。
つまり、この漢朝。それは実質華琳さまの御手にあると言っていいでしょう。
忌々しいあの、目の上のたんこぶである袁紹を除いて今上陛下を手中に収めることも可能。 そう、このような好機、ないでしょう」
荀彧のその言葉。
瞬時に張遼は激昂する。
「あほか!月や詠の過ちを繰り返すんか!そんなもんな!」
その、張遼の言葉を遮ったのは夏候惇である。
「霞。
――少し黙れ」
異例である。
夏候惇は常に曹操の言を受けて動くのみ。思うままに言葉は放つ。それは全て主である曹操の判断基準のためのもの。
だから曹操の決に口を挟むこともないし、他者の発言に異を唱えることはあっても遮ることはなかった。
だからこそ荀彧が戸惑う。
「アンタ……」
荀彧が更に何か言おうとするのを目線で制し。ニヤリ、と口角を歪める。
「華琳様。私としては、二郎に肩入れしていただきたく」
曹家の大剣。誰しも認める一の家臣。夏候惇である。
その言は、重い。
そして夏候惇はそれを知って、言うのだ。言ったのだ。
「……へえ、どうしてかしら?」
曹操の問い。
ふむ、と夏候惇は頷く。それはそうだろう。これまで曹家と袁家は、裏でも表でも激しく争ってきていたのだから。
「なに、生まれてくる子。父なし子にするのは可哀想だな、というだけのことです」
愛しげに腹を撫でる夏候惇。その光景にその場が凍りつく。
「あ、アンタ、正気?華琳様以外に身体を許すとか、ありえないでしょうが!この、この……!」
荀彧の弾劾を、夏候惇は余裕を持って受け止める。
「だから貴様は馬鹿なのだ。血を繋いでなお華琳様に忠節を。
それが私の、夏候家の家長たる私のお役目。
少なくとも私はそう思っている。そしてその子種として二郎以上の男がいるものかよ」
子々孫々まで忠誠を、と夏候惇は恭しくひざまづく。名門夏候家の首魁である。その所作、簡にして潔。だがそれ故にその存在感は場を圧倒し、制圧すらする。
「無論、華琳様の命あらば、です。
華琳様の命あらばこの子も流しましょう。父を討たせることもしましょう。この身は華琳様のためにあるのですから。
――お気に障ったならば、如何様にも」
この首刎ね給えとばかりに頭を垂れる夏候惇。
場の、静かなざわめき。それらを全て可笑しげに口角を上げて曹操は口を開く。
その存在感たるや、これまでの張遼や夏候惇の発言を圧倒的に塗りつぶすもの。
そして口を開く。その言は静かだが、込められたもの。その重さ。
「――かつて私がまだ何の力もない小娘であった時、ある男が言ったわ。
私は丞相くらいならば軽く勤まるであろうと、ね」
丞相。大将軍が武において三公を上回るならば、文において三公に隔絶する地位である。
その言葉は果てしなく、重い。
「かつての私は宦官の孫として侮蔑され、迫害される日々だったわ。
無論、無知蒙昧な輩が何を言おうと、どうでもいいのだけれどもね」
それでも、と曹操は言葉を続ける。
「忌々しいことにね、そうまで私を評価しておきながら、よ。私に跪くのはお断りときた!
なんて不遜、そして屈辱!」
気炎万丈。その怒気は控える武将たちを圧倒する。
「中華という盤面に幾多の指し手がいたわ。いずれも容易ならざる相手よ。それらを排除して、跳ね除けてようやく相対したのよ。その男――二郎とね。
ええ、ようやく二郎と差し向かったのよね。私を誰より買っていながら、私に靡かなかった二郎と、ね。
なによ、そんなに麗羽がいいっていうのかしらね」
まったくもって不可解なことである、とばかりに曹操は大きくため息を一つ。
「話が逸れたわね。そして、いよいよ盤上で差し向かったと思ったら不粋な闖入者が湧いたわ――」
その表情はにこやかだが、曹操配下であれば分かる。これは嵐の前の静けさ。しかも控える嵐は過去に見たこともない規模であろう。
その言動にて誤解されることも多い。
だが、本来曹操は激情家なのである――。
「蜀なぞと自称する虫ども、きっちり踏みつぶしなさい!」
雷鳴が轟いた。
小柄であるはずの曹操。だがその覇気は英傑たる配下達を圧倒して余りある。
「御意!」
――後世、曹操がこの時に叛すればどうなったか。
思考実験として好まれる題材である。
此処に曹魏立たず、鼎足は只漢を支うるのみ