雛の羽ばたき、柳に風
「大変だよ!朱里ちゃん!」
あわわ、と足元もおぼつかなく駆け寄る親友に諸葛亮は気を引き締める。彼女は水鏡女学院不世出の才媛。
自分がいなければ間違いなく主席であったほどの、だ。
「どうしたの?雛里ちゃん」
そう言いながらもある程度の推論は成り立つ。この幽州を掌握するにあたって、諸葛亮は政務、鳳統は軍務という分担は実に自然に成り立っていた。
なんとなれば、軍務……特に戦術の閃きにおいては諸葛亮ですら鳳統には一歩以上譲るのだ。
で、あるからして。最優先事項である軍権の掌握について何らかの障害があったのであろうと推論を付ける。その推察は実に正しいが、それは彼女の想定を上回っていた。
「え?白馬義従が……?」
公孫の武威の象徴。地味とも普通とも揶揄されていた公孫賛。だがその実績、実力。それはこの中華でも有数である。
何となれば弱小軍閥の身で北方の護りたる幽州牧に抜擢されるほどに、だ。
そしてその名声、声望を高めたのが白馬義従。白馬のみで構成された騎兵。それはあの匈奴とすら伍し、むしろ正面から渡り合って圧倒するほどの強兵なのである。
その、北方の護り手たる白馬義従を掌握するべく鳳統は動いていたのだが。
「演習、だっていうの……?」
「あわわ、それも長期の、だよう。朱里ちゃん」
「でもいずれは襄平に帰還するんでしょう?雛里ちゃん」
「ちがうの……。
あわ……。このままじゃ、不味いよ……」
不在の白馬義従。その行方、その計画。その痕跡は公文書に残されていた故にあっさりと追うことはできる。出来た。だが、その所在地がなんとも。
「はわわ……。なんで?
南皮に、なんで?」
そう。白馬義従の目的地かつ現在の推定所在地は、袁家の本拠たる南皮なのである。
「匈奴の急襲を想定して、救援の演習らしいよ?」
「でもでもだって!州をまたいで兵を動かすなんて!しかも指揮官だっていないのに!」
言いながら諸葛亮は盛大に舌打ちをする。してやられた!
公孫家と袁家が癒着しているのは周知の事実。それに演習計画者はあの韓浩なのだ。袁家が断るはずもない。
「じゃあ、帰還を!即時の帰還、それも最大戦速で!それなら訓練に!」
引き込める。手元に在れば主人たる劉備の大徳でいかようにもなる。匈奴と死闘を繰り返した白馬義従が手元に並び立つというのはこれ以上ない宣伝にもなる。
まずは手元に戦力を!それでなくても一万の騎兵、重要さは言うまでもない。
「もうやってるよ!」
悲痛な叫びにさしもの諸葛亮も戸惑う。
「だったら、そんなに」
悲痛になることはないのではないかと。
「当初の訓練は二段階。匈奴に急襲された南皮への救援。次が要人警護。
その完了時期はおよそひと月後なんだって」
その、鳳統の言に諸葛亮はギリ、と歯を食いしばる。
「もしかしてその要人って……」
「うん。魯粛さん、于禁さん、秦松さんあたりらしいよ」
やってくれる!そういうことか!いや、そのあたりの人材の暗殺を警戒してのことか!今更ながらに効いてくる韓浩の一手にさしもの諸葛亮も歯噛みする。
まあ、送られてくる人材の排除については読まれていても仕方ないと思っていたのだが、備えの迅速さといったら!
「州牧代の印璽はこちらにあるよ。引き渡しの要望書は?」
「とうに発行してるよ。でもでもだって、こっちの呼びかけに一顧だにしないよ!」
――白馬義従。白馬で固めた公孫の最精鋭の騎馬軍団。実際に白馬であるのは最精鋭の五百ではある。だがそれでも陣頭に立つその威容はかの匈奴をすら恐れさせる存在である。
そしてそれに随伴する一万余の騎兵も精鋭。匈奴と渡り合う。いや、匈奴を排除するための騎兵たちである。馬家と並んで対匈奴で伍することのできる騎馬軍。その強大さは言うまでもない。それを手中にすべく帰還を呼びかけたのだったが。
絶対に必要な地歩固めすら先送りにして、最も信頼する鳳統を送り出したのだ。いかに白馬義従を重視していたかが窺い知れるというものである。
◆◆◆
さて、使者として全権委任を受けた鳳統は、袁家特有の盥回しの上で目的とされる人物との面会を果たしていた。
「おやおや。残念ですねえ。韓浩さんの立案した演習案。その前半は果たされました。
ですが後半がその要件を満たしていません。なんせ、守護すべき要人の到着が遅れていましてね」
激しく計画の実施を求めた鳳統。それににこやかに応えたのは沮授である。
所詮田豊の尻尾である。公孫の軍権の引き渡しを求めたのだが。
「いやですねえ。貴女、公孫の軍権、関わりないでしょう?
ここは公孫賛殿からの正式な命令書を待たないと色々不味いですよねえ」
にこやかに応えるその表情が憎らしい。
一万もの騎兵。滞在費用についても申し訳ないと言っても。
「ああ、そんなことですか。いや、正直彼らには我が軍の演習にご協力いただいてましてね。いやあ、流石は匈奴と渡り合った騎兵とばかりに勉強させてもらってますよ。
え?摩擦?いやですねえ。二郎君が発案、実施した統合整備計画の折に、随分公孫軍とは連携しましたからね。
それに、中級指揮官は公孫にお世話になった者が結構いますから」
最前線で漢朝を守護する防人。勉強させてもらっていますよと爽やかに笑い沮授はその場を後にする。
彼にとっては鳳統の相手なぞ児戯に等しい。何となれば沮授は伏魔殿たる袁家中枢で長年過ごしてきたのだ。それも、あの「不敗の」田豊の愛弟子として。そして紀霊の義兄弟として、だ。いずれか一つでさえ受ける逆風がどれだけのものか。
にこやかにそれを。一度の弱音も吐かずに。そして比較にならぬほどに逆風を受けるあの男を守るために、どれだけの研鑽を重ねたろうか。
正しく沮授は田豊の一番弟子であり、紀霊の義兄弟であった。
そして田豊と麹義。偉大なる先達が隠居したままに沈黙を続けるのも沮授の差配。
「これは大したことではないのです。反董卓連合に於いて現役復帰されたお二方が隠居なさる。つまりそれだけ此度のことは些事。
そしてなにかあればお二方がいる。民心安らかになるこれ以上のことありましょうか」
幼くして田豊にその才を見いだされたその俊才。単身で劉備の動きを把握し備える。やがて来るであろう戦乱を見据えて。
そして、沮授はこれ以前も以降も、衆人の前で涼やかな笑みを絶やすことはなかったのだ。
――そして白馬義従。公孫の騎兵は正しき主に率いられることになるのであるが、それはまた別の話である。
 




