紅蓮の炎
「ふむ。
本日はここまでとする」
うず高く積みあがった書類の山。その中央で韓浩は、ぱん、と手を叩いて解散を告げる。
「しかし、今日持ち込まれた案件すら処理できておりません!」
文官たちの悲痛とも言える声が上がるが、ぴくりとも表情筋に仕事をさせずに韓浩は応える。
「ここで夜通し作業しても貴方たちが疲弊するだけ。
どうせ明日もまた案件の山ができあがる。故に休むのも仕事の内」
さっさと帰れとばかりに手を振る韓浩に文官たちは不承不承に席を立つ。納得したとは思えない顔ばかりだ。それでいい。
明日以降はより一層の精勤が期待できると韓浩は軽く頷く。
「ふう」
すっかり冷めてしまった茶をぐびりとすする。来客用の高級な茶葉ではない。
かつて紀家軍にいたころに散々味わっていた安物である。その安っぽい味と香りにどこか安らぎを覚えつつ韓浩は脱力していく。
このように幽州の諸業務が滞っているのは別に韓浩が無能だからではない。無論配下の文官たちが怠けているわけでもないし未熟なわけでもない。なんとなれば袁家が州牧だったころからその面子はほぼ変わっていないのだからして。
ならば何故にこのように未決済の案件が増えたか。それは単に業務が増加したのだ。
「飽和攻撃。悪くない手」
ずび、と音を立てて再び茶を啜る。
そう、これはまぎれもない攻撃であると韓浩は理解している。あらゆる部門から上げられる報告書、稟議書、告発、意見書。かつてないほどに活発に幽州の行政組織は仕事を果たしていると言っていいだろう。
「しかし、厄介極まる」
ふう、と息を吐き、大きく伸びをする。文官の誰よりも書類の決裁をしていたのは間違いなく彼女である。韓浩の処理能力は沮授や張紘をすら凌いでいるかもしれないほどのものだ。
それでも積み重なった書類がなかなか減らないのには理由がある。いや、理由と言ってもたいしたものではない。印だけ捺して済まない案件が多いこと、そして微妙に書類に不備があることが理由だ。
故に韓浩をはじめとする文官団の処理能力は飽和してしまっている。恐らく処理済みの書類にも不備がいくらもあるに違いない。
そしてそれにつけこんで地歩を増しているのが劉備一派である。少なからず予算、人事に侵食している形跡がある。
「流石は伏竜に鳳雛といったところか」
水鏡女学院きっての俊英。一人でも得れば天下に届くというのは伊達ではない。
その俊才二人が仕掛けてきた簡にして単なる攻撃。恐るべしと言っていいだろう。軍権こそ厳密に精査して侵食を許していないが、近頃は露骨に食指を動かしているようである。
まあ、この守勢もあとひと月もすれば収まるであろう。この窮状――と言っていいかはわからないが――について韓浩は隠し立てなく主たる公孫賛に報告している。併せて伝手を使って人材を某所より借り受けることについてまで認可を得ている。
そして某所の長たる青年からは魯粛、虞翻、于禁、秦松という人材の派遣があることが通達されている。
無論、旧主家たる袁家。その筋から人材を借りるというのはいかにも体面がよろしくない。まるで公孫賛は幽州を支えることができないということの証左のようで。
だが、公孫賛は極めて実務家であり、韓浩に対しての信頼も厚い。
「韓浩がそう言うならそうなんだろう。任せた」
絶大な信頼。その価値を韓浩は理解している。だからこそ最善手を選ぶ。自分の立場などはこの際どうでもいいのだ。
そして内心感謝する。紀霊の選んだ人材はいずれも珠玉。魯粛、虞翻がいれば公務は問題ない。于禁がいれば軍制も捗り、秦松は民政に長じている。韓浩の懸念がそれだけで晴れるというものだ。
実際、破格の援助と言っていいだろう。それだけ幽州の価値が大きいということ。そして公孫賛を大事に思っているということなのだろう。
だから、それまで潰れるわけにはいかない。そうして韓浩は決意も新たにする。紀家軍にて、今は亡き梁剛、雷薄に叩きこまれたその精神。諦めないこと、足掻くこと、泥臭くあること。
「無事是名馬とはよく言ったもの」
それを体現しているのが紀霊である。彼にかかる負荷は実際尋常ではない。それを上手く散らしているのは見事、と言ってもいい。
まあ、とは言え、である。通常業務を四方八方に丸投げする彼のやり方に対して思う所がないわけではないのだけれども、それを言うのは野暮というものであろう。
「ええやん、二郎に書類整理とか向いてへんしな。つうか、うちもアンタにまかせっきりやったし」
けらけら、と笑いを含んだ声が聞こえた、気がする。懐かしい声。最初に仕えた主の声。拾ってくれた恩人の声。温かい、声。
脳内再生余裕とか言っていた男のことを笑えない。むしろ疲れからくる幻聴だろうかと思っていたものだ。それはそれで、逆に口元が緩みそうになる。
まあ、実際かつての紀家軍の軍務は韓浩が一手に引き受けていたのだからして。
綻びそうになる頬を誤魔化すように茶を飲み干す。そう言えば雷薄は上品な喫茶では足りないとばかりに白湯をどんぶりに注いで飲み干していたものだ。まあ、その中身が度々酒精になっていたのはご愛敬というものである。
いけないな、とばかりに頭を軽く振り、韓浩は緩んでいた表情を引き締める。今の彼女は幽州の州牧代理。その信頼に応えねばならないのだ。
決意を新たにする韓浩に来客が告げられる。微かに眉をひそめながらも韓浩はそれに相対する。即ち、劉備一派に。
◆◆◆
「では、韓浩殿が桃香様のご意見を握りつぶしていたという解釈でよろしいですか」
諸葛亮の、挑発めいたその言葉にあえて頷く。
「そう。重要案件については公孫賛殿に許可を得る必要がある。そして公孫賛殿に報告するまでもない些末な案件は私が判断している」
それがなにか?と問う韓浩。
「そっかー。じゃあ白蓮ちゃんは知らなかっただけなんだね。よかった!」
「よかったならば重畳。ではこれで失礼する」
軽く頷き席を立とうとする韓浩に制止の声がかけられる。
「ちょっと、ちょっと待ってよ。
そうじゃないの!白蓮ちゃんにきちんと伝えてほしいんだけども」
「その必要があると私が認識すればそうする」
ぴしゃり、と。
流石の劉備が口ごもる。それを見て諸葛亮は口を開く。
「これはしたり、です。韓浩さんにどれほど権限があるか知りませんが、最近の政務の滞りを見るにつけ、その。公孫賛さんの信頼に応えられているかは一考の余地があると思うのですが」
くす、と内心で韓浩は笑う。そのような嫌味、皮肉、あてこすりは懐かしさを越えていっそ新鮮ですらある。
「ふむ。
私は幽州の州牧代理として公孫賛殿から全権委任を受けている。これは警告である。それ以上幽州の政治について語るのであれば、当方にそれ相応の準備がある」
「そんな建前ばかり言って、もう!」
「韓浩さんが手元で色々と握りつぶしているというのは分かっています。独断、過ぎませんか?」
激昂する劉備を諸葛亮が宥めつつも切り込む。
そして韓浩は顔色一つ変えない。
「言った通り、私の判断は公孫賛殿の判断と知れ。そしてこれ以上は時間の無駄」
「おや、これは専横にもほどがありますね」
くすくす、と笑う諸葛亮。その自信はどこから来るのだろうかと韓浩は内心首をかしげる。
「お伝えしたいことは北方の守り。それを担うのは貴女には荷が重い。そして桃香様は既に成果を上げられました。
ああ、白蓮さんのお手柄にしてもいいのですよ?
つまりです。
北方の脅威たる匈奴。桃香様は七度その長を捕えて七度解き放ちました。
匈奴の恭順。対話による融和。貴女ごときが何を断じることができましょうか」
ふむ、と韓浩は暫し考え込む。……このような見え透いた挑発に乗る韓浩ではない。気になるのはその目的は何か、だ。一体何から目を逸らさせたいのか。
全盛期から程遠いとは言え匈奴の戦力は侮りがたい。
いや、それ以前に、だ。匈奴を討つに足る兵を与えたことはなかった。だというのに。七度に渡り討ち破るなぞ、白馬義従を公孫賛が率いても至難の業であろう。
更に腹立たしいのは、だ。今はまだそのような余裕がないのだが、対匈奴の戦略もぶちこわしにされたということである。基本、いくつもある部族。そこで対立する部族に援助を与えて相争わせるという絵図が崩れてしまったことになる。援助が漢朝から行ったと分からないように、母流龍九商会から黒山賊を経由するという手間暇かけた計画がぶちこわしである。
とは言え、まずは目の前の雑務に集中せねばなるまい。
「匈奴の長。それを討つほどの戦力を預けた記憶はない」
韓浩の言に諸葛亮はくすり、と笑う。
その笑みに韓浩は特に感慨もなく思考を巡らす。
軍権を自分の知らぬところで行使した?それはない。派兵には糧食、資金、武具が必要。その物資の動きは確認していない。圧倒的な書類の奔流においてもそれだけは見逃さない。他の政務が滞ってもそこだけは逃さない。
民間の協力者?母流龍九商会や黒山賊が見逃すわけがない。
「匈奴。埒外の蛮族と言えど、桃香様の大徳に触れ、感じるところがあったようです」
「成程」
つるんだか。そう韓浩は結論づける。七擒七放、なんとも華々しく盛ったことだ。おそらくは匈奴の有力部族に乗り込み口説き落としたのであろう。わざわざ討ち破った後に下したというのは、民に納得感を与えるためであろうか。
そして、だ。匈奴を従えた声望も厄介だがそれよりも厄介なのは、匈奴の騎馬軍が劉備の影響下におかれたということである。
「最早看過できない」
韓浩は結論づける。ここでけじめをつけねばなるまい、と。そしてここまでの暴走を許したのは自分の失策でもある。とは言え。
ちら、と周りを窺い、内心ため息を。
恐らくここで劉備を捕縛、処断するにしろ配下が従わない可能性は大いにある。そうなれば主の権威までが貶められてしまうであろう。
「韓浩さんはちょっと頭が固いかな、って思う。白蓮ちゃんと一度お話させてよ。そしたらきっと分かってくれるから。
お話したら、きっと分かってくれるもん。だって私と白蓮ちゃんは親友なんだもん」
その言に韓浩は戦慄する。いや、ここに至って恐怖を感じたと言ってもいいかもしれない。劉備は本気でそう言っているのだ。そしてそうなると思っているのだ。
いや、なるほど。あの青年が言い含めてきた懸念はこうか。このことか。
精神を落ち着かせるのに数秒、意識を切り替えるのに数瞬。そして刹那にて覚悟を決める。
「親友と言うが、非常に疑問を抱く。親友とは互恵関係にあるもの」
脳裏に描くのは共に笑い、泣き、互いに尊敬しあい、助け合っていた梨園の兄弟たち。彼等の在り様こそが正しく親友というものではないかと韓浩は思うのだ。
熱く、眩しいようなそれ。
それとは決定的に違うと確信に至る。
「貴女は一方的に主に頼り、奪うだけ。人、それを寄生虫と言う」
ちら、と後ろに付き従う関羽に視線をやる。気まずげに眼を逸らすその様子。なるほど、と。確か彼女は劉備に盲目的な忠誠を誓っていたはず。そこに楔を打ち込んだのはきっと彼だろう。
なれば、やることは決まった。
「違うよ!私だって白蓮ちゃんにいっぱい恩返ししてるもん!私はそんなに優秀じゃないけど、朱里ちゃんや雛里ちゃんはとってもすごいし、鈴々ちゃんや愛紗ちゃんだってすごいんだから!」
この人は本気でそう思っているのだろうな、と韓浩は思う。
「貴女は主の部下。忠誠を尽くすのは当然。勘違いも甚だしい」
きっと自分の言葉は彼女に届かない。そして、彼女の大徳とやらは凄まじく場を支配している。兵に捕縛を命じても動かない公算は高い。いや、この場に伏流鳳雛がいるということはもはや流れは決まっているのだろう。
だが、そうはさせない。させてなるものか。
「劉備、貴女は生まれてくるべきではなかった。貴女は争いと災厄を撒き散らす。
そのような貴方を親友と錯覚しているのが主の不幸。その幻想、この手で打ち砕かせてもらう」
ちゃきり、と音を立てて韓浩は腰にあった剣を抜き放つ。この場で佩刀しているのは韓浩のみで。
「貴様っ!やらせはしない!」
徒手空拳であろうとも関羽の武威に疑いの余地はない。韓浩が武装していても届くわけもない。それは論ずるまでも無く、見るまでも無く明らかなことで。
劉備の前に立ちはだかる関羽に一瞥。そして韓浩の口元は僅かに緩んでいた。
◆◆◆
悪くない人生だった、と韓浩は思う。
――韓浩の一番古い記憶は激痛を伴うものである。
炎で照らされ、男にのしかかられ、腰を振られる。そんなものが一番古い記憶である。
激痛に助けを求めようと横を見れば、同じような境遇の女がいた。そして同じく男がその身体の上で腰を振っている。それが匈奴なのか、只の野盗だったのか、今となっては昔のことである。
そして当時では実にありふれた光景である。
自分は幸運であったと韓浩は思う。
男は殺され、女子供は犯され、攫われ、売られるのが世の定め。そこを救われたのだ。
そして、重ねて自分は幸運であったと韓浩は思う。
身よりのない女子など、身体を売るくらいしか生計をたてる手段はなかったであろう。
計数処理が得意であったことが活きて、紀家軍に身を置くことができたのだ。多くの出会いがあり、別れがあった。
そしてまた、繰り返すのだ。さよならだけが人生さ、とはこのことか。なるほど、たった今。腑に落ちた。
「ここまでの専横を許したのはわが身の不徳、無能故。だが、毒婦を親友と誤認する主の認識については諌めるものである。我が身と血をもって――」
どすり、と鈍い音。吹き出る血潮。喉にその剣を貫いて、更に首を切り裂く。
ごぼ、と口から血を吐きながら更に言の葉を紡ごうとする。
「む……、い……!」
場を沈黙が支配し。
そして韓浩の死に顔は満足そうな笑みを浮かべていた。




