慟哭
胸騒ぎなんてものはしなかった。虫の知らせなんてものもなかった。俺が一番早く引き返したのはもっと単純な理由だ。ノルマの地区を偵察して野営地に還る。その距離が最も近かっただけ。俺の率いる騎馬兵の動きが他の部隊よりも機敏だっただけ。
だから、理解できない。どうして野営地から煙が上がっているのか。
俺は何か叫びを漏らしながら愛馬に鞭を入れる。愛馬は間違いなく駿馬であろうが、もどかしくて仕方ない。馬を責めに責める。潰れる寸前に飛び降り、自身の足で駆ける。全速力で駆ける。
間に合え。間に合え、間に合え。速く、もっと速く。俺が鍛錬したのはこの日のためではないのか。ただ、駆ける。駆けた。賭けた。そして。
◆◆◆
「しかし、惜しいなあ、こんだけの女がなあ」
「そうだよなあ。もうちっと飼ってもよかったよな。ほんと、ありえないくらい従順だったのにさ」
「これで袁家の将軍だってんだろ。いやあ、俺、こっちに来てよかったわ。
こんな美人で具合よくて従順でさ――」
砕けろとばかりに力の限り握った三尖刀。ばきり、と何かが壊れる音が脳髄に響く。喪失感を万能感が塗りこめていく。視界が赤く染まる。紅に、朱色に。そして、吼える。
「うおおおおおおおおおおおおおおおお!」
紅を浴びて撒いて散らす。襲い掛かってくる肉塊を散らす。それでも足りない。足りない。逃げ惑う肉塊を斬る、叩く、叩く。肉塊を叩く。かつて人であった塊をそれでも叩く。塊が散って、しまう。溢れる奔流の捌け口を失って、項垂れる。
「ちくしょう、ちくしょう。ちくしょう……!」
慟哭する。取り返しのつかないことに、俺はどうすることもできない。ひたすらに、ひたすらに慟哭する。そして散っていく。仮初の力が霧散していく。喪失感だけが俺を支配する。
「ちく、しょう……」
激昂すら霧散。脱力感が全身を襲う。それでも、譲れないものがある。やらんといかんことがある。それだけが俺を正気にとどめている。
「若……?」
いつの間にか合流した雷薄の声に頭を振って意識を覚醒させる。
「いかんな、姐さんを綺麗にしてやらんと……」
雷薄と、韓浩にこの場を任せて姐さんを抱きかかえて水場へ向かう。きっと一秒でも生き残ろうとしていたのだろう。生き足掻こうとしていたのであろう。生き残ったもんが勝ちだというのが姐さんのモットーだったからな……。
賊に媚びてでも、それを貫いていたのだろう。味方の合流のための時間稼ぎをしようと全力で挑んでいたのだろう。
「間に合わなかった、ですよ」
ツン、と鼻梁に込み上げるものを食いしばる。
水辺に葬る。姐さんは水遊びが好きだったから。きっと喜んでくれる。そして、悼みに来よう。そして。
「くそ、くそ!くっそう!うう、う、うう!」
激昂する意識。嗚咽を堪える裏で冷えた声が響く。そう、これは俺を狙った謀略なのだ。たまたま姐さんがその網にかかっただけ。これを仕掛けた奴にとっては軽い警告くらいのつもりであろう。
「喧嘩、上等。高く、高く買い取ってやる……」
俺に売ったその喧嘩、買ってやる。誰に売りつけたかを後悔させてやる。尚も激昂する意識と裏腹に脱力していく身体。膝をつき、意識は薄れていく。だが、この喧嘩を売りつけてきた奴を俺は、絶対に許さない。この恨み、晴らさないではおかない。
暗い天幕の闇の中。どれだけうずくまっていたのだろう。何をするでもなく、何も出来ず、俺はうずくまっていた。こんな姿を隊の皆に見られる訳にはいかない。指揮官はいつだって平然としていなければならないのだから。頭ではそんなことを思っても、何をする気にもならない。したくもない。
何をしたって姐さんは帰ってこないのだ。身体を何か得体の知れないものが覆っている気がする。全身を痛みが、悼みが駈け、無力感と脱力感が巡る。とは言えいつまでもこうしている訳にはいかない。頭ではそう分かっているのだが。
ふぁさ、と、天幕の入り口が開けられる音がする。
「……っ!入って来んなつったろうが!」
声を荒げて拒絶する。こんな姿を見られる訳にはいかない。
「二郎さま、お食事持ってきました」
咄嗟に反応できない。なんで陳蘭がここにいる?そんなに時間が経ったのか?俺はどんだけ自失していた?
靄のかかっていた頭が徐々に思考能力を取り戻していくのを感じる。
「――おう、すまねーな。そういや飯食ってなかったわ。
置いといてくれ、ちょっとしたら食うからさ」
俺の声は震えてないだろうか。陳蘭と目を合わせることができない。誤魔化すように伸びをしながら、立ち上がろうとする。ぐらり、とふらついた俺を陳蘭が支える。
がしゃん。音を立てて飯が落ちてしまう。だが、ちょうどいい。食欲なんてあるはずもないんだ。
「あ、悪いな。せっかく持って来てくれたのにな」
どうにも月並みな台詞しか出ない。いや、そんなに洒落た台詞を吐くキャラでもなかったしいいや。陳蘭がもう一度食事を取りに行っている間に本格的に再起動しないと。そう思いながら更に適当な戯言を吐こうとしたのだが、ぎゅ、と抱きしめられてしまった。
ふわり、と女の子の匂いが鼻腔をくすぐる。
「大丈夫、です」
「な、何がだよ、俺は!」
「わたしは、ここにいますから」
ぎゅ、と俺を抱きしめる腕に力が込められる。――その温もりに甘えてしまいそうになる。溺れたくなってしまう。甘えてしまう。溺れてしまう。
「く……。う、う、うぅ!」
また嗚咽が漏れ出す。吐き出してしまう。
「俺が、俺がいたなら!姐さんは死ななかった!後続部隊がいるのに兵力分散とか愚の骨頂だ!
俺が殺したようなもんだ!何が紀家の麒麟児だ!上司を・・・。
惚れた女一人守れないじゃないか!」
陳蘭の胸の中で俺は甘える。自らを責める言葉。それらは全て甘えだ。それでも、口に出してしまう。
「泣き言なんて情けないよな」
「いいんですよ。わたしは二郎さまよりおねえちゃんなんですから」
口にした自嘲を優しく抱きしめる言葉が、嬉しい。
「だから、二郎さまを大切に思ってる人がいるっていうことも知っておいて欲しいんです」
そう穏やかに言って、陳蘭はその唇を、俺のそれに重ねた。
「私のこと……、嫌いになりました?」
「昔も、今も大好きだよ……」
「嬉しい、です……」
肌のぬくもりに耽溺していく。包んでくれる暖かさを貫いて慟哭を漏らす。怨嗟をため込む。
ごめん、もう少し。もう少しだけ、甘えさせてくれ。ほんの少しだけ、眠らせてくれ。そうしたら、頑張るから。
◆◆◆
戦闘の顛末を報告する使者を走らせる。始末書どころの話ではない。賊討伐に赴いて、だ。紀家軍最精鋭の梁剛隊の隊長が戦死なのである。これは責任問題であるからして。なので進退伺いを報告書に同封している。雷薄や韓浩に責を負わせるわけにはいかんからね。
袁家からの使者が来たのは数日後だった。驚くべき早さと言っていいだろう。しかも、使者の格が違った。
「黒山賊の討伐、ご苦労さまでした。母上も満足されておりますわ」
なんと、麗羽様――次期袁家のトップである――が使者とは予想外である。使い走りさせていいような人材ではないし、格でもない。などと考えているのを見抜いたのか、にこり、と微笑みながら口上を続ける。
「賊の奇襲に対し、一人で相手を殲滅したこと、まことに天晴れ。
流石紀家の跡取りは武において比類ない。母上はそうおっしゃっております」
……む。
絶句する。これは更に予想外のお言葉である。そんな俺を見て刹那、麗羽様の顔が微かにゆがむ。どこか痛ましげに。
「いや、お役目を果たしたのみ。袁家領内を荒らす賊は討ち果たす。お褒めの言葉を頂くほどのことでもありません」
「これは頼もしいことですわ。その意気やよし。しかして賊が跳梁跋扈しているのも事実。故に二郎さん。貴方には紀家軍再編を命じます。領内安堵と慰撫がその任となります。よろしくお願いしますわね?」
おーほっほと響き渡る麗羽様の笑い声に武者震いが起きる。これまで平時に必要ないと分割されて長城へ派遣されていた紀家軍一万。その再編が命じられる。いずれは、と思っていたが随分早い。俺にそんな資格が、能力があるのだろうか。甚だ疑問であるのだが。
思考の沼に沈もうとする俺の耳元で麗羽様が囁く。
「力をくれてやるからさっさと立ち上がれ。お二方からの伝言ですわ」
嗚呼、なるほど。なるほど。師匠もねーちゃんも・・・落ち込むなんて贅沢は許してくれないということか。つまりそれが内外の最前線である袁家の幹部であるということなのであろう。紀家のトップに立つということなのであろう。
瞑目する俺に、くすり、と麗羽様が笑いかける。
「そして。わたくしも、いずれ袁家頭領として立ちます。その時は応援してくださいますわね?」
「そりゃまあ、無論ですとも」
袁逢様の後継争いというのは意外に熾烈である。多数派工作が今現在も繰り広げられているはず。まあ、兵を握っている文家、顔家、紀家の麗羽様支持は固いから多分安泰だけどね!でも実際麗羽様を予備にして、袁胤殿を当主にってのは結構バカにできない勢力なんだよなあ。
本来は匈奴大戦の後に袁胤殿が当主になるはずが、使い捨てであったはずの袁逢様が予想外に武勲を挙げたのだ。軍幹部が壊滅状態であったから緊急措置として袁逢様が袁家当主となった。序列考えたらかしこき血の流れある袁胤殿であろうという主張は根強い。
「俺以下、紀家軍は麗羽様を支持しますとも」
俺の返答に満足したのか、麗羽様はもっぺんあの笑いを場に響かせて――いや、ほんとよく響くのよ――場を去る。
「きな臭くなってきやがったな――」
くい、と袖が引かれる。心配そうな陳蘭に笑ってやる。大丈夫だ、問題ない。何せほっといたら乱世が始まるからな。俺はそれを防ぐために力が必要なのだよ。落ち込んではいられない。いる暇はない。
だって、俺が麗羽様を、袁家を支えなければいけないんだもの。俺がしゃっきりとしてなかったら、誰に付け込まれるか分かったものではないのだ。
そうして、俺は南皮に華々しく凱旋することになったのだ。忸怩たる思いは別として。




