凡人の事業計画
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サブタイトル変更はちょくちょくします
「じ、二郎様、ごめんなさい!」
涙目な陳蘭をどうどう、と宥める。そう、陳蘭の怪力ベアハッグにて俺は意識を失う寸前までいったのである。或いは逝ってたかもしれんな、とも思う。うむ、力こそパワーということである。
「いいって。もとはと言えば陳蘭から逃げてた俺も悪いしな」
そりゃあ、守り役がその守護すべき対象を見失ったら責任問題であろう。陳蘭が必死になるのもむべなるかな、である。ひらひら、と手を振り重ねて気にしないように言う。
しかしまあ、肉体的なスペックはおいといて、少しは鍛えんといかんなあとか思うのである。幼女に膂力でぼろ負けとか――。いや、俺も幼児ではあるのだがね。責めるでなく、色々と納得してもらった。
というのが半刻前のこと。せっせと書庫にて筆を握る俺に興味津々とばかりに尋ねてくる。
「で、二郎様、何を書かれているのですか?」
今泣いたカラスがもう笑ったとばかりに明るく陳蘭が聞いてくる。まあ、書庫なんぞ幼女にはヒマなだけだろうからな。図書館みたいに絵本とかあるわけないし、読み聞かせイベントもないし。むしろよくも半刻も大人しくしていたと言うべきか。
「ふむ。事業計画書をちょっとな」
「ふぇ?」
さて、三国志を始めさせないと内心誓った俺ではある。では、どうすればそれが果たされるというかという話である。色々と細かい話は置いといて、乱が起きるその理由と言うのはただ一つ。
「まずは食わせろ。孔子様もおっしゃってるしな。陳蘭もひもじいのは嫌だろ?」
「は、はい!おなかがすくのは、やです!」
だからと言って食べる量を減らすなんてのはナンセンス。つまり俺が目指すのは食糧増産。そのための事業計画書をでっちあげようとしているのである。とは言え、俺の頭に農業の専門知識があるというかと言うとそうではない。せいぜいが教科書レベルの歴史、そしてそのキーワードくらい。
「草木灰、備中ぐわ、千歯こき・・・」
「ふぇ?」
非常に心もとないが、それでも西暦200年には届いていないであろう現段階では相当先進的な知識であるはずだ。そしてそれは俺がたくらむ農業改革の一端でしかない。本丸は効率的な苗の間隔、水やり、収穫のタイミングなどのノウハウの共有化なのだから。
とにもかくにも食糧増産、である。幸いにして俺が所属する袁家が根拠地とする華北の地は中華が誇る穀倉地帯。効果が割合的には多少であっても母数が莫大だからな。こうかはばつぐんだ!となるはずである。
と、陳蘭相手に力説してみる。当然帰ってくる反応は疑問符であるのだが。
「ほう、中々に興味深いのう。じゃが、それだけの知識、どこで得た?」
そのような問いも想定の範囲内。欺瞞工作バッチこいである。
「そりゃあれよ。神農って知ってるか?」
「ふむ、古代の神仙。確か食べられる草と毒を自ら口にして区別した方、じゃな」
「そうそう。その神農様のありがたーいお言葉を記した書物が紀家の書庫にあったのを見つけてね。農徳書って」
「ふむ?じゃが紀家の書庫は先日不審火で全滅したじゃろう」
「そうそう。だからまあ、覚えている内容だけでも忘れないうちに書きつけといて、どうせだから実践してみようかな、って」
というアンダーカバー的な――。ん?陳蘭ってこんなにじじくさいしゃべりだったっけ?と思って陳蘭を見ると、ぷるぷると震えており。その視線の先にぎぎぎ、と首を向けると。
「ん?どうした?続きを聞かせんか。中々に面白いことを囀る」
そこには、白髪を長く伸ばして三つ編みにまとめた、筋骨隆々の、老人がいた。
え。
だ、誰--?
そんな俺の内心を読んだかのごとく、老人は呵呵大笑する。
「む、名乗りがまだじゃったか。儂の名は田豊。今後ともよろしくな、紀家の麒麟児よ」
にかり、といい笑顔でそんなことをおっしゃりやがりましたよー!
そして軽くパニックになりながら現状を確認する。よし、大丈夫。多分致命的なことは口走っていない。ここまではOK。しかしてこの面前にいて圧倒的な存在感を放つ老人について考えよう。正直逃げ出したい気分だけんども。
田豊。さほど三国志に詳しくない俺でも予備知識として知っている名前であり、これまでの生活でも耳にしている。すなわち、だ。ねーちゃんが袁家の武の要であるとすれば目の前の田豊と名乗った老人こそが文の要。そして俺の知る知識に於いてはこの老人の献策を袁紹は受け入れず、その結果として袁家は曹操に敗北することになるのだ。
つまり、袁家にとっては鬱フラグブレイカーの一人であることは間違いなく、いずれは接触しようとしていたVIPの一人。こんなシチュエーションでドキがムネムネしてしまったがこれは存外な幸運とも言える。これは奇貨とせねばならん。袁家没落を防ぐために!そして俺の安寧な老後のために!
故に頭を切り替える。企画書作成途中でプレゼンに臨まねばならないことなぞ幾度もあった。準備万端なプレゼン、商談なんぞ甘えである。突発的なイベントから企画をねじこむことこそ営業の本領。本来であればとーちゃんのコネを頼って袁家に波及させようとしていた事象。例えここでとちってもリカバリは効く。そしてプレゼンテイターたる俺は幼児であるからしてプレゼン内容には下駄を履かせてくれるだろう。なればローリスクハイリターン。
男は度胸。なんだってやってみるもんさと偉い人も言っている。レッツ ショータイム!である。
神童と言い、麒麟児と言う。随分と麹義が可愛がり、自慢する紀家の嫡男。それがどれだけのものか、と知己を得るだけのはずであったはずなのだがな、と田豊は内心苦笑しながら紀霊の説く計画について吟味する。
いくつかの農具と農法。田豊も聞いたことのないそれは神農が記したという書物にあったものという。袁家の軍師として名著には通じているという、自らの記憶にもないその書に首を傾げる。
が、始皇帝の焚書以降多くの書物は散逸し、紛失されている。かの太公望が記したという六韜すら名前しか伝わっていないのだ。まあ、そういうことなのだろうと田豊は頭を切り替える。重要なのはそこではない。
突飛な知識なぞはまあ、若気の至り、或いは失われた知識を発掘したということで終わりである。だが、と思う。手柄に逸る若人から出されたとは思えないその骨子に田豊は違和感を覚える。
若手の武官や官僚に多い、手柄を誇るその功名心――これはこれで組織の活性化に好ましいものである――とは一線を画している。いや、異質と言っていいだろう。
「まあ、実際その有効性というのは膨大な試験において検討せねばならないかと」
農作物それぞれにおいて、水遣り、種植えの時期、間隔、それらは現在実際に農作業に当たる民の習慣、勘で為されている。それを膨大な組み合わせに於いて効率化を図る、と。それを為す、と。
「や、袁家の誇る官僚団。遊ばせておくことはないかと思うのですよね」
しれっとそのようなことを嘯く。確かに、匈奴の脅威は近年では遠く。緊急の動員もない。名門袁家に仕える官僚はその有能さを内部の権力闘争に注いでいたのが近年の懸案事項ではあったのだ。
「なにせ、古代の書でありますから失敗もやむなきことかと。むしろ各事例の集計、分析。そしてそれを加味しての改良こそが大事かと」
紀霊としては、PDCAサイクルにちょっと味付けをしただけのつもりではあったがそれは思いのほか大きなインパクトを田豊に与えた。
「なるほどな」
紀霊の視線はあくまで遠くを見つめ、それでいてその歩みはいっそ物足りないくらいに堅実である。何より、若輩の身でありながら人を使うというその姿勢が頼もしいではないか。思いの外、袁家は次代の人材に恵まれているのかもしらん。そう思い田豊は紀霊の計画に一部修正を加え、実行に移す。
――即ち、紀家ではなく、袁家が紀霊の提案たる実験を実施するということ。そして、この決定がただでさえ隆盛な袁家の力を特盛にすることになるのである。