凡人と関帝
ふにょり、という擬音が一番ふさわしいだろうか。
だが、それは内包された真価を表現しきってはいない。いないのだ。
柔らかでいて、なおかつ圧倒的な質感。たわわに実った豊穣。その、人の世を明るく照らす希望を象徴するようなそれ。
人はパンのみに生きるに非ず。そう、物質的な豊かさのみならず、精神の豊かさすら満たしそうな、そんな神の存在を確信してしまうほどに完成され、未だ進化の可能性をも内包する存在がある。
人は生きるために五つの知覚を備えている。そのうちの一つ。触覚のみでここまでの幸福感を味わうことができるとは――。
「あなたが神か」
そう独白したのもやむをえないところである。人、それを現実逃避と言う。
「……貴方は一体何を言っているのですか」
その、状況としては、だ。俺が関羽を押し倒しておっぱいをわしづかみにしているという、なんだそれ。うん、神は死んだ。そしてこれは俺も死んだかもわからんね。
◆◆◆
「いや、正直すまんかった」
「いえ、公道を走っていたのは私の方ですから。ならば激突の件については私に非があるかと」
神妙ながらも微妙に含むところのあるような表情でそんな口上を述べるのは関羽だ。
うん、そうなんだ。洛陽の十字路を曲がったとこで、全力疾走してきた関羽と正面衝突して、だ。なぜか俺の両手は関羽の双丘に。
それなんてエロゲ?な展開に頭が沸騰しそうだった俺である。
ただ、その相手が関羽という武の巨人――別に巨乳の人という意味ではない――である以上、六文銭を意識するのは致し方ない。いや、それすらも現実逃避であったのだが。
幸いにも、不幸な事故ということで関羽も納得してくれた。いや、やばかった。あそこで揉みしだいていたら、いかなる言い訳も通用しなかったであろうからに。
頑張ったな、俺。誰か褒めて。
「しかし、なんであんなに走ってたの?」
なんでも、老婆から荷物をかっぱらったごろつきを追っていたらしい。なんとも義侠心のあることである。ご丁寧にと言うか流石と言うか、そのごろつきの特徴まで観察していたのは流石である。
「まあ、しかしだ。そこまでその犯人の人相風体を把握しているならば後は官憲の仕事だろうよ」
「む、ですが……」
「なに、餅は餅屋、さ。どうせ初犯じゃないだろうしな」
微妙に納得していない風であるが。
「何だ、そんなに信用ならんかね、官が」
「はい。はっきり言って、ここのところの世の乱れ。それは官の不徳故でしょう。
例え犯人の特徴を伝えても、検挙に至らない。そう思ったのは事実です」
政治不信。ここに極まれりだね。
「だったら、犯人を捕縛して官吏に突き出してもまともな処罰は望めないなあ。
それとも、私刑でもするかい?」
「む……。それは……。
いえ、正直そこまで考えてませんでした」
「まあまあ、義を見てせざるは勇無きなり、だそうですし~」
それまで黙っていた風が口を挟んでくる。ほんとはメイン軍師たる風と二人での会食の予定だったのだ。
「そろそろお料理も来ると思いますし、あまりここで深刻になる必要もないかと~」
そう、ここは超のつく高級料亭。
あれだ、翠と蒲公英の接待に押さえてた枠を消化しに来る途中で至福のおっぱいを堪能したというわけだ。ほいで、事故のお礼――お詫びと人数合わせを兼ねてご招待したわけだ。
「いや、私はこれで失礼しようかと。
このような歓待を受けるいわれもないと思いますし」
戸惑う関羽である。キョドり具合が割と可愛い。
ちなみにここまで関羽を誘導というか、連行したのも風である。言葉巧みに誘い込むその手練手管に全俺が戦慄した。ほんま、風を敵にしたらあかんでぇ……。
「おやおや。本気ですか~?このような機会、望んで得られるものではないですよ?
三公の筆頭たる方と、このような場で会える。
そのことの意味、軽く考えすぎではないですか~?」
「紀霊殿の地位は、認識しています。だが、その地位に阿ると思われるのは不本意ですね。
あくまで私の主君は桃香様でありますし」
それを聞いた風がくすくす、と風が笑う。
「本気でそうおっしゃいますか?いや、正気ですか、とお聞きするべきでしたかね~」
ころころと鈴を転がすような声で……それ、挑発だよね。
ほら。ほらほらー。
怖い人が、視線だけで人が死ぬようなそんな目つきになりそうですよ。
「何が、言いたいのですか……?」
殺気すら纏う関羽の言葉を受けても、風は動じたりしない。当たり前だよね。そんな繊細さなんてないに決まってるもの。
「おやおやー。本気でお分かりでない。これはびっくりなのですね~。
二郎さんに言わせると、あっと驚くだめごろう、なのです~」
「ためごろうだよ!」
「おお、間違えました!」
ちがう、わざとだ!
「いや、わけがわからないのですが……」
気勢を削がれたのだろうか。それでも関羽が戸惑いながらも問いかけてくる。
「おやおや、これは嘆かわしいですねえ。三公の長たる二郎さん。その方とお話できる機会の価値をお分かりでないと。
いやしくも漢朝の一端を担うべき方の自覚、識見いかがなものかと。これはその上司の程度も知れますね~」
くふ、と含み笑いの風に関羽は激昂する。
「私のことはいい。だが桃香様を愚弄するのは許さん!」
その、殺気と変わりないほどの怒気を受けても、風にはまさに柳に風。
「さてさて、許してもらえないとのことですが、どうするのですかね~。手討ちですかねえ。こわや、こわや……」
ここで思い出したかのように俺を見てにこりと笑い――いや、可愛いんだけどね――、とてとてと俺に駆けより、陰に隠れる。っておい。
「風は二郎様の臣ですので、生殺与奪の一切は二郎様にお任せしてるのですよ。
風を討ち取りたいのであれば、二郎様を通してくださいね~。
無論、二郎様の命であれば風はいつでも応じますので」
そう言いながら、きゅ、と抱きついてくる風。あざとい!実にあざとい!キュンとするじゃんか!マジ俺チョロい!
つか、風は俺のメイン軍師なんだからそんなことするわけないじゃん。と、口を開こうとすると。
「――いえ、失礼をしたのは私ですね。できればご寛恕願いたい」
そう言って頭を下げる関羽に流石の風もびっくりどっきりであるようだ。
「いえ、程立殿の言、いささか耳に痛かったのは事実ですが、感じ入りました。武と文、道は違えどもその心根は同源。そして頭が冷えたのも事実です。
そして私はもっと視野を広げなければならないと思いました」
だから、問わせてくださいと関羽は頭を下げる。
「紀霊殿は、どうも桃香様、そしてご主人様に辛く当たっている、と思うのですが」
ほお。
目線で口を開こうとした風を抑えて、俺が応えてやる。
「言ってる意味が分からんね。正直、妥当か、むしろ甘めだと思っているが」
「本気で、そうおっしゃるか」
「あ?
俺の言を聞かないなら、これ以上の問答は不要だな」
帰るぞ風、と言おうとしたのだが。
「まあまあ、二郎さん、時に落ち着いてくださいませ~。関羽さんも力を抜いてくださいな」
「んなこと言ったって、さあ……」
「くふふ、ここは風にお任せ願いたいのですよ~」
メイン軍師にそう言われてはいかんともしがたい。
フン、と拗ねてそっぽを向いてやる。
「さて、関羽さん。貴女は一体どうしたら満足されるのでしょうかね?」
くふ、と柔らかい笑みを内包したまま風が問う。
「決まっている。桃香様、それにご主人様が正当に評価されることだ」
胸を張り。高らかに、誇らしげに関羽は宣言した。実に見事な胸部装甲である。李白か芭蕉がこの光景を詩歌にしたものを聞いてみたい。
問題は、この時代の詩才については華琳が図抜けていることか。などと思いながら風の切り返しを楽しみにしていたのだが。
「ぐう」
まさかのいびきである。
ダン!と卓を関羽が力任せに叩く。よく壊れなかったな、と思うほどの勢いである。
「おお!寝てました!」
これは確定的にわざとなんだろうなあ……。
「貴女は!真面目に人の言うことを聞く気があるのか!
自分から問うておいて!」
あー、これ関羽さん本気で怒ってますわー。
でも風ちゃんたら、毛ほどにも痛痒を感じていないみたいですわー。
「いえいえ、風は真面目ですよ?あまりにも眠たいことを関羽さんがおっしゃるので、睡魔に身を委ねただけです~。
だって風や二郎さんは、そのような実体のない売込みにはうんざりしているのですよ。
目立った武勲、功績のない貴女たちに報いる必要はないのですね~」
「話にならなん!桃香様のような方に相応に報わないなぞ、正気とは思えん!」
にまり、と僅かに風の口元が歪んだ。
「これはしたり、ですね~。課せられた職責。それを放り出すような人材。
言っておきますが、白蓮さんの強い援護と推挙がなければ幽州のいち官吏となることもできなかったのですよ」
くすくす、と心底おかしげな風。さしもの関羽も言葉を失う。
「ええ、先ほど官吏が信用できないとおっしゃいましたが、さて。
与えられた職責を放り出す官吏。これほど貴女の言う、信用できない官吏に当てはまる条件もないかと~」
その言葉に反論しようとする関羽を、目線一つで制止して言を連ねる。
「そして、貴女が信用できないとおっしゃった官吏。その中で治安を担うのは星ちゃんなのですよ。
星ちゃんが信用できないとおっしゃる。
いやあ、泣く子も黙る執金吾、鬼の趙子龍。
洛陽の治安を一身に担う星ちゃんの声望を貶めたいのか、それとも妬ましいのか判断に困るところではありますね~」
楽しんでそうだなと思ったのだが、眠たげな表情はむしろ苦みを含んでいて。
「論点をずらさないでいただきたい!」
「ずらしてなんかいませんよ?
結局は貴女が心酔している方を優遇しろと言っているだけです。
いやいや、まだしも宦官の方がマシじゃないですかね?
対価を用意するだけ」
対して貴女たちは恫喝だけでしょう?
「な!宦官以下だと言うか!」
激発したならば俺じゃあ関羽は止められないって知ってるくせに、風よ!
いや、それが狙いか?それは、それは許さんぞ?
「風。お前が俺だけじゃなく親友たる星まで愚弄されたと憤るのは分かるが言い過ぎだ。
俺を止めたお前を今度は俺が止めるとか、俺を働かせるなよ」
「これは失礼を致しました~」
にこり、と笑みを浮かべた風は視線で次の言葉を催促する。
ああもう。丸投げは許さないってか。厳しいのう、厳しいのう。
差し向かいの関羽と、きっちりと話し合うしかないのかなあとか考えながら口を開く。
「関羽。貴様の忠誠はいい。だがな、それは何に対してだ。それを考えろ。
劉備に対してか、北郷一刀に対してか、その思想に対してか。
それとも、漢朝に対してか、な。
正直、ね。お前さんの忠義、ブレすぎだと思うよ。いやさ、絞れていない、のかな。
何が大事か、考えてみろ。それができないとは言わせん。そんな奴が白蓮の下に就くなぞ許せん。
いいか。白蓮は中華で十三席しかない州牧となるのだ。なったんだ。
それに対して貴様らの価値は何だ。旧友以上の価値を俺に示してみろ。それならばいくらでも報いてやろう」
せめて、だ。せめて雷薄がいたならば白蓮の補佐に付けた。韓浩にはない武威。問答無用のそれがあった。いや、それを言うならば、もっとふさわしい人材もいた。白蓮の生真面目さ、韓浩の狷介さも優しく笑って、包んでくれるような人が、いた。いたんだよ。いたのだ。
くそ、未練か、後悔か。どうにも後ろ向きな思考になってしまう。くそう。
「はいはいー。とんとんしましょうねー。とんとーん」
ぺち、と頬に走る冷たい感覚が俺を現実に引き戻す。引き戻してくれる。
「風、すまんな」
「風は二郎さんの軍師ですから~」
くふふ、と笑ってしなだれかかる風の身体をきゅ、と抱きしめる。艶やかな蜂蜜色の髪に指を通し、梳く。ふわり、と香る甘く、爽やかな香り。
肉付きの薄いこの身体で、頑張ってくれてるのだなあと痛感する。
心底疲れる。と深いため息とともに風の頭に手を置けばするりとその手を頬に誘導し、雰囲気を甘いものに一変させる……そのあまりの変わり様に流石の関羽も理解が追い付かないようだ。
「まあ、なんだ。俺は釣った魚には全力で餌をやるからな。欲しいものあったら言ってね。
そして、だ。
んー。いや、なんでもない。
主従ともに息災で、な」
たはは、と。ひらひらと手を振って詫びる。
「む、色々と反応に困るのですが」
「知るかい。困って悩めよ。それがお前さんに必要なことと思うし、な」
そしてぐぬぬ、と唸る関羽である。
まあ、色々堪能したからこれでヨシ!としよう。
「くふ。忠義。それは思考回路を麻痺させるものかもしれないと風は思ったのですよ。
関羽さん、どう思います?」
容赦ない。流石風は容赦ない。
その問いには明確に応えずに去る関羽。その悄然とした様子を見て思う。
――もうちょっと苛めたらよかったかなあ。わりとそそるやん!
いや俺にそんな趣味はなかったはずなんだけどね。
ないってば。




