姉者、ちゃんとしようよ・・・
怒髪衝天。
今の夏候惇を表現するならばその一言で全てが語られるであろう。そのように夏侯淵は思う。
怒気が一秒ごとに高まり、収斂されていく。そして爆発する。実に自然なことである。
「ふざけるな!」
怒りの鉄槌を振り下ろす。頑丈な樫の木で造られていた卓が、轟音と共に一撃で真っ二つになる。
そして、その怒気の発露に当然反応する者もいる。
驚きすくむ者、そして、その者達の随伴者――護衛――に至っては。
「そこっ!」
夏侯淵が放ったのは何の変哲もない銅銭だ。ごくごくありふれているものである。それが流星となって懐に、或いは髪留めに手を伸ばした輩を撃つ。
――指弾。かつて曹家に長期逗留していた、どこぞの青年が酒の席で戯れに語ったそれを夏侯淵は見事に実戦レベルにまで会得していた。
例え質量の小さい銅銭のようなものでもまともに直撃を受ければ、骨にひびが入るくらいには、だ。
当然その直撃を受けたならば。
カラン、と複数の刀子が落ち、響く。
そしていよいよ荒ぶる魂。
「貴様ら!薄汚い取引を持ち掛けるばかりか、華琳様との会談に暗器を仕込むなぞ!言語道断!
貴様らには死ですら生ぬるい!季衣!七星餓狼を持て!」
はい、と駆け出す少女を見送り、夏侯淵は笑みを深める。
「ああ、そこで腰を抜かしている方々。失禁しないだけ貴君らは立派さ。
何せ貴君らは中華で五指に入る武人の怒気を受けたのだからして。
だがその報いは受けんといかん。なに、そんなに震えることはない。これで姉者は優しくてな。
つまりこうだ。猶予は与えたぞ?」
にこり、と夏侯淵は極上の笑みを浮かべる。
――この状況においてはこの上なく迫力があるのであるが、さっさと立ち去れという言外の意味。蜘蛛の子を散らすようなそれ。
夏侯淵はその様子を見ながら。
「姉者、あれでよかったのか?」
眼前に誰もいなくなり、問う。
その問いには憤然と。だが、きちんと応える。
「ふざけるなよ、と言いたいところだな。あのような奴ばらににどうして気を遣うことがあるものかよ」
夏侯淵は苦笑する。それでこそ我が愛する姉である、と。
「だがな、姉者。あれはあれで利用価値もあったろうに」
多くは清流派。その影響力は無視できるものではない。なんとなれば、これまで宦官や、何進率いる汚職官僚の邪知暴虐に抗ってきた――といういことになっている――のは彼等なのだからして。
「知ったことか!
華琳様に面会するのに暗器を仕込むなぞ言語道断よ!」
「それは、そうだが……」
夏侯淵のその言葉に夏候惇は笑う。朗らかに、曇りなく。
「秋蘭。華琳様がこの場を任せられたのは私だ。
だから何も問題はない。ないとも。
変な腹芸が必要ならばあの陰険な軍師気取りが任じられただろうからな。
だから、これでいいのだとも」
晴れやかに笑う夏候惇。ふむ、と夏侯淵は納得する。した。
主君たる曹操が確かに夏候惇に腹芸をもってして士大夫どもを取り込むことを期待するとは思えない。
「そう言えばその陰険なのは、二郎の相手をしているのだったか」
その声に夏候惇は柳眉を軽く逆立てる。
「うむ。いやさ、久方ぶりに二郎と語り合いたかったのだがな」
「おや、姉者はそこまで二郎に執心だったかな?」
「茶化すなよ、秋蘭。
二郎はそう、私と違ってどちらもいけるクチだ。
だからあの陰険が相手しているのだろうよ」
つまり、手練手管を以って取り込むべきはあちらだと判断しているということか。
夏侯淵は納得する。納得したのだが。
「しかしあれは果たして取り込めるようなものかな」
これは夏侯淵の本音である。過去幾度も、だ。冗談交じりにとは言え主君たる曹操の誘惑をにべもなく断った紀霊。彼がなびくというのは夏侯淵にとっては想像しがたい。
「無理に決まっているだろう」
あっさりと否定する夏候惇。
「私を含めて桂花や秋蘭もそうだがな。
誰に粉をかけられても論外だろう?それと同じことだ」
だったら余計に、と夏侯淵は首をかしげる。
「なに、二郎は本質では単純な男さ。あれを味方につけるのに一番いいのはな。
褥を共にし、子の数人も孕むことさ」
からからと笑う夏候惇に流石の夏侯淵が絶句する。
「姉者。それは飛躍しすぎではないか?それに孕むと言っても、だ」
沈着冷静を以って知られる夏侯淵である。彼女の慌てように夏候惇は呵呵大笑する。
「なに、私は二郎を気に入っているからな。
苦ではない。それに、名門たる夏候家の跡継ぎ、考えぬではなかろう?」
「そうは言うがな、姉者。
二郎は、だ。
あいつは、ただ肌を重ねた女にそこまで甘くなるとは思わん。
賈駆だって、だ」
「無論そうさ。心底敵対するならばいくらでも命のやり取りをするだろうよな。
賈駆は、そこまでいってしまったからな。あれは、そう。哀れな女よ。
忠誠、友情、それに恋慕を天秤にかけるなぞ、正気の沙汰ではない。
まあ、それはそれ、これはこれだ。
仮に私が二郎の子を産んだとて、華琳様と遣り合うのに一片の迷いもないさ。
二郎もそうだろう。その後、きっと二郎は苦悶するだろうがな」
かんらかんらと笑う夏候惇に、夏侯淵は問う。
「これは純粋な好奇心なのだが、その場合、姉者はどうなのだ?」
その問いにふむ、と夏候惇は考え込み。
「そんなもの、その時になってみんと分からん!」
それでこそ姉者だ、と夏侯淵もつられて笑う。
「そうだな。姉者の言う通りだ。ああ、その通りだ」
くつくつ、と。
その笑いは久方ぶりに本心から、腹から生じた笑いである。
夏侯淵としても、対峙するにも共闘するにも楽しそうなのだ。
少なくとも、彼と対峙するならばあの趙子龍が出張ってくるだろう。自分たち夏侯姉妹を単独で相手をして、負けないまでも勝ち目が見えなかったのは呂布を除けば彼女のみ。
「いかんな、姉者の熱にあてられたようだ。二郎と遣り合うのが楽しそうだと思ってしまった」
「ふふ、いいことだ。或いは秋蘭と矛を交えることになるかもしれんしな」
「おお、こわいこわい。精々姉者の言う陰険軍師に懇願しておこう。そのようなことがないように、な」
笑い合う彼女ら。
その無垢さを見れば、話題の男も考えを改める一助としていたかもしれない。




