はおーの感傷
「おめでとうございます!華琳様」
曹操は腹心の声に軽く手を振り、応える。
湯浴みをすませたばかりの金髪からはまだ僅かに湯気すら立ち昇り、軽く上気した様は色気すら感じさせる。
そして配下たちは曹操のもたらした報せに湧く。三公の座の一つである司空の地位。飛躍と言っても足りないくらいなのだ。いずれは、やがてはと思い描いていた。それがこうも早くに、だ。
数日前までは、袁家と事を構えるやもしれぬ、という絶望的な状況であったということが嘘のようである。
そう、袁家とはいずれ雌雄を決するというのは予想していた。だが、まだ早すぎる。早すぎた。
曹家が誇る夏候姉妹の武威、荀彧の知謀、そして文武において比類無き曹操という傑物。ありとあらゆるものを積み上げても時期尚早。
以前より曹家は――というより曹操が――袁家、特に紀霊に評価、或いは警戒されていた。粛清の余波で族滅すらありえたのだ。無論ただでやられる心算はなかったが。
割と曹家には悲壮感的なものが漂っていたというのが実情であった。
なんとなれば、曹家が権力基盤として当てにしていた宦官が物理的に一掃されてしまったのだ。累が及ぶであろうことは想像に難くない。
「流石華琳様です!」
その声を受けて曹操は笑みを深める。
四世三公。袁家が誇るほどにその地位は大きいのだから。
◆◆◆
「しかし、終わってみればあっけないものですね。もっとこう、大規模な戦闘があると思っていたのですが」
「姉者、洛陽でそのようなことがあったら洒落にならんぞ」
「秋蘭、それは分かっているとも。だがな、実にあっけないではないか。あれほどに禁忌と思っていたのだがな。こうも脆いものか、とな」
やれやれ、といった風に荀彧が答える。
「軍事的にはそうでしょうけどね、まかり間違えば逆賊になるのよ?
たとえ一時権を握ったとしてもね。大義名分を得られたら討たれるだけよ。
攻めるに易く、守るに難い。それが漢朝の首都たる洛陽の強み」
正当性こそが重要なのだ。その言になるほど、と夏候惇は頷く。
「確かに、洛陽の防衛とか考えたくもないものだ」
深刻そうに呟くその言を受けて笑いが弾ける。別に夏候惇としては冗談を言ったつもりはないのだが。
◆◆◆
「しかしそろそろ処刑の時刻か。
実際哀れとしか思えんがな」
ずず、と茶をすすりながら夏候惇は呟く。
董卓が、董家が漢朝に仇なしていたというのは広められた言説であるが実態はそうでない。そして曹家軍首脳はそれを皆理解している。
「とは言え、仕方ないことだろう。
洛陽どころか禁裏に血が流れたのだ。それ相応の結果が求められるというものであろうよ」
夏候淵の言葉は反董卓連合の共通認識に近い。
それでも惜しいな、と思ってしまうのだ。
「そうだな、その通りさ。
だが、それでも惜しいと思う。董卓、賈駆ともにな。
あれだけの人材、求めても得られるものではないだろうよ」
実戦指揮官でもあるのだ、夏候惇は。そしてその評価は正しい。
暫し漂う沈黙。
「いっそ認めたら良かったのにね。彼女らを殺したくないって。
そしてかくまえばよかったのよ」
呟いた荀彧のそれ。
「それはそうだろうよ。二郎だからな。きっと殺したくないと思っていたろうよ。
だが、その寛恕を受ける奴らがそれをよしとはせんだろうよ」
「分かってるわよそんなこと!
あいつらが死にたがっているのはね!
でもやりようはあるし、利用価値だってあったわ。
囁けばいいのよ、よかったのよ。
殺さなくて済むってね」
それは悪魔の囁き。黙っていればわからない。
だからこそ曹操はそれを選ばない。いや、選ぶわけにはいかなかったのだ。
「残酷なことね、桂花。
それを二郎が検討していなかったとは言わせないわよ」
瞑目していた曹操が口を開く。
「それを口にしたらね、引き返せないのよ。
やってもやらなくてもね。
むしろ、その話を持ちかけたらその時点で終わりね。
だって無理矢理共犯関係に持ち込もうとするようなものだもの」
曹操の笑みは深まり、透き通っていく。
「だからね、私はそれを言わないし言えない。
私が言った瞬間に共犯者となるのだから。
そして言わない。絶対にね。
それが優しさ、或いは厳しさというものよ」
やれやれ、困ったものねと首を振る曹操。
「まあ、そこまで私が譲ってあげているのだもの。二郎は応えてくれるわよ」
くすり、と微笑む曹操。
そして、その想定は覆されて尚、曹操は揺るがない。
彼女こそが紀霊も認める世紀末覇王なのだからして。




