天網恢恢疎にして漏らさず
劉備たちにもたらされたのは、何とも奇妙な報せであった。
「愛紗だけで……か?」
首を傾げるのは北郷一刀だけではない。劉備でも、北郷一刀でもなく関羽単独での面会の許可。それにさしもの諸葛亮と鳳統も整合性を見いだせない。
いや、そこに至った経緯を察するならばそれはすでに人外の域に達しているであろうけれども。
「愛紗ちゃん、お願いね!」
「任せたぞ!」
口々に激励の声が響き渡り、関羽は身を引き締める。
なんとなれば単身で敵地と言っていい場所に乗り込み、董卓たちを救わなくてはならないのだから。
「はわわ……。紀霊さんは温厚に見えて、実際は激情家なところがあります。くれぐれも短慮にはお気をつけてくださいね」
「あわわ……。お任せいたしました……」
関羽が手にする札は余りにも少ない。いや、実質二枚のみ。伝国の玉璽と七星刀。その二枚で何としても、と意気込む。
「しかし、持参せずともよいのでしょうか……」
果たして、玉璽と七星刀。それらを所持していることを信じてもらえるものかどうか。
「いや、それよりは交換条件なしに強奪されるリスク……危険性を考えた方がいいだろう」
北郷一刀の声に軍師たちも頷く。
「愛紗なら大丈夫だと思うけどさ。気を付けてくれよ」
何せ相手は宦官を皆殺しにすることを命じたくらいに、人の命を軽く考えているのだから。
関羽は、寄せられる期待と気遣いに熱いものを感じながら決意を新たにするのであった。
◆◆◆
「愛紗、久しいな」
「星か!いや、まったくだ」
旧友である趙雲の声に関羽はほう、と息を吐く。それで自分がどれだけ緊張していたかを認識する。
一騎当千。まさに昇り竜がごとく武名を高めている彼女が自ら出迎えてくれた。関羽はその友誼に感謝する。
「いや、しかし今を時めく星が出迎えなどとは大層なことだよ」
「なに、他ならぬ愛紗を出迎えるのだからな。まあ、一応腰の物を頂いておこうか」
「ああ、済まぬな」
愛用の――最近は活躍の機会の少ない――青龍堰月刀を趙雲に渡して尚関羽は上機嫌にあれこれと趙雲に話しかける。趙雲も親しげに、時にからかい、時に真剣にそれに付き合う。
そして豪華な扉の前で趙雲は顔を引き締める。
「さて、だ。主は多忙。そして厄介な案件と向き合って消耗されておる。くれぐれも短慮は起こすなよ?」
関羽はその声に気持ちを引き締める。
「そなたに感謝を。ああ、そうだな。失礼のないようにしないといけないな」
とは言え、だ。自分とて難儀な使命を負っているのだ。ここからは戦場。血を流さない戦場。いや、これは諸葛亮の受け売りではあるのだが。
「主よ、愛紗を連れてきた」
趙雲が静かに、それでいてよく響く声で室内に呼びかけると扉が重々しく開かれる。
◆◆◆
「星、ご苦労」
そこに男がいた。
どっしりと椅子に深く腰掛け、頬杖をついている。だが、どこか疲れているようにどんよりとした表情でどろり、と関羽を見る。いや、いつもが覇気に溢れているかというとけしてそうではないのだけれども。
代わって関羽を突き刺す視線が二対。けして友好的ではない。いや、殺気すら込めて関羽を見据える。
一人は幼女。蒼い髪を可愛らしい髪留めで結び、棒状の得物を抱える。
一人は女戦士。銀の髪をざんばらにし、徒手空拳なれども気迫は恐るべきもの。油断なくこちらを窺う。引き締まった身体には幾条も傷跡が走り、その歴戦を物語っている。
反射的に関羽は身構えるが、手元に愛槍がないことに気づく。その認識が遅れるほどに彼女らの殺気は濃く、さしもの関羽も後ずさる。
「主よ、愛紗が委縮してしまっているぞ?」
ふ、と関羽の耳元に温かい息を吹きつけて、趙雲は可笑しげに笑う。
ぞくり、と関羽は全身の毛が逆立つのを感じる。別に趙雲の息遣いそのものに何かを感じたわけではない。
なんとなれば、この関羽をして背後に立つ趙雲の気配に気づかなかったのだ。いかに目前の二人に気を取られていたとはいえ、不覚。そう、不覚である。
「凪、流琉。お客様、だぞ?」
その声。
そして、可視出来そうなほどに色濃い殺気を放っていた二人。それが紀霊の後ろに控える。
「まあ、なんだ。
これくらいに愛紗は評価されているということで、気を悪くしないでほしいものだな」
くすくす、と笑う趙雲に吠えようとして関羽は留まる。本題はそこではないのだから。
◆◆◆
「紀霊殿。お忙しいところ、貴重なお時間を頂きまして――」
「能書きはいい。何用だ」
関羽の声を遮る。その、あまりと言えばあまりな言い様に、逆上しそうになる。それを抑えて関羽は本題を切り出す。
「董卓殿、並びに賈駆殿の助命をお願いに参りました」
ギリ、と異音が響く。
「何を、言った」
振り絞ったような低い声に、そこに込められた気迫。だがそれに関羽は怯まない。
「圧政、暴政。それにより洛陽の民は苦しんだと、そう聞かされておりました。ですが
実態はそうではない。そうでしょう?ならば!」
彼女らを誅してどうするのか!
裂帛の気合いと共に関羽は訴える。
「董卓、賈駆は極刑。これはもう決まったことだ」
うっそりと呟く紀霊の声に関羽は逆上する。
「なぜです!
彼女らは巷で言う所の暴虐なぞとは無縁!そして彼女らは泰平の世に向けて必要ではないのですか!」
うう、と苦しげに紀霊が呻く。よし、ここが攻めどころとばかりに関羽は言い募る。
「だってそうでしょう!賈駆は貴方と特別親しく!そして貴方はその決断を覆す権限がある!」
それに。
「密かに生き延びさせたとして、誰がそれに気づきましょうか」
そう、黙っていれば分からない。たかだか数人なぞ、だ。本気で権力者が匿えば追跡も追及も不可能。だからこそ、無駄に遵法な紀霊の心に楔を打ち込むのが自分の役割。希代の軍師からそう、任じられたのだ。
沈黙。そして激発。静かな。
破綻。
「――天知る地知る。君知る我知る。
いったいそのような秘密、漏れないわけがあろうかよ。
そしてお前さんは飼い主に報告するだろう?
そこに機密という響きが欠片ほどもあるものかと問いたい。小一時間問い詰めたい。そして、だ」
ぎり、と噛みしめた口元からは一条の紅い筋が落ちる。
「部下を、先達を、未来を担う幹部候補生を無為に死なせた。
いや、無為とは言うまい。
彼らの犠牲があったからこそ俺はここにいる。それを、だ。
何条以って彼らに詫びればいいってんだ。ふざけるなよ。
ふざけるなよ!武門を背負う俺がみっともなくも逃げ出してだ!生き恥晒しているんだ!
……ここで彼女らを許すなんてできない相談だ」
悲痛な声。それは関羽の胸を打つ。こんなにも彼は、彼らは。
「だから、無理な相談だ」
きっと劉備や北郷一刀ならば、言ったであろう。死んだ人よりは生きている人のことを考えようと。
きっと軍師たちは言を左右にして論点をずらしただろう。そんなことは重要ではない、と。所詮感傷であろうと。
だが、関羽は武人であった。劉備軍の中で誰よりも義を重んじる武人であった。だから反論できない。反論できないのである。むしろ共感すら覚えていた。
それでも、自分の任に忠実であろうと関羽は言葉を紡ぐ。
「それでも、なんとかなりませんか」
その食いつきに、決壊する。
「なるかよ!なるものかよ!
誰が!殺したくて殺すものかよ!ふざけるなよ!知った風な口を!」
激昂。
どん、と荒い音を立てて紀霊は立ち去る。戸を蹴破らんとする勢いで。慌てたように護衛の二人が追随する。
「散々だったな、愛紗よ。
いやしかし、あれは悪手だろう――」
苦笑交じりに趙雲が関羽に声をかける。
目線で、どういうことだと問う関羽に、苦笑をより苦くして趙雲は答える。
「あれで主は情に弱い。
その主が董卓殿と賈駆殿の助命について考えなかったわけがなかろう。いや、人一倍悩んでいたよ。
そして、苦悩しながら選んだのだよ。それを、な」
「何故だ。紀霊殿は袁家でも有数の権力者だろう。何を遠慮するのだ」
違うのだ、と趙雲は悲しげに首を振る。
「結局、だ。彼女らの、特に賈駆のしでかしたことは大逆に等しい。
確かに主の権力であれば二人をかくまう。それは可能かもしらん。だが、それは禍根にしかならんよ。それとも劉家軍はそれを望むのか?」
そうではないだろうと問う趙雲に関羽は悄然と頷くしかない。
「いや、そうしょげるな。これで某は感謝しているのだからな」
不思議そうな目を向ける関羽。
「なに、あれで主は情熱的でな。そして。いささか内罰的なところがあると言うかな。
それでいて、中々弱みを見せてくれん」
艶然と笑う趙雲に関羽は首をかしげる。
「夜は天下無双の槍捌きだからな、主は。この身を以ってしても翻弄されるばかりなのだ。いや、それはいいのだが、それで加減されるのはどうにも口惜しい。
だが、あそこまで鬱屈としていれば、だ」
今宵は激しいであろうなあ。
「だから感謝したいのだよ。今宵は某が主と同衾するからして」
くつくつと、無邪気に笑う趙雲に関羽は激昂する。
「不埒な!破廉恥な!星よ!貴様の武人としての矜持はどこにいったのだ!」
その声に一瞬きょとん、とした後に趙雲は応える。
「何をそのように大層な。未通娘でもあるまいに」
「ふざけるな!私とご主人様はそのような破廉恥な関係ではない!」
その気迫に流石の趙雲もよろめく。正気か、とばかりに。
「はあ?いや、愛紗よ、それは無理があるぞ?主従ともどもに彼に傅いておって、それはないだろう。そっちこそ爛れた関係であったと思っていたのだが」
ぐぬぬ、と関羽は唸る。世間一般ではそのように見られているのであろうか、と。いや、確かに主君たる劉備、そして張飛は。いや、諸葛亮と鳳統もそうだろうか。
考えるほどに反論の余地がないことを関羽は自覚し、その顔色を白くしていく。
その様子に色々と察したのか趙雲が問いかける。
「ならば問おう。愛紗。貴殿はその武を何に捧げる」
「知れたこと。桃香様とご主人様に、だ。皆が笑って暮らせる世の中の為に、だ」
揺るぎなく関羽は応える。だが、趙雲はそれにどこか不満げである。
「愛紗よ、それは貴殿の言葉ではなかろう」
何故だろうか。その言葉が関羽の胸を打つ。
「私が知る愛紗はもっと、だな。自分の言葉で理想を語ったものだ。
拙くても、それが貴殿の思いであり、武の根幹であったろう」
ぐ、と。
関羽は趙雲の言に反論できない。
なぜだろう。あれほどまでに信じていたものが、薄く。そして遠く感じられる。
「理想を語るのは大いに結構」
だが、と趙雲は艶然と笑う。そのままでは、な。
――理想を抱えて、溺死せんようにな。
けらけら、と軽く笑ってその場を去る
――その場に残された関羽は何も、言えなかった。
何も、言えなかったのである。
 




