夜明け前、そして。
ざわめきが徐々に、だが確実に広がっていく。
日輪が昇り切り、前夜の狂騒の残滓を振り払ってのそりと起き出した諸侯軍は端的に言って戸惑っていた。
これよりは洛陽に進軍するのみ。もはや抵抗勢力はなく、進軍するのみ。だのに。
なぜ洛陽への道は既に陣構えを終えた軍勢によって塞がれているのであろうか、と。
「物流に難がある洛陽では反董卓連合の大軍を受け容れる余地がない」
袁家からはそのような事情を説明する書状が回されてくるが、それで納得する諸侯軍ではない。
「なるほど、確かに凄い人数だもんな。そりゃあ混乱するか。でもそれにしても、ものものしくないか?」
北郷一刀は浮かんだ疑問を口にする。
「はい。確かにそうです。あれからは、断固として通さないという袁家の意思表示がうかがえます」
「でも、何で袁家軍だけじゃなく諸侯軍も殺気立ってるんだ?」
膠着した状況が暫し続き、諸侯軍からは不穏な気配が立ち上る。諸侯軍からすれば上前をはねられたようなものである。たまったものではない。
そう、たまったものではないのだ。
「それは……」
そして諸葛亮は口ごもる。果たしてそれを聞かせていいものか。
「朱里、分かっているなら教えてくれないか」
そう、言われてしまえば否やはない。
「……諸侯軍は常備軍ではありません。それが最大の理由です」
「どういうことだい?」
首を傾げる北郷一刀と劉備に鳳統が言葉を続ける。
「諸侯軍の兵力。それは正規の兵ではありません。極端な話、そこいらの農民、流民に武器をもたせただけというのが実態です」
まあ、それは自分たち義勇軍も変わらないのではあるが。
「戸籍のしっかりした民を動員すればするほど手元の領内の収入は減ります。そしてそれは動員された兵も同じく、です」
武具、糧食に費やされた軍費。それは諸侯の財政を圧迫する。誰がこのように大規模な出兵――それも長期間の、だ――を想定なぞしていようか。
「ですから、いえ、だからこそ諸侯軍は洛陽への進軍を待ち望んでいたのでしょう」
この時代、進軍に伴う略奪は黙認されている。そして貧しい寒村ならばともかく、これから進軍するのは肥え太った洛陽である。どれだけの富が蓄えられていることか。そしてその富を分捕った後は領地に帰るだけなのだ。
「そんな……ひどい……」
劉備の悲しげな言葉にやはり言うべきではなかったか、と諸葛亮は僅かに後悔する。
「でも、じゃあ、どうして袁家は……あれじゃまるで洛陽を守っているみたいじゃないか」
北郷一刀の言は正しい。正しく袁家は洛陽を守護しようとしているのであろう。なぜならば。
「袁術殿が入内されます。故に洛陽が荒れるのは看過できないということでしょう。そして、兵を蓄えた諸侯軍は実に目障り。あわよくばここで誅滅してしまう心づもりでさえあるかもしれません」
「そんな……乱暴な!」
もっとやり様があるだろうにと北郷一刀は憤慨する。
下手をすれば洛陽は火の海になるだろう。彼の知っている歴史と同じく。
その憤懣、或いは悲嘆。
だが、と思い諸葛亮は傍らの親友に問う。
「……雛里ちゃん、あれ、抜ける?」
こと、千変万化たる戦場の機微に関して諸葛亮は鳳統に一歩も二歩も劣るのを自覚している。
「無理だよ、朱里ちゃん。中央に陣取る顔家軍の重厚さ。左右を固める孫家軍、そして公孫家軍。
どっちも陣構えだけでその歴戦が分かるよ。そこに遊軍として紀家軍。
決戦勢力として文家軍がいるんだよ?しかも本陣は更に分厚い袁家旗本。
あれを抜くなら、倍は、欲しいな」
実際、反董卓連合と言ってもその内実は袁家軍単独でも成り立つもの。
そしてその威容があるからこそ大多数の諸侯を前にしても袁家軍は揺るがない。質、量ともに恐るべきものである。将帥も、兵卒も。
「うん。私なら三倍は欲しい。雛里ちゃんの言う通りと思う。
桃香様、ご主人様。恋さんでもいない限り目の前の陣を突破することはまず無理でしょう」
「じゃあ、それが鈴々と愛紗ならどうだろう」
ふと、好奇心で北郷一刀はそう尋ねてみる。
「……何とも言えません。私からはなんとも。雛里ちゃん、どう?」
急に話を振られた鳳統は慌てつつも所見を述べる。
「あわわ……。駄目です。勝ち目はないです。
まずもってお二人を前線に出したならば、敵はこちらの本陣を急襲してくるでしょう。
と言って、どちらかお一人ならば星さんに足止めさせられます」
それに、あの呂布に手傷を負わせたという顔良もいる。改めて袁家の分厚い陣容を再認識する。個の武勇でどうこうできるものではない。
いや、そもそも一騎打ちの優劣で戦場を語ってはいけない。そのような偶発的な状況を許すほど袁家は甘くないだろう。
少なくとも、自分たちの手持ちの兵力では如何ともしがたい。そう諸葛亮は内心歯噛みする。質も量もまるで足りない。将帥の優秀さならば引けを取らない自負がある故にそれが残念でならない。
未だ中華に影響を与える打ち手としてはその前提とする力がまるで足りないのだ。
この場で、一石を投じるとすればせめて。
馬家軍か曹家軍くらいの武威がないことには話にもならない。
「あ……!」
そしてその、状況を動かすに足る陣営が動く。
「あれは……?」
北郷一刀の呟き。
そう。
曹家軍きっての猛将夏候惇。それが少数の手勢を率いて、陣取る袁家軍に相対する。
陣頭の夏候惇は高らかに口を開く。
「曹家軍名代夏候惇である!洛陽への道を塞ぐ袁家に問いたいことがある!いざ尋常に応えられたし!」
そして状況を動かすのは曹操。夏候惇の口上を満足げに、不敵に笑いながら見守る。
その根底には怒りがある。
よくも自分をのけものにしてくれたな、と。
やられたままではいられない。それが曹操である。
◆◆◆
「ご報告申し上げます!今上陛下劉弁様ご無事!
並びに紀霊将軍は宦官誅滅したとのことです!」
伝令の声に張りつめていた室の空気が僅かに緩む。
「ご苦労様です。下がってよろしい」
そして平淡に響く郭嘉の声が、盛り上がりかけた場を引き締める。
なんとなれば、まだことが終わったわけではない。この、本営にありて諸侯軍と対峙する彼らにとってはこれからが本番といってもいい。
「ふむ、まずは陛下のご無事を確保できたようですな」
口を開いたのは張魯である。彼が華佗と共にこの本陣にいる意味は極めて大きい。
張魯と華佗以外に袁家以外の人物となると、孫尚香くらいのものである。
袁紹と、彼女を補佐する郭嘉。その護衛に楽進。袁術と孫尚香。その二人を典韋が守護している。まあ、袁術と孫尚香については孫家守護獣たる白虎に埋もれて安らかな寝息を立てているのではあるが。
ともかく、この場に五斗米道の二人がいるというのはこの上ない意味を持つ。漢中という要衝に根拠を置く五斗米道。南は劉焉、北は韓遂から有形無形の圧力を受けているその地、この勢力。それに袁家が後ろ盾になるということをわかりやすく表明している。
付け加えると、袁家の重要人物が負傷した時の備えという意味もある。なにせ、即死でなければどのような傷病であっても治してみせるという神仙の如き奇跡をもたらす、まさに神医なのだ。
張魯も華佗も。
「当然ですわ。二郎さんが陣頭指揮されてるのですもの」
くすり、と艶然と笑みを浮かべる袁紹。その背には光輝すら幻視されるほど。
「なるほど。二郎君は随分と信用されているようだ」
あら。これは心外な、と袁紹は異を唱える。
「信頼ですわよ?張魯さん」
「これは一本取られましたな」
ひとしきり笑みを漏らした後に、問う。
「ここからが難しいところですな。諸侯はいずれも洛陽の財貨を当てにしているのでしょう。
果たして、退けと言って退くものですかな?」
常に強大な勢力に脅かされてきた張魯としては疑問を呈さざるをえない。なんとなれば、利害、利益というものは道理や倫理を軽く踏みつぶすものだからして。
「郭嘉さん?」
袁紹はくすり、と笑って傍らの軍師に答えさせる。
「は。確かに諸侯軍は収まらないでしょう。ですが、それでも袁家軍と正面切ってまでの覚悟がある諸侯なぞおりません。
いえ、この戦力差で暴発するような愚物があるのならばこの場で潰してしまうのが最善。
そう、判断しております」
そう言いながらも郭嘉がその動きを読めないでいるのが曹家と馬家である。
前者はその計り知れない智謀において。後者はその果断なる蛮勇において、だ。もっとも、どのように動いても、必要とあらば叩き潰すだけの準備はしている。
郭嘉としてみれば、いっそ諸侯とまとめて始末してもいいのではないかとも思うのではある。あるのではあるが、抵抗勢力、反抗勢力は顕在化させておいた方がいい、という張勲の言。それを紀霊が容れたことによって、心ならずも。この上なく不本意ではあるのだが、大鉈を振るう機会を逸してしまっている。
それはいい。決まったことである。決まってしまったことだ。
与えられた条件下で最善を尽くすのが軍師の役目、とばかりに郭嘉は思考を切り替える。
これより先において彼女の出番があるとすれば、最悪の事態が起こった時のみであろう。
だが、そうはならない。その確信がある。なんとなれば。
「曹家軍に動きあり!陣頭には夏候惇将軍!後詰に夏侯淵将軍!兵力は五百強!」
やはり。状況を動かすのは曹家軍かと郭嘉は深く頷く。
「郭嘉さん?」
袁紹の問いにも臆することなく応える。何を畏れることがあろうか。なんとなれば郭嘉は、考えうる最良の一手を既に打ってある。
「は。ご心配なく。
なにせ、我が軍には一騎当千たる趙子龍がおります故に」




