朱に染めた日
――夜をこめて、鶏の空音は謀るとも
よに逢坂の関はゆるさじ
かつて孟嘗君の配下が、虎牢関と並んで難攻不落を誇る函谷関を抜いた時の故事。
この時代、というか一般的に門が開くのは夜明け以降である。
そしてそれを示すのは一番鶏の鳴き声であり、孟嘗君の食客の一人が鶏の鳴き真似が上手かったからなんとかなったとかいう逸話である。
それにちなんで、あたしゃ函谷関よりもお安くないのよ、という清少納言のお言葉である。
いや、口説こうとしてこんなこと言われたらひくわー。間違いなくひくわー。
いや、意味は分かるよ?分かるけどどう答えたらいいのさ、という話である。そんな、普通の会話にそんなレベルの知識とそれを応用させての返答とか無理でしょ。俺は無理だ。
考えたら華琳とかネコミミとかはそこいらへんの要求レベル高そうである。下手な答えをするだけで好感度ダウンしそうな感じ。いまいちこう、俺を見る目が冷たいのはそこかなあ。くそ、文化人め!なんて時代だ!
などとぼんやりと考えている目の前で洛陽の門扉は音を立てて開いていく。
払暁にもまだ間がある未明のこと。別に鶏の真似をせんでも根回しさえしとけばこうやって開くということだ。そしてここからは速さが勝負。
ちらり、と振り返ると黒装束の軍団が控えている。彼らは張家の精鋭。そしてそれを統べる当主以外は髑髏の仮面。うむ、禍々しい仮面兵団である。
フフ、怖いか?俺はちょっとだけ怖い。ちょっとだけよ。
「じゃ、いくか」
それを率いる俺はというと紀家軍の将らしく白装束である。黒を率いる白。うん、なんか小洒落たことを思いつくかなと思ったけど、そんなことは全然なかったぜ。俺の暗黒面は仕事をサボってるなあ。
見習いたいものである。
じゃなくて。
無言で付き従う髑髏の仮面兵団。うむ。呼んどいてなんだがね。改めて、ものっそい不気味この上ない。
……率いる俺がそう思うのだからまあ、恐怖というものを振りまくにはちょうどいいであろう。
きっとね、多分。おそらくメイビー。
◆◆◆
屍山血河が築かれていく。それは人の手によってもたらされている。その光景は控え目に言って凄惨、無惨と言えるであろう。
命乞いをする宦官。逃げ惑う宦官。立ち向かってくる宦官。そのすべてが数瞬後には物言わぬ骸と化していくのだから。
黒装束を纏った髑髏の面の集団による殺戮。もはや虐殺と言っていい。
それらを睥睨し、ぴくとも表情を変えない紀霊。それをどこか可笑しげに眺めながら、彼は報告する。
「知恵の回る宦官は宮中に逃亡した模様です」
ち、と舌打ち一つ。
「いかがなさる?」
「疑わしきは、殺すべし。
やるなら徹底的にやらんといかん。
汚れは根こそぎ浄化するべし」
逡巡すら見せない。ここで後顧の憂いを断つ、とばかりに紀霊は命を下す。
にまり、と張郃は僅かに唇を歪ませて配下に命じる。
後宮のみならず宮中にも阿鼻叫喚が溢れる。溢れていく。
どれだけの返り血を浴びても張家の黒装束は其の色を変えない。ただ、死臭を纏うのみ。
官吏の幾人もが、ひげが生えていないというだけで冥府への旅路を余儀なくされる。
目端の利く者は、這い寄る死の気配から逃れるために局部を露わにして命を繋いだなどという話も残されているほどだ。
そして。
「な、なによ!私は一介の女官よ。どうして。あ!痛い!放しなさい!」
待ち人、来たる。
「逢いたかったぜ、李儒よ」
ぼそり、と呟く紀霊。そこには万感の思いが込められていても、声は枯れ果てている。
そして深く、ため息を。
その様に李儒は顔色を白くする。悟る。宦官誅滅。それすら欺瞞工作。その真意は宮中の奥にあり、手を出せない自分。それが主眼だと。
「な、なによ。どうするつもり?此度の董卓の暴挙については私のあずかり知らぬことよ。
私を責めるのはお門違いにも……び!
ぐ、ふ……。
が……」
容赦なく、幾度も加えられた鉄拳。
李儒は反吐と鮮血を撒き散らす。
「おお赤い赤い。
なんだなあ、中身は思ったより綺麗じゃないか。
もっとこう、どす黒い、名状しがたき何かが出てくると思ってたんだが」
倒れ伏す李儒に軽く――紀霊主観である――蹴りを加えてせせら笑う。
「な、にを。わた、しは。
漢朝の、た、めに」
抗う李儒の髪を掴み、倒れ伏していた顔を上に上げる。
「そりゃあ、ご立派なことだな。だがな、そんなことはどうでもいいのさ」
吐き捨てる。
「長かった。長かったぞ。こうして、お前と向き合える場。
俺がどれだけ逢いたかったか。少しは分かってほしいってもんさ、李儒さんよぉ」
くつくつ、と笑う紀霊に不吉なものを感じて李儒は。
「ま、待ちなさい。落ち着きなさい。わ、私を殺しても何も解決しないわよ。
そ、それに私は役に立つわよ。ねえ、それに、何でも言うこと聞くから。だから」
必死に媚を売る李儒に、いっそ穏やかと言っていい口調で紀霊は言う。
「何でも、って言ったか」
暫し瞑目し、食いしばった口からもたらされたのは、ただ一言。
「死、以外に貴様の出来ることはなさそうだな」
「ひ!嫌!死にたくない!逝きたくない!
た、助けて!お願い!」
お前が、手にかけた人たちは皆そう思っていたろうよ。
「光射す世界に、汝ら闇黒、棲まう場所無し――。
渇かせてやろうか、飢えさせてやろうか。それとも永劫に痛め付けてやろうか。
色々考えていたがな。何も残さず無に還れ」
三尖刀を、一閃。
そしてこの日初めて紀家の白装束が朱く染まる。
「お見事。本懐を果たした気分はいかがかな」
「知るかよ。クソッタレな気分だよ」
だが、それでも。
「姐さんや雷薄。それに気のいいあいつら。みんな、死んだんだ。死んだんだぞ。
みんな死んじまったんだぞ!
それなのにさ、彼奴がのうのうと生きているなんて、おかしいだろう?
ああ、そうだな。気分爽快ってやつ。それを、多少の泥で濁らせたらこんなもんかな」
これで、前に進めるというものさ。
嘯く紀霊に笑みを一つ。それを目にした紀霊がしかめ面で言う。
「何か文句でもあったら言っとけ。
言いづらいなら七乃なり風にでも言っとけ。
ため込んで、我慢して。それで、いいことなんてあんまりないからな」
はあ、と遠い目をする紀霊に張郃は表情を改める。
「いえ、この身。
いかようにも使い潰してくだされば、と思いました、が。
取り敢えず、どのようにお伝えしましょうか」
そうだな、と。暫し考えて。
「今回は、俺の私情で動いたところが大きいからなあ。
まあ、いいや。」
紀霊は、笑う。
「復讐するは、我にあり」
その言葉を伝えられた彼女らは、共に微笑んだ。
その笑みの違いは、対面した張郃のみが知ることである。




