収束への助走
「愛紗。お疲れ様」
北郷一刀は帰ってきた関羽をねぎらう。彼女は先ほどまで近隣の村落を巡り治安活動に励んできたのである。
「いえ、どうということはありません」
関羽の言は誇張でもなんでもない。あちこちと転戦しているのではあるが疲労の影すらなく平然としている。
いや、むしろ兵卒の群れに関羽という豪傑を宛てるというのが贅沢な話であろう。
「しかし、大忙し、だなあ」
彼の言に偽りはない。ここ最近――虎牢関が陥落し、洛陽まであと数日というところまできての足止め。それから劉備率いる義勇軍は東奔西走している。それまでの閑さが嘘のように。
「略奪、暴行。ひどいものです」
関羽は吐き捨てる。彼女の言は嘘ではない。後方にいた諸侯軍が合流してこの方、治安や軍規は乱れる一方なのだ。
そんな彼女は、気遣うような視線を送られているのを感じて慌てて取り繕う。
「ご安心ください。彼奴等の性根を叩きなおしてやりましたが……それだけです。命までは奪っておりませんし、致命的な怪我も負わせてはおりません」
数日悶絶する打撲くらいのものだ。骨を折ったりまでは及んでいない。言って聞かない相手にその鉄拳を振るうことに関羽は躊躇しなかった。切り捨ててしまいたいところではあったのだが、主たる劉備や、その軍師たる諸葛亮からも人死には避けるように言明されている。
関羽とて諸侯軍との関係を決定的に悪いようにしたい訳ではない。
例え正義がこちらにあろうとも、人死にが出てしまえばそれを口実に自分たちは不味い立場になるかもしれない。後ろ盾なぞない自分たちなのだ。
故に激発する可能性のある張飛は劉備や北郷一刀という安全弁から離すことは出来ない。
自然関羽のみが劉備一行と離れて行動しているのだが、それが自らに対する信頼の証であると関羽は理解している。
そして、だからこそ軽率なことはできない。例え目の前でどれだけの非道が行われていても、鉄の意志で関羽は激発をすることなく。だが、それでもその憤りは消えることはないのだ。
「どうして、このようなことに……」
関羽には理解できない。どうして同じ漢朝の民にあのようなことができるのか、と。
「――諸侯軍は常備軍ではありません。それが全てです」
静かに諸葛亮は応える。
「――っ。どういうことだい、朱里」
北郷一刀は問いを発する。関羽があのように苦しんでいるのだ。ならば、その理由を彼は知らずにはいられない。
「諸侯軍の多くは徴兵された兵です。故に給与は支払われません」
反董卓連合。しかして完全に常備軍なのは袁家くらいのもの。いや、輜重に至るまでにそうである袁家がおかしいのだ。
つまり、袁家軍は真に戦うための集団。戦うが生業。よくもそのような集団を設立せしめたものだ、と諸葛亮は改めて戦慄を禁じ得ない。
「だったら!さっさと洛陽に入るべきだろう!」
諸葛亮の言葉を受けて北郷一刀は苛立ちを覚える。どうしてこのようなところで足踏みをするのかと。
「おそらくですが、そのための交渉をしているのではないかと」
未だ洛陽には禁軍がある。そして禁軍との交戦は袁家軍としては何としても避けたいはず。
「此度の反董卓連合。袁家は極めて慎重にその歩を進めています。ええ。持っている影響力からすれば臆病と言っていいほどに……。
あくまで漢朝の臣として。けしてその矩を越えぬよう。越えてはいないと示しながら手を打っています」
いっそ迂遠なほどである。迂闊と言ってもいいかもしれない。
極端な話ではあるが、袁家単独でも洛陽に迫ることは可能であったろうと諸葛亮は思うし、鳳統も同意している。極めて高度に鍛えられた常備軍と、何より攻城兵器群だ。かつて思った通り、事あらば洛陽、とは言わずとも攻城戦を想定していたとしか思えない。
「じゃあ、あの、何進が下したという勅も本物だって朱里は思ってるのか?」
時系列を考えればあからさまに怪しい勅であるのだが。
「はい。極めて怪しいと言わざるを得ませんが、真であると思われます。
あの、紀霊将軍は極めて遵法意識が高いように思われます。
ここで彼が手配したならばそうなのでしょう」
諸葛亮としては、その勅が正規の手続きにより下されたとは考え辛いと思っている。だが、何らかの抜け道によりもたらされたのかもしれない。その仮説も捨てきれない。
「うーん。あれで、やることはきちんとやってるってことか……」
北郷一刀は呟く。好きか嫌いかと言えば嫌いな相手である。
が、やっていることは確かなのだな、というのは認めざるをえない。そしてそれは諸葛亮も大いに頷くところである。
「はい。紀霊将軍。恋さんと立ち会ったような武勇伝には事欠きませんが、真に評価すべきはその卓越した政治力ではないかと」
そう考えるとその手腕は恐るべきものである。
彼が袁家の武家筆頭となってから袁胤という不穏分子を除き、袁術という不和の種になりかねない人物を見事に駒として活かしている。
まさか入内させるとは。
袁家の威光はこれまで以上のものとなるであろう。このままでは、袁家にあらんずば人に非ずというほどに権勢を誇ることすらありえるだろう。
「なるほどなあ。そんなのに董家軍みんなの命を乞う訳か。なかなか大変だ……」
苦笑する北郷一刀に関羽と諸葛亮は肩に入っていた力が抜けるような感覚を覚える。
見据える目標は困難。それでも気負わずに前を向く彼の言葉に決意を新たにするのだった。
◆◆◆
詠ちゃんが去ってから数日。洛陽に進駐するスケジュールは皇甫嵩とやりとりし、あらかた固まってきた。
「明後日だ。明後日。日輪が中天に差し掛かるころに洛陽に入る。そう諸侯軍に伝えろ」
そして、けりを、つけよう。
「諸侯軍には前祝として酒を配れ。秘蔵の火酒、全部配って構わん。ありったけを配れ」
そして。
「張郃。配下から選りすぐりをそうだな。百ほど選んどけ」
俺の言葉に張郃はニヤリ、と愉快そうに口を歪める。正しく俺の意図を汲んでくれたようだ。
「ほう。張家からということでよろしいのか?髑髏の面を集めなさるか。出立は?」
「払暁前。もっと言うと、一番鶏の鳴く前」
俺の言葉に稟ちゃんさんが問うてくる。
「それで、よろしいのですか。これまでの名声を地に落とされますか」
幾度か話し合ったことではあるのだが、それでも問うてくる。
「くどい。もう決めたことさ」
別に俺が手を下す必要はないというのはその通りだ。でも、さ。
更に言い募ろうとする稟ちゃんをどこか可笑しげに張郃は眺める。それに構わずに俺は言葉を続ける。
「殴られっぱなしは性に合わんからな。というよりだ。袁家は武家よ。
舐められたままでいられるかよ。このまま矛を収められるものかよ。
――玉無しどもと同じ空気を吸うのもこれまでだ」
そして。
「これは洛陽にて散った者たちの弔い合戦でもある。袁家に仇なすということの意味を教育してやろうじゃあないか」
なに、禁軍とは話が付いている。後宮に残っている男は宦官のみ。ちょっとしたお掃除。それだけのこと。
宦官の誰が悪くて誰がもっと悪いなんて知る術もないならばまとめてポイするのが合理的な発想というものさ。
「最優先は弘農王……いやさ正当なる皇帝陛下劉弁様の身柄。そして宦官は殲滅だ」
「降伏か、死か、ということですかな?」
「違うね。逃げる奴は宦官だ。
降伏する奴は狡猾な宦官だ。
抵抗するのは訓練された宦官だ。
悉く、殺せ。宦官は悪だ。ゆえに鏖だ」
悪、即、斬。それを体現するだけのこと。
「承知した。なに。禁裏にて血の雨を降らすことに臆するようなものはおりません」
汚れ仕事は張家の誉。その判断はこの上なく正しいと言わんばかりに、恭しく張郃は一礼し、その身を闇に同化させる。
「何も二郎殿が手を汚すことはないでしょうに」
苦い声に苦笑する。
「怨将軍とか、英雄とか、そういうのは、いいのさ。
もとより身の丈に合ってなかったしな。だから、いいのさ。いいんだよ」
それに。
「そろそろ路線変更しようかなと思ってたとこだ。
そういうのは、もっとちゃんとした英雄が背負った方がボロが出ない。そして袁家、いやさ紀家には正真正銘の英傑がいるし」
一騎当千、趙子龍。
「天下にその名を轟かせるのは星の方が似つかわしい。そうだろう?」
「――貴方は!」
尚も言葉を重ねようとする稟ちゃんさん。
だが刹那の感情の爆発。その後に紡がれた言葉は別方向からのアプローチであった。
「では、譲られたその英雄の座。星はどう思うか。そして十全に槍を振るえるとお思いですか」
「む……」
流石である。そうきましたか。そして困る。
つまるところ宦官どもを皆殺しにするってのは、半ば俺の私怨と言ってもおかしくないからなあ。そこはまあ、怨将軍だから許してほしいな。
とか愚にもつかないことを考えていたのだが、思わぬところから助け舟が出た。ようそろ。
「稟よ。主をそう苛めるものではない。主には、いやさ男には譲れぬ思いがあるものだ」
そして助け舟を出してくれたのは星でした。いやなんで君ここにいるのん。
「ふ。そう不可思議な顔をすることもないでしょうに。まあ、種明かしをすると簡単ですがな。張郃どのから聞いたからですな。風からの伝言通り護衛を兼ねて控えさせていただいただけのこと。
まあ、主には言いたいこともあるのですが」
それでも、と。ニヤリ、と。
「天下一を目指すというのはこの身が発した志。そのために主はその身を挺してまでも飛将軍と渡り合う機会を作ってくださった。
――もっとも、それでも。それでも討ち取れなかったわが身には忸怩たる思いがある」
暫し視線を地にやり、改めてこちらを見やる。
「紀家軍の指揮、承りましたとも。
下駄をはかせていただいたとは言え、一騎当千のこの身。けして禁裏、いやさ洛陽に余人を近づけませぬとも」
「……すまんな。星」
「何をおっしゃるか。嬉しいのです。
主に受けた恩は計り知れない。ようやく。
ようやくこの身で、この武で返すことができるのです。喜んで果たしましょうとも。
造られた英雄大いに結構。
もとより流浪の、一介の風来坊のこの身。望外の栄光。
見事果たしてみせましょうとも」
そして。
「それに主よ。それがしが聞きたいのはそのような謝罪の言葉ではない。感謝を、鼓舞をこそほしいものです。
と、女からここまで言わせる御身は相当に罪作りですぞ?」
艶然と笑む星。強張っていた思考が動き出す。そうだな。悲壮ぶるのは俺らしくない。
きっとね。
「星、ありがとう。そして何人たりとも洛陽に立ち入らせるな。
――頼りにしてるよ」
「承った。なに、はねっかえりを押さえるだけの簡単なお仕事だろう?」
不敵で無敵。一騎当千な星に見送るしかない俺であった。
あ、微かに。微かに苦笑する稟ちゃんさんを見れたのもすごい収穫だなとかなんとか。
うん、ありがとな二人とも。
それはそれとして。
けじめはつけんとな。
まあ、色々と綱渡りではあるのだが、ね。
後始末を、決着を。
いよいよ、だ。




