幸福な結末と或いは別離
虎牢関を落とした後、反董卓連合は一度その軍勢を集結させていた。
その大軍を虎牢関に収容しきることはできず、洛陽まであと二日ほどという地点に拠点を築いている。
圧倒的な戦力を背景に無言の圧力を洛陽に加えているが、なぜ攻め寄せないのかという不満が諸侯軍からは寄せられている。
その不満は、諸侯軍がこれといった武勲を挙げていないということの裏返しである。
董家軍は中華でも屈指の強さを誇る軍勢であるというのは共通認識であり、そのような精強な軍団に手持ちの、さほど練度も高くなく数も多いとはいえない軍勢をぶつけるのに躊躇していたからこそ活躍の機会がなかったのである。
無論諸侯もそれを理解しているのだが。いや、だからこそ残されているであろう、武勲を立てる機会に群がろうとしているわけである。
「つか、ある意味、皆暇を持て余しているってことだよなあ」
誰にともなく呟いたその言葉に、関羽は諫言を以て応える。
「ご冗談でもそういうことを口になさらないでください。我らはあくまで後ろ盾すらない義勇軍。つけ入るすきをご主人様自ら作られてどうするのですか」
その言葉に北郷一刀は苦笑する。
「いや、ごめんよ愛紗。そういうつもりはなかったんだ」
そして内心感謝する。
何かと口うるさい彼女がそれでも付き従うのは万が一のことに備えてのこと。常在戦場とはよく言ったもので、彼女は常にその凛とした態度を崩すことはない。
むしろ、もっと楽にしてくれてもいいのになあ、と北郷一刀は思うのである。
「翠のとこに行くんだからそんなに気を張らないでもいいんじゃないの?」
馬家軍は反董卓連合においても有数の武家である。その武力は質も量も袁家をして一目も二目もおかざるを得ないほど。その馬家の本陣に向かうのだから、そんなに気を張る必要はないのに、と。
「いえ、だからこそお傍を離れるわけにはいきません」
その、いかにも暢気で、器の大きさを感じさせる言に関羽は首を横に振る。なんとなれば所詮自分たちは義勇軍。
有象無象を束ねている存在である。軽んじられるのは慣れているが、思う所がないわけではない。武門の名家である馬家が相手ならばなおさらのことだ。
舐められて、たまるか。
関羽の心境はこれにつきるのである。
◆◆◆
「ああ、一刀か。久しいな。うん」
北郷一刀は馬超のその言葉に、その様子に内心ため息を大きく吐く。
だって。もっと、もっと。
この子は元気で、全身でその清冽な気を発していたのに。見ていられない。見ていられないほどに鬱屈としているのだ、あの錦馬超が。
だからこんなことを言う。
「翠、翠だよな?」
「は?あたしはあたしだ。何を言ってんだよ一刀」
その声も弱々しく感じる。北郷一刀の知る馬超ならば、そのような妄言あれば刹那の間もなく鉄拳制裁が来たはずなのだ。だから、らしくない。後ろに控える関羽すら違和感を覚えるほどである。
「無理するなよ」
そして張りつめていた糸はその一言で崩壊する。
「は?あたしがなにを無理してるって?なに?あたしのなにを知ってるのさ。何でそんなことを言うのさ。
いい加減なことを言うのだったら、一刀と言えどただじゃおかないぞ……?」
湧き起こる殺気は本気のもの。無言を貫いていた関羽が主を庇うべく前に出ようとするのを制して北郷一刀は言い募る。
「分かりはしない。
でもな。
翠がそんなんで馬騰さんが喜ぶのかな?」
その言葉に、名前に馬超は激昂する。
「ち、父上のことを!言うな!何も知らないくせに!」
反射的に出た槍を関羽が弾く。
それに一層激昂して言い募る。
「父上が、死んだんだぞ!あの父上が!それでなんの馬家軍だよ!
まだ、もっと!教えてほしいことがたくさんあった!あたしが馬家を継ぐに値するだけの武を持っているって、伝えたかった!全然、伝えられなかった!」
力任せの連撃。関羽は苦虫を噛み潰したような貌でそれを弾いていく。
「それでも、翠は今、生きているだろ!馬騰さんが今の翠を見てどう思うか考えろよ!
そんな翠、見てられないよ。なあ。翠……」
「なんだよ!なんなんだよ一刀!お前は一体なんなんだよ!」
手にした愛槍――銀閃を取り落して馬超はこれまで抑え込んでいた悲嘆を吹き出す。
嗚咽を漏らす。
その馬超に、北郷一刀は優しく声をかける。
「なあ、翠。馬騰さんは凄い人だった。俺なんかが言っても説得力がないと思うけどさ。
そんな俺でも分かるくらいに馬騰さんは凄かった」
その言葉に馬超はこくり、と頷く。
「だからさ、翠。馬騰さんの死にざま、ちゃんと、さ」
思えば、敬愛する父の死にざまを知っていなかったのだと馬超は愕然とする。
「そ、そりゃそうだけど……。でも、張遼は絶対に許さないからな!」
その、抗う声に北郷一刀は苦笑する。そんなこと一言も言っていないのに、と。
「いや、まあ、なんだ。話は聞こうよ、な?」
馬騰さんの最期を看取った事には違いないからさ、という言に馬超は無言で頷く。。
暫しの沈黙。そして。
本郷一刀と共に張遼のもとを訪ねる。伝えられる言葉。最期の言葉。
◆◆◆
「一刀、済まなかったな」
詫びる言葉。歩み寄りの言葉。
いくらか湿り気のある言葉。
「いや、いいんだ。それより、よかったな。霞と翠が仲直りできて、さ」
……一触即発、紆余曲折あったものの、馬超の、張遼との面会は最上の結果であったと言っていいだろう。
「お蔭で、父上の言葉を聞けた。そりゃ、さ。張遼には思う所がないわけじゃない。でも、一刀が言った通り、父上はきっとそんなことを望んでないと思うんだ」
――万里を駆けよ。
その、馬騰の遺言はようやく愛娘に伝わったのである。
「一刀が言った、さ。憎しみは何も生まないって、こういうことなのかな。
一刀の言う通り、確かに霞が死んでも父上が帰ってくるわけじゃあないし……」
未だ煩悶としている馬超だが、それでいいと北郷一刀は思うのである。だって。
「うん、そうだな。翠はそうやって笑ってる方が可愛いよ」
こんなにも馬超は輝いているのだ。鬱屈としていた先刻とはまるで別人がごとく。
「な、なななな!そ、か、可愛いとか、何を言うんだ!」
慌てふためく馬超を見て北郷一刀は思うのである。馬家軍を率いると言っても、やはりというか、年頃の少女なのだなあ、と。
そして思うのだ。きっと彼女の父たる馬騰もそのように、笑っている姿をこそ願っていたのではないか、と。
色々と抗議の声を上げる馬超と戯れながら、思う。皆がこのように笑えるならば、それはきっと素敵なことだろう、と。
◆◆◆
洛陽まであと二日ほど。虎牢関より先は遮るものもない。陣を構えて諸侯軍の集結を待つ。いやさ、流石に今いる兵力で突入というわけにもいかん。洛陽を舞台に手柄争いとかされたらかなわんからな。
専ら最近は、逸る諸侯とか春蘭とか春蘭とか春蘭をなだめるのがお仕事なのである。あと春蘭な。
ええい、無思慮に洛陽につっかけて禁軍と遣り合うつもりかよ!
だが、そんな忍耐の日々もこれまでだ。
「うし、張郃ご苦労さん」
俺は張郃が持ち帰った報に胸をなでおろしていた。
「どうやら禁軍と相対することは避けられたようですね」
背後に控えていた稟ちゃんさんの言う通り、風がやってくれました。これはファインプレーです。
押し寄せる反董卓連合軍に対して洛陽を、禁裏を守護する禁軍。その兵権を握っている――その兵権のありかは風がつきとめたものである――皇甫嵩と風が極秘裏に会談を行った成果だ。
見事無血開城をとりつけてくれた風には流石の一言である。
「禁軍とやりあうつもりはないし、洛陽を攻めて花の都を灰塵とするつもりもないからね。
というかそんなこと間違っても起こってほしくないっての」
俺が今一番恐れているのは洛陽が戦場となり、荒廃してしまうことだ。
史実……と言っていいか分からんが、俺の知る歴史的なものでは董卓が洛陽を焼き払った。長安への遷都と併せての焦土作戦は見事の一言だ。
荒廃した洛陽の再建は曹操も諦め、許昌に帝を招くこととなった。
だが、と思うのだ。果たして董卓の焦土戦術のみでそんなにも荒廃するものか。と。
そして、反董卓連合は収穫なく洛陽を後にするのだが、それまでの戦費の回収はどうしたのだろうか、と。
ぶっちゃけ、洛陽からの略奪で補填したんじゃないかなあなんて思ったりするわけである。そりゃまあそうであっても史書には残らんさね。
歴史は勝者が作るものだから。それはいい。俺の妄想である可能性も高い、が。
既に洛陽近辺に於いて諸侯軍の兵と思われる奴らが、隠れて略奪暴行をしているという報告も上がっている。そりゃ常備軍として給与が支払われている袁家軍とかと違って徴兵された奴らはなあ。
それはいい。そこいらへんの治安活動は手柄を必死に上げようとしていた義勇軍に任せている。単発で兵卒が起こすそんな事件に対応しきれるならばまあ、たいした求心力である。むしろ義勇軍内部からそういった不逞の輩が出ないかなあなどと思うほどだ。
そんときゃこれ幸いと処分してやるんだがね。
そんな風に暫し思考に耽溺していた俺なのだが。張郃は、にまり、と口を歪めながらとんでもないことを言ってくる。風の差配らしいのだが。マジか。
マジかぁ。
「まあ、洛陽の内実に関してはお詳しい方から聞くがよかろうと思いますな」
そして張郃の手振りでその人物を招き入れる。そして、その名前、その姿に自分の正気を疑う。背後で稟ちゃんの息をのむ音に辛うじてこれが夢ではないのだ、と思い知る。そう、張郃が招き入れたその人物―――。
「賈駆殿です」
緑の黒髪、狷介そうに見えてたまに見せる柔らかい笑顔を彩る鋭い双眸。董卓軍の軍師たる詠ちゃんその人が、そこに、いた。
◆◆◆
張郃に招き入れられ、賈駆はその場に身を晒す。
突き刺すような視線は郭嘉のもの。
それによって、却って賈駆は落ち着きを取り戻す。その顔に微笑みすら浮かべられるほどに。
「――久しぶり、だな」
無表情で、なおかつ鋭い視線を寄越す郭嘉と違って紀霊の言葉には様々な思いが込められている。それを嬉しく感じてしまうのはきっと人として駄目なことなんだろうな、などと賈駆は思う。
「ええ、ほんと。
ほんとに久しぶりね、二郎……」
ややもすると万感の思いを込めそうになるその言を、はたして。無味無臭に自分は発せられただろうか?
くしゃり、と刹那歪む彼の貌に自分はどう映っているのだろうか?みっともなく、荒れた顔で彼の前には立ちたくなかった。
――正直頬はこけ、目の下にはくっきりと隈が現れている。肌はかさつき、唇はひび割れて。
それを補うために慣れない化粧を今日は念入りに仕立て上げている。おつきの女官には保障されているが、佳人に囲まれている男にすれば見え透いているだろう。
漂う沈黙。それに身体の奥底から込み上げる激情に飲まれないよう、賈駆は懐より書を取り出す。
「洛陽、それと禁裏の見取り図、それに警備の配置図よ」
「な――」
絶句する紀霊と言葉を交わさずに畳み掛ける。
「洛陽の門扉を守る兵は皇甫嵩に掌握されてるわ。禁裏は言うに及ばないわね。でも、これがあればある程度渡り合えるはずよ」
その言葉に紀霊は瞑目する。
くすり、と漏れそうになる笑みを噛み殺す。思えば、目の前の青年の浮かべるこの表情が、賈駆は嫌いではなかった。
自分や、配下の軍師には到底及ばないと苦笑する彼は。それでもこの表情をするたびに、自分では思いもつかない案を――突飛過ぎて現実的でない時もままあったが――提示したものだ。そんな彼をからかい、彼と語らう時間は賈駆にとってもかけがえのないものであったはずなのだが。
だから、瞑目している彼に、問うてしまう。
「ねえ、なんで、こうなっちゃったんだろ、ね……」
それは彼女なりの、精一杯の甘えであった。
それを知ってか知らずか、見開いた紀霊の目。いつものようにへらへらとしてくれたらよかったのに。
見据えた目は、真剣そのもの。
だから、甘えてしまう。いつかのように。いつものように。
「ねえ、どうしたらよかったんだろう……」
それを、俺に言うか。今になって俺に言うのか。
そんな心の叫びを感じるくらいに賈駆は紀霊と通じ合っていたのだな、などとぼんやり思う。そして、ひび割れたような、途切れ途切れの叫びに身を引き裂かれる。
「言ってくれりゃ、よかったんだよ!言ってくれれば!なんとでもしたさ!したよ!
なんとでも、したさ……」
激した、或いは悲嘆にくれる紀霊の激情に言葉を喪う。なによりその熱さに。
「言ってくれれば、なんとでもしたさ。例えば、何進に内密に打診すりゃあ、月の参内を命じたろうさ。
そうなりゃ、漢朝総出で月の捜索さ。いかに漢朝の闇が深くても、それでも何進はそれをすら制してたんだ。
奴の一言あれば、あの政治的化け物が動けば!」
その叫びは賈駆の全身を打ち据える。
「そっか。そうか……。そうだよね……」
無論、賈駆とてそれは検討した。だが、万が一を考えてできなかった。親友たる董卓の身の安全を思うが故にできなかった。それが正しいと知っていても、できなかったのだ。
「ほんと、ボクって、ほんとに、馬鹿だ……」
その結果がこれだ。
「ボクって、ほんと、馬鹿……」
顔がくしゃりと歪み、嗚咽が湧き出ようとするのを必死に抑えて言葉を継ぐ。せめて、不様は晒したくない、これ以上。
これ以上。だって。
「……執金吾の権でも月の行方は知れなかった。だから、月は、月を浚ったこの度の乱の首謀者は」
畏れ多くもかしこき禁裏に。
それこそが賈駆が自ら足を運んだ理由。せめて、自分たちを陥穽に落とし込んだ首魁くらいは間違えなく伝えたい。
「悔しい。悔しいよ、二郎。
月も、ボクも。一生懸命だったのに。頑張ろうとしてたのに。それでもきっとボク達は世紀の謀反人。 悪逆非道の佞臣ってなるのが、悔しいよ」
伝えようとしたことを伝え、やはり甘えてしまう。言わずもがなのことをそれでも言ってしまう。そんな自分を馬鹿だなあと思っても、最早止まらない。それでも。
「それでも……好きだった。ううん、好きよ、二郎。
うん。愛してる……」
閨にて、幾度も囁かれた睦言。けして返さなかった男のそれに応え、こらえきれずに双眸から溢れる涙。
「好きよ、二郎」
だから。
ボクのこと、忘れないで……
精一杯の笑みを浮かべて賈駆はその場を去る。
くしゃり、としたそれ。柔らかな、透きとおったその顔を。紀霊は生涯忘れることはないだろう。




