波紋
「おや、虎牢関が落ちましたか。予想より早かったですねえ。
しかし、二郎さん自ら矛を交えるというのはいただけません~。これ、誰もお止めしなかったのですか?」
小首を傾げる少女の表情は眠たげであり注意力散漫といった風ではあるが、それは擬態であろうと張郃は推測している。
なんとなれば目前の少女――程立――は単身洛陽に残り、後方より董家軍に有形無形の被害を与え続けていたのだから。まあ、その功績はごくごく限られた人物しか知ることはないであろうが。
「ふむ。紀家当主の強い意向とのことだったな。それに文、顔の当主までが賛同したならば否やはないだろう」
反対意見も根強くあったが、押し切られたというのが実際のところだと張郃は答える。
「それでは致し方ありませんね~。まあ、それは置いておきましょう」
そのような綱渡りをさせたのは自分にも責任があると程立は追及の手を緩める。内心忸怩たる思いはあるのだが、毛ほどにも顔には出さない。
「それでは参りましょう。護衛の方はお願いしますね?」
「ふむ。それは一向に構わんが……」
この期に及んで誰と会うのだという視線での問いにくふふ、と程立は笑う。
「今日は忙しいですよ~。まずは賈駆さんのところですねえ。それからはまあ。その後に決めましょうか~」
ふむ、と張郃は頷く。
「もとより異存はない。虎穴に入ったとしても、君一人くらいならばなんとでもしてみせよう」
「これは心強いですねえ。そのような事態は起こらないとは思いますが、その時はお願いします~」
にこやかに笑う程立。その胆力を目にして、張郃も感嘆の念を惜しまない。
そこいらの自称武人よりもよほど腹が据わっている。
「いえいえ、風は出が庶人ですから~。この程度は鉄火場とは言えません~」
頼りになる護衛もいますしね、と柔らかな笑みを浮かべて言う。
「そう言えば二郎さんと初めてお会いしたのも野盗に襲われて万事休す、という時だったのですよ。ええ。あの頃は毎日が生きるか死ぬかでしたねえ」
程立は刹那どこか遠くを見るような目つきをする。
「ふむ。鉄火場にて狼狽されるよりは余程いいな。では、参ろうか」
彼らが向かう先は紛れもなく戦場。血の一滴流れることもない戦場。だが、その結果いかんでは屍山血河が生じるであろう。
「はいはい、よろしくなのですよ~」
そのような気負いなぞ一切なく程立は含み笑いを一つ漏らすのみであった。
◆◆◆
「……そう、虎牢関が落ちたの」
賈駆は嘆息する。伝令より早くもたらされたその悲報。それが意味するところを解さないほど鈍ってはいない。
「どれだけ袁家の諜報力は凄いのよ。まあ、今更だけどね。虎牢関失陥については今初めて聞いたわよボクは」
その一言でも千金の価値がある。どうやら賈駆はここに至って情報を出し惜しみするつもりはないようである。
「ではでは、単刀直入にいきましょかね~。
董卓さんはご無事ですか~?」
その言葉に賈駆は僅かに身を震わせながら首を横に振る。
ふむ、とばかりに程立は数瞬瞑目する。
双眸には深く隈が刻まれ、疲労の色がいかに濃くあろうとも賈駆の能力については高く評価しているのだ。
その彼女が、執金吾――洛陽の治安を司る役職である――の権限をもってしてもその足跡が掴めぬというのはどういうことかと。
そして、至る。
「――さて、かしこき方についても?」
その言葉に賈駆はバリ、と頭を掻きむしる。緑の黒髪が乱れるのを惜しいな、とあの青年ならば思うのであろうか。益体もないことを程立は思う。
「――初手でやられたわ。禁軍は皇甫嵩の手の内。禁裏にボクの手は及ばない」
「結構。ではこれにて失礼するのですよ~」
用は済んだとばかりに程立は室を辞そうとする。
「待って!」
「……何か?」
その、程立の問いに賈駆は口ごもる。
「え、その。ね。あの……」
いっそ優しい貌で程立は応える。
「後はお任せくださいな。ええ、後始末はきっちりと。それはもうきっちりと致しますから。
――二郎さんと、お会いする機会も作りましょうからに」
賈駆は瞠目し、しばし言葉を失う。そして辛うじて言葉を捻りだす。
「月を、よろしく。そして。
――二郎にも、よろしく伝えてちょうだい」
にこり、と無言で程立は踵を返す。ここからは時は千金に値するのだ。寸暇も無駄にできない。
「やれやれ、厄介なことなのですよ」
だがまあ、と思う。洛陽に踏みとどまっていたのは無駄ではなかったと。
矢継ぎ早に指示を出すそんな程立に張郃無言で付き従う。寄り添う影のごとく。
◆◆◆
「なんと、虎牢関がもう陥落したというのか」
嘆息交じりに劉協は瞑目する。西の函谷関と並び称され、天下に鳴り響いた要害がこうもあっさりと落とされるものかと。
「まあ、それは気にせぬがよいでしょう。なにせ守護するのが董家軍。かの軍は騎馬を以って敵を討つが本領です。もとより拠点の防御については不得手極まる」
相性が致命的に悪かったと皇甫嵩は首を振る。
彼の後ろに控える王允と李儒は身じろぎひとつせずに皇甫嵩と劉協のやり取りを注視している。
今や賈駆がなりふり構わずただ董卓の行方を追うことに全力を尽くしている現状、洛陽に於いて漢朝を動かしているのはこの二人である。政務を劉協が、治安や軍事――と言っても洛陽に限られるが――を皇甫嵩が担っている。
お世辞にも大過なく運営しているとは言い難いが、それでもいいというのが両者の共通した認識である。あくまで董卓が相国として全権を担っている。暴政ならば董卓の責任、うまく回ったら自分たちの尽力の成果ということだ。
「しかし、袁家の怒りは予想以上のようでした」
いささか芝居がかった仕草で皇甫嵩は肩をすくめる。
「む。まあ、無理もないか。当主自らが身の危険を感じての逃避行。聞けばあの豪奢な髪をも自ら切り捨てたとか。いや、もったいないことだ」
劉協はかつて見かけた袁紹の、光輝を背負うが如くに輝いていたその容貌を思い出して惜しむ。
「それだけではありません。董卓の手の者が袁紹殿の逗留地を襲った際に、かの匈奴大戦よりの古参の宿将雷薄、更には袁家の幹部候補生が多数討死しております。
あれは、いかにもまずかった」
せめて、やるならばきっちりと袁紹の首級を上げないと。それができないならば次に繋げるための布石にするべきだ。それすらできないからこうなる。
皇甫嵩は刹那その秀麗な顔を歪めるが、気を取り直して言葉を続ける。
「そう、袁家は本気です。勅すら無視するほどに」
「うむ、そのことよ。何進より事前に密勅があったというが真だろうか」
劉協は懸念を口にする。切り札の一つであった勅命。それをすら袁家はものともしない。勅を以って勅を制するなぞ埒外にもほどがある。
「……なんとも言えないですね。ただ、先ほど程立という人物と話しました。かの怨将軍紀霊の腹心です。何とも読めない人物でしたが……」
茫洋と、掴みどころのないその言動には流石の皇甫嵩もその真意を掴むのは容易ではなかった。無論それは意図的なものだ。
こと鉄火場修羅場をくぐるという意味において、程立の経験は皇甫嵩を遥かに凌ぐ。火花が散るようなその戦場での一挙手一投足に至るまで細心の計算に基づくものである。例え傍目にはいささか呑気な小娘に見えようとも。
その程立をして最大の警戒を抱かせる皇甫嵩こそ傑物であったろう。失意のどん底にある賈駆から情報を吸い出して尚、傍らに張郃を控えさせていたのは故あってのことなのだ。
けして程立は相手を甘く見ない。俯瞰し太極から見据えることこそが彼女の本領だからして。
「ある程度の流血はやむを得ないでしょうね」
その言に胡乱げに劉協は問う。
「いささか抽象的だな。袁家は何を求めている?まさか帝位なぞということはなかろうな」
「袁家は北方の防壁にして漢朝の藩屏。そこは揺るぎませんよ。ただ、袁術殿が輿入れする以上、帝位は……」
「劉弁のものとなる、か」
苦さを隠そうともせずに劉弁は口惜しそうに嘆く。あの惰弱、無能、無気力の凡人に帝位を、至尊の座を再び与えねばならないのか、と。
「ですが、劉協様におかれましては陳留王の地位を用意する準備があるとのことでした」
隠居隠遁の必要もなしということである。むしろ、これからも漢朝に影響力を保てるということ。
「ふむ、中々に殊勝ではないか。いや、漢朝の行く末を見れば当然の判断か……」
つい先ほどまでは偽帝として討たれる可能性すらあった劉協は安堵する。なかなか袁家も分かっているではないか、と。
「ええ。ですがここは一度お姿を隠すべきかと思います。邪知暴虐の董卓とは無関係であるということを示すためにも。あれと一連托生する気はないのでしょう?」
可笑しげに、唄うような皇甫嵩の言に内心苦々しいものを感じながらも劉協は頷く。
「そう、だな。一時の雌伏。致し方あるまいて」
返り咲く際には、と劉協は思いを巡らす。
なに、宮中は如何様にもなる。宦官勢力は曹操が押さえるのであろうが、それはきっと袁家の掣肘により大幅に打撃を受けるだろう。
ならば、地力に勝るであろう自分が主導権を握ることができるはずだ。
同床異夢。ほぼ同じ思惑を抱いているのを知ってか知らずか。皇甫嵩と劉協は比較的穏やかにその場を後にするのであった。




